読書日記(36)

2017.06.10
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#6月3日 昨日の夜からジョン・マグレガーの『奇跡も語る者がいなければ』を読み始めた。教えてくだすった方がなんとなく読みづらい感じで読んでいます、ということをおっしゃっていて読み始めたらなんとなく読みづらい感じで読んでいた、それが昨夜だった。時間がぴったりと止まっている。「活人画」と文中にあったけれど今のところまさにそんな様子で、時間がぴったりと止まっている。止まった人たちを一つずつ紹介していく、そんな感じで、文章でなにかを書くということは言ってしまえばそういうものでしかないというか、線で進むしかないものだからそうなるほかないのだけど、それにしても止まっている、という印象はどうして生まれるのだろうか。それにしても止まっている人たちを見ていると『タレンタイム』の国歌斉唱の場面や、アンゲロプロスのいくつもの場面を、思い出すというかいま思い出した。雪だけが静かに音もなく降っている。
ところで原題は「If Nobody Speaks of Remarkable Things」で、「miracle」ではなかった、リマーカブルシングス、なんだかいい。気に入った。
夕方まで完全に暇で絶対にバジェットには乗らないと思っていたら夜で挽回してぴったり目標値に達し、そのため大変に疲れたためうれしい疲れ方だった。よかった。
ビール、ウイスキーウイスキー。『奇跡も語る者がいなければ』を読んで夜が更けた。
身に着けているのはホットパンツとブラだけの、とても背の低い女の子もいて、足の爪も手の爪と同じ紫とピンクと緑に塗ってあり、彼女がぽんと手を叩き、紙やすりでペンキを落とした二十五番地のマド枠を見て、ほら見てよ、素っ裸になったみたいと彼女は言い、淡い青のペンキの缶がいくつか置いてあり、その背が缶の側面に垂れているのを彼女は見て、刷毛やスクレーパーのことも見て、素敵な色だね、きっと素敵になるねと言い、しかし誰も聞いていない。
ほとんど汚れていない白いシャツを着た男の子もいて、ゆるめたネクタイが首のまわりに輪をつくっていて、彼は十九番地の庭の塀に跳びのって、一本足でバランスをとり、しーっ、聞こえるかいと彼は言い、ほかの者たちも立ちどまり、何がと聞くと、何も音がしないのがさ、何も音がしないのが聞こえるかい、いいもんだねと彼は言い、ぐらりと塀から落ちながら、ベージュのパンツの、眉にピアスの男の子が受けとめてくれないかなと思っている。
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(p.21,22)
いいよ、いい、いい、と声を出していた。
となりの十七番地では、足の爪に色を塗った背の低い女の子が、けど見た? バルコニーのあの男の人、よかったよね、あの人、よかったどころかスペシャルだったよねと言い、そのスペシャルという言葉を苺でも味わうように言って、ほら、バルコニーにいた人だよ、スピードやってて、ずうっと身を乗りだしたままで、落っこちそうなくらいでと彼女は言い、みんなも彼女が言っているのが誰のことなのかちゃんとわかっていて、その男はたいていの週、同じ場所にいて、板金工みたいにがんがんとリズムをとり、ふたつのこぶしを下に向かって激しくつきだし、磨いて光った頭から汗を飛びちらせている。
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(p.24)
いや、すごくいい。すごく好きだぞ、と思っていて意外な気分になっている。昨日の夜読んだ最初の十数ページの感触はかなり危ういものだった、これは俺は全然しっくり来ないんじゃないかなと思っていた、それがこんなにすぐにぴったり来るとは思わなかったし、けっこうこれは極度にとつけたい程度に好きなタイプの何かしらなような気がしてきた。最初は翻訳の文章も、これはしっくりこない翻訳の文章かもなとそう思っていたのが、ひといきに「もうこの人しかいない」というような感覚になっているから簡単なものだけど、すごく心地がいい。うれしくなって寝た。
