#4月1日
川崎宗則がソフトバンクホークスに復帰するという知らせが世界中を駆け巡った。ホークスは昨日今日の試合では二塁・本多、遊撃・今宮、三塁・松田という布陣であり、本多のところに入ることになるのだろうか。ホークスの若手は本当にうんざりというか、よその球団に行きたくて仕方がないのではないか、あるいはそんなことはプロのアスリートというのは思わないものなのか、あくまで自身の成長に眼差しは向けられているのか、克己。眠い。夕方から腹が減ってしかたがない。アルフォートを食って克己している。閉店時間すなわち夕食の時間まであと5時間ある、どれだけ残り5時間を克己することができるか、とても克己しきれる気が今のところしない。とにかく腹が減った。
真夜中にショートブレッドを焼きながら『親密さ』のことを思い出して泣きそうになっていた。焼きながらというのは正確ではなくて寝かせた生地を切り分けてフォークでショートブレッド的な印をつけながら、だった、泣きそうになっていた。へーフェヴァイツェン。『オン・ザ・ロード』を読みながら寝た。
##4月2日
銭湯に行ったのは昨夜のことで向かったところ先週だったか先々週だったかに警官が自転車で男を追走していた箇所で向こうからやってきた警官二人に止められて僕はあからさまにうんざりした顔をした、栄湯は受付が1時まででそのとき0時45分くらいだった、だからこれで足止めを食らって間に合わなかったらどうするんだと思ってあからさまにうんざりした顔をした、男は代々木警察署のxxxですとまず名乗って、名乗られたのは初めてだったので悪い気がしなかった、僕は名乗り返さなかった。自転車の防犯登録を、ということだった、防犯登録はされていますか、と問われた、してるんじゃないですかね普通はするもんなんですか、お名前は、フルネームですか、いえ名字だけでけっこうです、阿久津です、阿久津さんどういうお店で買われたんですか、自転車屋さんですね、どちらの、岡山の、お・か・や・ま、あ、岡山とありますね、いいんじゃないですかね、大丈夫ですか、大丈夫です、どうもご苦労様です、そう言って走り出してから、すぐに解放されたことで安心もしたのか、もう少しほがらかに対応してもよかったのではないか、先方も仕事でやっているんだから、不機嫌な対応は不機嫌な仕事を連鎖させるだけではないか、悪いことをした、いやでも最後はほがらかに対応した気もする、でも最初からもっと、等々を思って銭湯に向かったところ湯にゆっくりと浸かった。それが昨夜のことだった。
4月2日。日記は、と、風呂に浸かりながら考えていた、自由帳みたいで自由でいいなとなんで風呂に入りながら思ったのか思っていた。4月2日。という枠組みの中で取りうるふるまいがいくつかあって上のように書いている日という縛りで昨日のことを書いてみてもいいのだし書いている今のことを書いてもいいのだし、あるいは実際に記述しているのは別の日であってもこの日4月2日の出来事を書いてもいいのだし、何をやってもいい、自由でわりと不安定というか不確定な様式でとてもいい。4月1日僕はバーボンソーダを飲みながら『オン・ザ・ロード』を読んでいた、一行はメキシコに向かっていた、数千キロ先に目指すメキシコシティはあった、彼らは高揚していた、僕は疲れていた。疲れている。生きているだけで疲れるから仕事をしたらもっと疲れる。静かな日曜日の午後になっている、『オン・ザ・ロード』を読もうかとも思ったがベネズエラ出身のエスコバーは5回途中で降板して後を継いだアメリカ帰りの村田はまずボークを出した。気持ちが疲れるところがあった。自分のこの音を聞いてもわからない、人とどう違うのかがわからない。気持ちが疲れるところがあった、いやでも、いやほんとうに、だいぶわからなくなってきている気がする今こうやってこrをつってkろえwこれを打って内永r打ちながら判断しようとしているがだいぶわからなくなってきている気がする。混乱というか、と昨夜風呂に入りながら考えていた。
窓ガラスを隔てて満面の笑みでぶんぶんと手を振るそれは山手線と京浜東北線がしばし並走して離れるそれを思い出させるし桜は、夜や見られていないあいだも咲いているだろうし僕はそれを見上げることになっただろう、地下室に続く階段で。座り込んで、流れてくる歌声に耳をすまして、その先のことを考えている。そういう夢を見た。そのあとでうさぎを殴殺する夢も見た。そのあとでもうひとつ夢を見た。全部がつながっていたし「野性的!」ぼくは声をはりあげた。ニールもぼくもすっかり目が覚めていた。DJはご機嫌な顔で突っ立っていた。福良は地面を叩いていた。藤井は足を踏み鳴らしていた。田口は静観していた。大島は小刻みに揺れていた。では小川は?僕はその答えを知っていたが誰にも教えなかった、言ったら殺すぞと言われた、おまえが屠ったうさぎみたいに殺すぞと言われた、だから誰にも教えなかった、そういう夢を見た。全部夢のせいにしてしまえばよかった。そういう夢を見た。全部が夢だったから全部夢を見た。
ここ数年に受け取った大事な個人的ニュースは多くがスマートフォンを通じて入ってきた。そしてそのとき僕が街のどの場所にいたかははっきりしていて、三十代前半で僕が遭遇した主な出来事については地図上で再現することが可能だ。壁の地図に押しピンを刺すこともできるし、グーグルマップに目印の旗を立てることもできる。どんな込み入った理由があったか分からないが、友人が銃で自殺したという知らせをジョンから受け取ったのは、リンカーンセンターの噴水の脇だった。近い親戚が送ってきた、新しく生まれた子供の状態が深刻だというメッセージ(「一斉送信メールで失礼します……」)を受け取ったのは、ロングアイランドシティのイサム・ノグチ美術館。近所にあるモスクの音割れするスピーカーから祈祷の合図が流れるのを聞きながら、アトランティック通りにある郵便局の行列に並んでいるとき、あなたの結婚の知らせを聞いて、ショックを受けている自分にショックを受け、落胆し、そこから数週間落ち込んだ——ありがちな反応だけに余計に落ち込んだ——こと。海外で一夏を過ごす助成金がもらえることになったというニュースを知ったのは、ソーホーのクレート・アンド・バレルのトイレ——ロウアーマンハッタンでいちばんきれいな半公共トイレ——だったので、僕の頭の中では、ブロードウェイとヒューストン通りの交差点がモロッコの出来事と結び付いている。妊娠を確信していた当時の恋人から、やはり妊娠していなかったという知らせを受けたのはズコッティ公園。そしてグラウンド・ゼロから通りを挟んだところにあるデパート、センチュリー21で安売りの靴下を買っているとき、警官の手で肋骨を折られたオークランドの友人が病院に担ぎ込まれたというメッセージを受け取った。などなど。知らせを受けた経験の一つ一つが、いわば 'その場に刻み込まれて' いて、大きなニュースを受け取った場所を通るたびに、その残響がビーズカーテンのように僕を待ち受けていた。
このくだりもとても好きだ、次の読書会はこの小説にすることにして告知をした、人が来てくれるといい、日曜日、劇的に暇な日曜日になった、悲しかった、悲しくなったあと不安になった、先週は平日もどの日も珍しいくらいにコンスタントにお客さんが来られてだから先週の土曜から、金曜は不調だった、先週の土曜から土日月火水木金土とバジェットに——平日と金曜と土日はそれぞれ異なるバジェットが割り振られている——乗るくらいの日が続いたにもかかわらず、今日日曜が暇なことでもうこの店は終わりなんじゃないかという気になって一気に不安になっている、閉店後に打ち合わせというか人と会う予定があるのだけどこんなことなら「10時にはどうせすっからかんなので、その時間に来てください」といえばよかった、11時、眠くなっている。
##4月3日
昨夜遅く、東京都渋谷区初台の路上で、帰宅途中の男性(31)が『スクロール版 オン・ザ・ロード』を読破したのを発見した帰宅途中の男性(31)が110番通報したところを現行犯逮捕されたというおそらくちょうど同じタイミングで僕もまた『オン・ザ・ロード』を読み終えて驚いていた、なぜなら冒頭のあたりでページ左端を使って書かれる注で540ページの訳注にて云々みたいなコメントがあってこういうのを僕は知りたくないタイプの人間のためこの小説が540ページくらいのところできっと終わる、400ページに入ろうとしている、400まで来たら本当にあとすこしだな、と思ったら392ページで突然終わった、たしかに391ページで少しだけ予兆は感じたのだけれども、開いたところページ半ばでこれまでずーーーーーっと続いていた文字が途切れ、この本で初めて見る空白が、そこにあった。