##6月4日 いくらかぶりに小説というものに触れてそうなったのか、早起きをして小説を書こうとしたら気持ちが途切れたのを感じた。飽きてきたのかもしれない。150枚ほどに今のところなったし、小説をどこかに着地させることはできるだろうと思ったが、自分の書いた文章にどこまでワクワクできるのか、となったとき、今書いているものはどうなんだろう、という気が起きたらしい。大学時代に小説を書いていたことがあったというか大学時代は僕は小説を書いていたそういう時代で、そういう時代で書いた一つの中編があり、僕はそれがいつまで経っても超えられないものになっている、あれがいちばん書いていて面白かったし、また、あとになって読み返しても面白かった。初めて書いたものというわけではなかった、4番目とか5番目とかに書いたものがそういうところに至ったというのは、僕にとっては他に感じる機会のない「成長」みたいなもののひとつのわかりいい形で、だからあれを書けたことは僕はうれしいことだった。それはうれしいことだったが、あの書いていても面白い、読んでも面白い、というのを今回は超えているだろうか、といえば怪しい。書き上げることが目指されすぎている感じがある。あのとき僕は書いている時間それ自体が完全に楽しいものだったその感じは今回は薄い。
そういうこともあって、なのか、なんなのか、今朝は興が乗らなかった。そのためグリーンピースのご飯を炊いた。その旨をゲラゲラ笑いながらインスタに投稿した。
アホほど暇な時間ができたので本を読んでいた。けっこう持っていかれている感じがしている
と書いたところで忙しくなって、目が回るような忙しさで、そして今日のそれはとても楽しさを伴うものでとてもよかった。
けっこう持っていかれている感じがして、とてもうれしい。
わたしはシャツとブラを脱ぎ、指で自分の皮膚をすごくゆっくり触りだし、輪郭をなぞり、盛りあがったところや筋のついているところを押していった。
まるで肌の上の傷が点字みたいに読めるかのように、あざや傷跡や染みのひとつひとつに指を這わせていった。
自分が何を探していたのか、わたしにもよくはわからない。
何か新しいもの、目に見えて変わったところ、指さして、ああ、これなんだ、ここからはじまっているんだと言えるようなものを見つけたかったんじゃないかと思う。
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(p.37)
いつからはじまっていたのかはわからないので言えないがここ数日で手のあかぎれが極めて悪化して何かを持つだけでけっこう強い痛みが走るようになっている。調子がいいとすぐに油断してハンドのケアを怠って、こうなる。こうなるとさすがに支障をきたすのでハンドのケア、傷口に絆創膏を貼ったり保湿剤をつけたり、を頻繁にするようになって、しばらくすると回復して、それですぐに忘れて怠って、またこうなって、を繰り返す。今回の悪化はでもひさしぶりのレベルで激烈にひどい。左手だけで9枚の絆創膏を貼っている。
ビール。ウイスキー。読書。煙草。煙草。煙草。
上がもみ消す皿で下が吸い殻受けみたいな、そういうつくりの灰皿の皿のところにいくつもの吸い殻がたまっていた、それを吸い終えた吸い殻で皿の中央の穴の中に落としていった。折れたりしている小さい吸い殻が穴の中に今、落ちようとしている、ずるずるずる、みたいな、なんだか情けない落ち方をするようなのもあり、見ていてかわいいと思った。煙草をかわいいと思うことは初めてだった気がしたため愉快だった。
##6月5日 夕方から雨が降ったり雷が光ったり鳴ったりしていた。静かな月曜で、いつも以上になんというか静的な感じがするというか、時間が止まっているような感じがした。でも起きたのは午前中で、今が夕方を過ぎて夜になろうとしているところで、だから、時間は止まってはいなくて進んでいた。雨が降り続けていて、雨脚はどんどん強まっていくように聞こえた。
仕込みはだいたい昼頃に済ませていて、完全に暇な時間が続いた。そのためトーストを焼いてバターとグラニュー糖とシナモンで甘くしたのを食べたり、バナナを食べたり、あるいは本を読んだりしていた。
暗い空から注ぎおちてくる水の、そのとてつもない量にわたしは呆然となった。
ずっしりと重い水が地面に叩きこまれるのを眺めていると、自分がとても幼い子供のような、いったい何が起こっているのか理解できないような気がした。(...)