やつはわざと車をジグザグに走らせてみんなをからかった。インディオのように運転した。レフォルマ大通りの円形のロータリーに入ると、八本の道が集まってくる真ん中をぐるぐる回ってあらゆる方向から突進してくる車を相手に左だ、右だ、行き止まりだ、とかわし、わめき声をあげて楽しそうに飛びはねた。「こういう交通こそおれの夢よ!みんなが勝手に走ってな!」救急車が弾丸のように走っていった。アメリカだと救急車はサイレンを鳴らして車の群れのなかを縫うように走りぬけていくが、世界に冠たるフェラヒーンのインディオの土地では救急車は街中を80マイルで突っ走る。みんながさっとよけるなか、一瞬も停まらず
ジャック・ケルアック『スクロール版 オン・ザ・ロード』(p.392)
一瞬も停まらなかった小説が「一瞬も停まらず」で終わった!なんてかっこいいの。そして左のページには「付録」とタイトルがありこうある。
スクロール原稿の最後の数フィートは見当たらない。スクロールの末尾の手書きのメモには「犬が食った [ポチキー、犬]」とあるから、ルシアン・カーの犬のポチキーがエンディングは呑みこんでしまったのだ。(…)
ケルアックの1951年4月以降の原稿、ならびに刊行された小説から逆に作業してみると、失われたエンディングは以下のようなかんじのものだったのではないか。
ジャック・ケルアック『スクロール版 オン・ザ・ロード』(p.393)
そして次のページで数行巻き戻したところからまた再開される。なんだか僕はとてもゾクゾクとしたというかかっこうがよかった。生々しいみたいなところなのか、それとも5000kmくらい一瞬も停まらずに走ってきたところ急ブレーキを踏まされて、検問所で、止まって、また急発進みたいな、そのストップ&ゴーのテンポがよかったのか。ともかくよくて、興奮して読み終えた。結局402ページで小説は終わった。405ページからは先ほどのハワード・カネルによる「こんどは速く ——ジャック・ケルアックと『オン・ザ・ロード』という書」という解説が始まる。これもいいタイトル。こんどは速く。とにかく全部。
暇で暇で暇でしかたがない。「完璧に終わった」とかさっきつぶやいた。夜8時。ずっと誰もいない。暇で暇で暇でしかたがないので前から作ろうと思っていたフヅクエマニュアルをイラレで作り始めたら楽しくなった。でも飽きた。それで解説を読んでいる。楽しい。でも暇で暇で暇でしかたがない。眠い。完全に眠い。眠ってしまいたい。眠ってもいいだろうか。さすがに眠ってはいけないと思っている。夜は寒い。今夜は夜桜でもふらふら歩きながら見ようかと思っていたがこう寒いとどうなのかという気にもなったがそれは僕が薄着で外に出ているからで、セーターを着てジャケットを着ればまったく問題なかった。皮膚科に行きたい。健康診断も受けたい。眠りたい。次になんの本を読めばいいのかが皆目見当もついていなくて明日本屋に行こうと思っているが憂鬱に棚のあいだを歩き回ることになるだろうと思っている。『オン・ザ・ロード』をヴァイキング社から出したという編集者のマルカム・カウリーの名前が何度も出てきて、そうだ、なんかこんな名前だったんじゃないか、編集者でもあったのだろうか、『火山の下』、あれを次は読もうか、と思った。調べたらマルカム・ラウリーだった。だいぶ近い。眠い。『火山の下』は何度か「読もうかな」と思ったことがあったが読まなかったのには何か理由がきっとあったはずだった。それがなにかは思い出せなかったが、明日書店でどう思うか。そもそもまだ並んでいるのか。どうなのか。昨日告知した読書会は今のところ予約が入っていない。今回はどうなるのか。今回もまったくダメだったらちょっとショックだなと思うけれどちょっと愉快だなとも思うけれどどうなるのか。せめて数人は集まってほしい。なんせ『10:04』はすばらしい小説だと思ったので読まれてほしい。というかせめて数人は集まってほしい。どうなるのか。それにしても眠い。今夜はどうなるのか。気持ちが萎える。