そのあと、夕食時になったころ、わたしは出しぬけに、洗わずにたまっていた皿やマグカップをひとつ残らず、洗い物用のボウルに叩きこんで粉々にした。
何かが私の体を吹きぬけて、わたしの体から噴きだして、わたしの体を覆いつくし、それはとどめようのないもので、まるでこわれた蛇口から水がほとばしりでて、キッチンの床一面にあふれたみたいだった。(...)
ようやくわたしはおさまって、気づくと両手から血がでていた。皿の破片を拾いあげては、また流しの中に投げこんだから、そのとき切ったのに違いなかった。
しばらくわたしはじっと立ったまま、荒い息づかいで、両手の血が割れた皿の上に滴りおちるのを眺めていて、腰をおろしたかったけど動けなかった。
わたしは両手のひらに血がたまっていくのを眺めていた。
割れた皿とマグカップを見ていた。
あんなすさまじい高ぶりが、どこから湧いてきたんだろうとわたしは思い、その派手さ加減が、そしてあの数分間、まったく自分を制御できなかったことが、わたしはこわかった。
いま思いかえしても、あんな気分はあれがはじめてだったし、流しの前に立っていたときも、自分という人間が、自分でも手のつけられない仕方で変わりつつあるのではないかと思って心配になった。
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(p.68-70)
雨が続くとそうなるように雨漏りがした。いつもの場所で、カウンターの窓に沿ったところで客席に直接の被害はないのだけど、早く直してほしい。そう思っていたらひさしぶりの場所、これはより客席とは関係しない場所なので構わないのだけど、そこでもポタポタと落ちた。そのあたりのタイミングで僕は猛烈ないらだちというか怒りというかが体を支配するのを感じて、ちょっと危ない精神状態だった。いい加減雨漏りを直してほしい。もういい加減にしてほしい、と、それが怒りの対象だったのだろうか。あるいはこの傷だらけの両手の少し動くだけで痛む痛みが怒りを呼んだのだろうか、だとしたら自業自得すぎて笑うしかないが、あるいは、これは植本一子の『かなわない』でも激しく怒りみたいなものを発散する場面を読んだあとに僕が今度はめちゃくちゃ怒っているみたいなことがあって、それがまた起こったのかもしれないとも思った。
なんせ雨だし、なんせ両手は傷だらけだし、それで変な同調をしてしまったということはあるかもしれない。とにかく僕は内心すさまじい怒りのなかに十分程度だろうか、いて、困った。自分という人間が自分でも手のつけられない仕方で変わりつつあるのではないかと思って心配になった。怒りはそして同時に悲しみをも呼んだ。怒りながら深く悲しくなっていた。どうしようもない気分で、全部をリセットしたいような気がどこかにあった。
その人は全部をリセットできたのだろうか。ゲリラ的豪雨の最中に電車に飛び込む人の気分を想像しようとしたが想像はできなかったし、その駅の構内を歩いていてもそこで数時間前に人がバラバラになる等して死んだんだという実感がまったくなく、というかあとになるまで思い出しもせず、そのことに驚いた。誰かが今日この場所で死んだということはここまでなんでもないことであっていいのか。
##6月6日 日暮里で買ってきたのは豚の革で薄い。近所の百均でA4のプラスチックの下敷きを買ってきた、それが芯材となる。芯材というらしい。ただA4だとサイズとしてギリギリだったのでハサミでもうひと回り小さくした。豚の革とメニューになっている革の裏に革用のボンドを塗って、あいだに下敷きを挟んで、貼り付けた。それで乾いたらきっともうくるんとならないメニューになったはずだった。この作業を繰り返す予定だが下敷きをひとまずというので一枚しか買わなかったので明日必要な枚数を買ってきて、それから繰り返す。
手が痛くて壊れたと思ったため祈りながら寝た。
##6月7日 店に出てスタッフのひきちゃんと歓談したり仕込みをしたりしたのち午後2時ごろから休日になったのでうつわ屋さんでうつわを買ったあとカフェに行って3時間ほど仕事をしていたら夜になっていて愕然とした。疲れたのでTOHOシネマズ新宿に行ったところ『メッセージ』を見たあと焼き鳥屋さんで焼き鳥でないものをつまみながらビールを飲んだら酔っ払って30分ほど掛けて歩いて帰ったら工事中の道路や西新宿のビル群や山手通りがきれいで東京だったので『奇跡も語る者がいなければ』をいくらか読んだらそのまま眠っていた。