この世界から打ち棄てられた夜にジャック・ケルアックが『オン・ザ・ロード』を書こうとして書こうとして書いて書いて出版にしかしこぎつけるまでの苦闘の日々——書いてから出版まで5年とかが掛かった——を読み、がんばれケルアック、あと少しだから、と思った、がんばれと、自分に言い聞かせるように思った。「ご希望のどんな変更もオーケーです。1953年におっしゃっていた旅No.2を旅No.3に合体させてひとつの旅にするという案は覚えていますか?どのような再調整にもお手伝いできる用意があります」がんばれケルアック。あと少しだから、あと少しで、なにかが起こるから、大きな、大きな確かなことが起こるから、だからがんばれ、大丈夫だから、がんばれ、耐えろ、今は耐えろ、あとほんの少しだから、だからどうか、負けないでくれ。
##4月4日
新宿の紀伊國屋書店に行ったところなんとなく日本の小説を読むことにしようと思ったため柴崎友香の『かわうそ堀怪談見習い』と山下澄人の『しんせかい』を買った。「なんとなく日本の小説を」ではなくもともと柴崎友香の『かわうそ堀怪談見習い』を買おうと思っていて手に取ったら「じゃあもうひとつくらい日本の小説を」と思ったために山下澄人が取られたというのが正しい流れだった。山下澄人は読んだことがないので楽しみだと思った。
それの前に僕はそばを食べたしそばの横にはかき揚げ丼があった、それはその日最初の食事で僕はお腹がいっぱいになった。厨房のなかで働いているおばちゃんが「外国人が」「外国人が」と言っていて、なにかと思った。僕の右隣には日本語が母語ではなさそうに推察される、しかしそんなのはただの偏見かもしれない、そういう様子の人がそばを食べていた、ヘッドホンは食べているときは外して首にかけていた、邪魔にならないといい。彼が日本語が母語ではなさそうに推察されるもしかしたら最たる根拠になっているのは半袖姿だったことかもしれない。たしかにあたたかな日だったが、そこまで暑くはないだろう、という指摘が、意味をなさない、それが、彼だ。
たしかにそれはそばを食べたということだった。しかし実際はそれの前には僕は電車に乗って初台から新線新宿駅までをわずか2分ほどで走り、そして地上まで一生懸命に上がった。外を歩きだしてふと「ルミネのなかに」と思ってルミネのなかを歩いたところすぐにToday's Specialというかトゥデイズスペシャルが見当たって、そこでこれまで買ったことのないハンドソープがあったからそれを買うことにした、それはこの日のタスクを一つこなしたということだった、元々は伊勢丹の地下2階だかにいって何かを探す予定だったところが、道の途中でこなせてラッキー、つまり幸運だった。それでそばを食べたところ日本語が母語ではなさそうに推察される、しかしそんなのはただの偏見かもしれない、そういう様子の若者が厨房のなかで忙しそうに働いていて、僕の右隣に座っていたおばちゃんはそばをすすりながら彼から目を離すことはなかった。そばを食べ終えて立ち上がったおばちゃんはトレイを持って返却口に向かい、その途中で歩を止めて青年に声を掛けた。おにいちゃん、と言った。あなたを見ていると息子を思い出すと、そういうようなことを話していた。青年はやさしげな笑みを浮かべて立っていた。僕はトレイを返却すると話し続けるおばちゃんの後ろを通って店の外に出た。
すると新宿武蔵野館に行く前にまだ、まだ時間がある、と思って紀伊國屋書店に向かった。そこで『オン・ザ・ロード』を読み終えて次に読もうという気になったマルカム・ラウリーの『火山の下』を買うことにして——ところでマルカム・カウリーはたいへん重要な出版者だったようだ。ヘミングウェイがどうたらとかフォークナーがどうたらと書かれていた——エクス・リブリスのコーナーを見ていたら見当たらなくて、困ったと思っていたところ前からなんとなく読みたいような気がしていたブライアン・エヴンソンの『ウインドアイ』と、普段はなんとなく敬遠しがちな短編集を手に取ったことで勢いがついたのかもうひとつ短編集らしいアリス・マンローの『ジュリエット』を買った。図らずもクレスト・ブックスづくことになった。それで書店を出ると新宿武蔵野館に行くとまだ時間があったので一服して、喫煙スペースを出たところの左の壁にこれから見る『牯嶺街少年殺人事件』のポスターが貼られていた。そこに「ガールフレンドを殺して」みたいな文言があり、そうか、ガールフレンドを殺してしまう話なのか、と思って映画が始まるとガールフレンドはなかなか殺されず、ガールフレンドは4時間の映画の残り15分くらいのところで殺された。教えないでほしかった。教えないでほしかった、と思った直後に映画のタイトルが少年殺人事件とあることに気がつき、初めてタイトルと、ガールフレンドを殺害することが自分のなかで結び付けられたのだけど、それにしても、だからって、知らないでよかった。なんせギリギリまで殺されないのだから、僕は「殺しちゃうのはいつなんだろう…」と3時間40分くらい思い続けることになって——途中でウトウトしていた時間は除く——、なんだかもったいない見方を強いられた気がした。これは不平不満だ。
それにしても映画は、なんというか、よかった。ポスターにもなっている吹奏楽部の子どもたちが演奏するなかでの場面なんかほんとうにすばらしかった。総じてずっとざわざわとしているような感じで、すごかった。見終わったときは「見終わった」と思うくらいだったのだけど、夜に就寝していたところ夜中に目が覚めてしばらく起きていたところ、起きているあいだずっと頭のなかに映画のいろいろな場面が流れ込んできた。エドワード・ヤン。
##4月5日
目が覚めて、昨日のそば屋のおばちゃんが言っていたのは「おにいちゃん」ではなかったしあなたを見ていたら息子を思い出すということでもなかったのかもしれない、と思った。ではなんと言っていたか。「あれ?エドワードやん、あんたこないなところでなにしとん?」だったかもしれない。ということを朝、思った、という嘘を今、書いた。家族のそれぞれがとてもいい人たちということが悲しいし、友人たちもいいやつらで、悲しい。悪役がいないそのなかでそれでも悲劇が起きることがそれが悲しかった。少しずつ私たちは壊れていった。
『なnD 5』をずっと読んでいた。インタビューと短い文章で構成されたリトルマガジンで、僕も短い文章を書かせていただいたので一冊もらったので持っていたため読んでいた。インタビューは取材日、取材時間順になっており、例えば空族の二人のやつは「3月4日 | 17:47 | 新宿・珈琲西武」とあった。その日は15:04に僕は日記をタイピングしていた、そう日記にかかれていた。日時があるのは僕はとても楽しかった。それで順繰りに読んでいった。三宅唱のやつや空族のやつや、それから前野健太の話が面白かった。前野健太はアルバイトをしていた古本大學という店の社長の話をずっとしていた。すごくよかった。
古本大學は深夜1時までとか営業してたんですけど、いちど1時5分頃に店の電話が鳴った時があって、「なんだこの時間に」って思ったら病院からで、「お宅の社長が素っ裸で駅で倒れてうちの病院にいるんです」って。家族はいないようで、店にいる前野って人間は自分のこと全部わかってるから、とか言ったらしくて、服を持っていくことになって。店に服なんてないし、家の鍵なんて持ってないし「なんだよそれ」って俺、店閉めてから深夜にバイクでドンキホーテに服を買いに行って、たしか社長のサイズってこんな感じだったかなって服を選んで、2時くらいに病院に届けて、「ふざけんなよ、これ時給でねーだろ」とか思いながら帰ったんですよ。そしたら次の日社長、ケロッと店にきて「いやあ〜、この服ぴったりだよ。前野くん、奥さんみたいだね」とか言って、なんだよこいつ〜!って思って。
『なnD 5』(p.139)
キットカットを食いながら仕事をしている。食いながらというのは、オーダーを聞きに行くときもむしゃむしゃしているし、オーダーされたものを作っているときもむしゃむしゃしている、お出しするときもお会計のときもずっとむしゃむしゃしているということだ。そうすると血行がよくなって体が全体的にポカポカとあたたまる。そのため長いあいだ僕はこの方法を非常に重宝していた。そのため閉店したため昨日のヤクルト阪神戦の乱闘シーンを見ている。大人たちが大集団で大喧嘩していた。