『メッセージ』は言葉を学習する話だったけれどなんでだったか「言語の学習」ということで思い出すのはジャック・タチの『ぼくの伯父さんの休暇』で、それがなんでだったかは僕はさっぱり思い出せない。『メッセージ』はすごくよくてずっと喜びながら見ていた。
##6月8日 一日水仕事から解放されると如実に手が復元していく。おとといの夜の段階ではもう「壊れた」という感覚でどうしようもなかったし悲しかったし腹が立っていたのだが、昨日の日中はワセリンを塗り忘れるのだから呆れたが、それでもやはり改善している。ガサガサでしかたがないけれど、鋭い痛みが走る箇所は激減した。
試合途中のスコアを見ると「0-9」で巨人が負けていて連敗が13まで伸びることがほとんど決まったようなものだった。巨人の記録的連敗というのは、他の球団が同じことになるのよりもずっとなにか妙なインパクトがある感じがして興味深い。もっと負けちゃえというニヤニヤした気分ではなく、なにか歴史のようなものに立ち会っているような感覚にとらわれる。なんだか今すごいことが起きているんじゃないか、というような。
八百屋さんに行くと矍鑠としたおばあさんが野菜をいくらか買って矍鑠とした足取りで歩いていくのを見かけてなんだか気持ちが幸せのようなものを感じた。かくしゃく。カクシャクというと『キングス&クイーン』の、マチュー・アマルリック一家のおばあちゃんを思い出すようにできている。もうだいたいボケた老婆と家族のあれこれのやりとりが実によくて、親密で、すごく好きな場面だった。カクシャクも矍鑠というよりは歯と顎の感じがなんとなくカクシャクという印象だったのでカクシャクと思っているだけかもしれない。
体が重い。疲れた。疲労とはほんとうにいったいなんなのだろうと思う。休日で一日ゆっくり過ごした翌日の昼から疲れている、というのはいったいなんのつもりなのか。エンジンをもう一度掛けることで体力を使うとかだろうか。とにかくバカらしい。
He says, if nobody speaks of remarkable things, how can they be called remarkable?
He looks at her and he knows she doesn't understand, he doesn't think she'll even remember it to understand when she is older. But he tells her these things all the same, it is good to say them aloud, they are things people do not think and he wants to place them into the air.
インスタで付けた#jonmcgregorから飛んで世界中のジョン・マグレガー投稿を見ていたところこのページの写真があり、He says, if nobody speaks of remarkable things, how can they be called remarkable? にはアンダーラインが引かれていて、その上のパラグラフの数行には横に何か「ここからここまで」みたいな雰囲気で「 ] 」が書かれていた。タイトルでもあるくらいだからここはきっと大事な場面というか、「おーついに」という場面ではあるのだろうし、最後の方とかは特にで意味はよくわからないのだけど何か静かでぐっとくる場面だった、すでに。
「奇跡」とされた「remarkable things」はなんというか、最近というか近年ずっと僕が「プレシャスな瞬間」と呼んでいるなにかに近いのではないかという気がしている。ほんのささいな、なにかがカチッと噛み合ったような、スッと抜けるような、気持ちのいいなにか、の瞬間。
メニューボードの補強の二枚目をやっていた。今度は型くずれしているというか反ってしまっているものを選び、革屋さんで教わったように全面的に濡らして柔らかくして、それで重しをして平らにするということをした。乾いたのか乾ききっていないのかよくわからないというか端がまだ濡れているように見えたが待ちきれなくなったので乾いたことにし、裏面に油性硬化剤という革の型を硬化させる剤を塗り、それから昨日と同じことをした。楽しかった。
やることもなくなって本を読もうかと思ったがずっと仕事をすることにして徐々に進めたので真面目だった。夜はメニューの表示の仕方を改善というかいいようにしようとしてイラレをいじっていた。真面目だった。
一日まったく栄えなかったため栄えるイメージをつけに栄湯に行くことにして、自転車にまたがり笹塚方面に走らせているとラーメン屋の手前の暗い壁のところにセーラー服があった。丈の長いセーラー服で人だと思ったら頭がなかったので人ではないかと思ったが人が着ているときのような膨れ方をしていたのでもう一度見たら黒い長い髪の女が頭を深く傾けてそのまま壁にもたれているようだった。「え」と思い、まわりを見るが一緒にいる人は見当たらず、するとラーメン屋の扉が開いて若いスーツ姿の男が出てきたのでこの人が連れだろうかと思ったが、この人が連れだった場合は中学生と思しき女の子のいったいなんなのかがまったくわからなかった、振り向くような格好でなりゆきを見ようかと思ったがもう自転車は先に進んでしまったのでわからなかった。暗い場所の壁に深くもたれる0時過ぎの丈の長いスカートの長い黒い髪の女子中学生。とはいったいなんなのか、なんだかおそろしいものを見てしまったのではないか、と思いながら銭湯に向かって風呂に入ったらいつだってそうであるように大変気持ちがよかった。「栄えるってそういうことなんだ」というイメージが頭に定着し、明日から実践できそうな気がした。帰りに、帰りは幅広い甲州街道の反対方向を走るから見えるだろうかと思いながらその場所になったら見てみよう、見て、まだいたらどうするべきなんだ、と思って走っていたところ向かいから警官が歩いてきて、いつでも後ろめたい気分で生きているためか今自分は特に法を犯してはいないよな、たとえば走行場所であるとか、と思いながら警官を見たら、その後ろに足を少し引きずるような調子で歩いている先ほどの女子中学生が見えて、「え」と思った。よくわからないが警官の保護下に入ったようできっとよかったと思いながら先ほどのラーメン屋のあたりになったので向こうを見ていたらラーメン屋のすぐ横、暗い壁とは反対のすぐ横が交番で、その前に赤いランプを回して灯したパトカーが二台止まっていた。
##6月9日 夜になるといくつもの月があらわれ空の満面を明るくしていたのが見えたような気がしたが『奇跡も語る者がいなければ』では老夫婦に限らずいくつもの人たちが親密なプレシャスなスペシャルな瞬間を過ごしていてそのひとつひとつが、おこなわれる会話のひとこえひとこえが、それこそがリマーカブルシングスだったと言ってよかった。通りをカメラが練り歩いた。この部屋あの部屋をのぞくそれはそこに偶然居合わせた住人であるとかの内面を知っていたり知らなかったりする。もう人の住まなくなった部屋に小さな女の子を追って入っていったカメラは女の子が出ていったあとも残り、さらに探索を続けると屋根裏の、光のふりそそぐ植物のすくすくと育つ光景を目撃した。それを読みながらだったか総じてだったかヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の二部の、無人の屋敷に取り残されたカメラが淡々とだったか、それともかつての亡霊を見続けるのだったか、誰もいないかつてたくさんの人のいた屋敷をうつしていったことを思い出した、それは僕にとって一番くらいに好きな小説の一つだった。ということを思い出した。また読みたいような気になってきた。
極めて暇のち極めて忙しい、そういう日だった。夜にいそがしくなってびっくりした。いそがしくなってほしいと願っていたが願った以上にいそがしくなったため大喜びしながらびっくりした。今日の日ハムは絶対に負けてはいけない試合だったし、結果を見たら負けた。巨人の連敗を止めるとしたらたしかに今なら日ハムであろうということは薄々わかっていたが、一試合目にしてあっけなく止めた。陽岱鋼、それから石川慎吾。大田泰示、それから公文克彦。なんというか、「ほうほう」という声がほうぼうからあがったのが聞こえた。優勝が決まったとき陽岱鋼は号泣した、その姿を僕たちはもちろん忘れていなかった。巨人でなんというかすごい活躍してほしい。
だから夜、月が、出ていて、それまでの暇な時間がなにかの手違いだったみたいに忙しく、なって、そうしたら僕は、よろこんでたくさんの飲食物を提供する業務をおこなっていた、わけだけど結果として、暇だった時間も今日は途切れずにずっと、途切れながらずっと仕事を、していたから、丸一日、隙間なく仕事をずっと、していたことになって、なんというかこれは、ものすごい、隙間のなさで働いたなと、そう思って、偉いというか立派すぎるというか、どおりで疲れたわけだわとなって、ビールを一本、終えて飲むとすぐに朦朧とした気になった、なっている。
それはそれとしてよかったのだけど一方で薄く切ったズッキーニとラペのやつで細切りにした生姜を塩もみして、ぎゅっとやって、それをごま油と黒酢とごまと味醂と薄口の醤油とツナと千切りにしたみょうがで、和える。そのおかずを夜それを僕が食べたらとても好きで、ここのところズッキーニを塩もみしてばかりいる、と思った。それで寝る前に本を読んでいた。いくつもの、プレシャスな瞬間。
十九番地の幼い女の子、つまり双子の兄弟の妹は、ふたたび外の通りにいて、一本足でバランスをとっている。彼女の後ろから声がして、ちょっと失礼、お嬢さん、と声がして、顔をあげると目の前に、二十番地の老夫婦が立っている。彼女はぴょんと跳んで道をあけ、それでも両腕は左右につきだしたままでいて、そのわきを老夫婦はゆっくりと通っていく。彼女が見ていると、おじいさんのほうが振りかえり、魔術師みたいに防止を頭から持ちあげて、ウインクする。彼女はくすくす笑い、老夫婦は行進を続ける。
上のほう、二十一番地屋根裏のフラットでは、ヘナで染めた赤い髪の女が、この老夫婦を眺めている。彼女は高いところについた小さな窓の前に裸で立っていて、髪の毛を一本つまんで持っていて、彼女は老夫婦のことを見て微笑んでいる。彼女は部屋にいないボーイフレンドを大きな声で呼び、男はいまキッチンにいて、ねえ、あんなの見たことある? きて、ちょっと見てごらんよ、二十番地のあのふたりなんだけど、何があるのかしらないけど、すっかりおめかししてて、素敵よ、と彼女は言い、すると男の声が返ってきて、うん、わかった、一分でいくから、と言っている。けれども一分すれば老夫婦はいってしまうので、だから男は見損なうことになるのだが、歩道をいく老夫婦は腕を組み、胸を張り、歩調はゆっくりと正確だ。老婦人のほうはちゃんとしたドレスを着て、それはおばあちゃんたちの着るただのワンピースではなく、五〇年代かなにかの品のいい美しいドレスで、そしてリボンを巻いた青い帽子をかぶっていて、そしてショルダーバッグと靴がそろいの色で、そんなことを赤い髪の女はもうじき男に話すことになる。そして老人のほうはかっこいいスーツを着ていて、それはモノクロ映画に出てきそうなスーツで、老人は胸ポケットに赤いハンカチを入れていて、かぶっているトリルビー帽はシナトラみたいなの、そう男に言うことになる。
そして彼女はふたりを見つづけ、ふたりは本当に誇らしげで、カメラがあったらなあ、写真が撮れるのになあ、と彼女は思い、いったいどこにいくのかしら、あんなにおめかしして、と彼女は思う。彼女はふたりが角を曲がり、大きな道路に出ていくまで見おくって、それから彼女は振り返る。
ほうら見損なっちゃった、と彼女はボーイフレンドに言う。
ジョン・マグレガー『奇跡も語る者がいなければ』(p.148,149)
全部がいい。女の子の運動もいいし、老夫婦の様子ももちろんいいし、「素敵よ」という感想もいいし、未来を先取りしていく語りもいいし、「そして老人は」のセンテンスのどこまでが描写でどこから女のセリフになったのかがはっきりは確定できないその流れもいいし、全部がいい。
こんな小説をずっと読んでいられたら僕はわりとすごい幸せでいられるんじゃないだろうかと、そう思うような気分のよさが続いている。