##4月6日
夜になると柴崎友香の『かわうそ堀怪談見習い』を読むことにして読んでいたところ、それは長編小説だった。僕は何も知らなかったのでそれは短編集か、なにかエッセイみたいなものか、あるいはなんだろうか、と思っていたら長編小説だった。怪談見習いとあるからそんなに本格的に怖いものではきっとないだろう、ちょっと怖いくらいだろう、と思っていたところ、僕にとってはちょっと怖いが十分に怖いのだということが思い出されて、だからちゃんと十分に怖くなって途中でいったんやめて営業中に読むことにした。昨夜のことだ。
考えてみれば柴崎友香の文章はホラーという結構を持たなくてももともとどこか怖さみたいなものがどんどん孕まれていった気がするから、『パノララ』なんて本当におそろしかったし、だからそもそも怖いのだった。それがちゃんと怖い話めいたものを書こうとしてきたら当然僕には十分すぎるほどに怖いのだった。冒頭の数行目でバスの中から見えた家の2階の窓のところで何かが見えたと思ったら人の腕だったという、それから顔が出てきたという、そこから僕は十分に怖かった。そうやって怖いモードに入ってしまってからは戸締まりもシャワーももちろん全部怖くて、挙げ句の果てには挟まっている角川書店新刊案内の表紙の誰だったか作家の顔写真すら怖くなっていった。
なのでとにかく途中でやめてそれから山下澄人の『しんせかい』をいくらか読んで寝た。日本の小説を読んでいる。ニッポンの小説。高橋源一郎。アホみたいに面白かったのでまたいつか読みたいとたまに思い出す。なんでか、新宿のサザンテラス口のスタバで読んでいたのをセットに思い出す。あれはいったいいつのことだろうか。三振、四球、併殺。四球、四球、ニゴロ(犠打失敗後)、遊飛、盗塁死。いい球を投げているようにも見えるがいろいろとうまくはいっていないみたいで、走者を出しているように見えるがまったく打てていない、佐々木千隼と日ハム打線の戦いはそんな調子だった、3回、やはり四球で出塁した中島が暴投で2塁に進んだ場面で西川がレフト前にタイムリーを打って同点に追いついた。それ以上は進められなかった。日ハムは斎藤佑樹が投げている。2回にぽんぽんと打たれて1点取られた。球が上ずっているようにも見えるがどういうものなのか、力んでいるようにも見えるが簡単に投げているようにも見えるがどういうものなのか。今年も千葉は風が強い。
煮物を食べたい。煮物みたいなものを食べたい。あたたかくて汁っけ
『かわうそ堀怪談見習い』を読み終えてしまったので『しんせかい』を読み始めた。なんだか気分がどんどん暗くなっていく。こんなにも読めてしまえる状況が悲しい。こんなにも読みふけりたいわけでもない。仕事がしたい。
そう思いながら昨夜30ページほど読んだ『しんせかい』の続きを読んだら面白くなっていった。北の方の土地で私塾に入る青年が語り手の話で彼はブルース・リーが好きだったため阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』を思い出したし大人たちの大集団が大喧嘩し始めたら昨日のおとといのヤクルト阪神戦を思い出すことになるだろう、と思いながら読んでいる。山下澄人は初めて読む。ずっと誰かの顔で想像していると思ったらガケ書房というかホホホ座の方で考えていた。山下違いだった。
体がものすごい重い。暇すぎてやる気がまったく出なかったところ何人か来てくだすったところで「この波に乗らないでいつやるの」という内発的なというかまさに外発的か、な問いが発生して「今やります」と思ったので今日やっておくべきことをいくつかやっていたところ体がものすごい重い。肩がものすごい重い。昨日も今日も暇でおとといは休みだった今日がこんなに体が疲れているということにわりと絶望的な気分になる。つまり生きているだけでこれだけ体が疲れるということだった。働いていても、映画を見ていても、酒を飲んでいても、風呂に入っていても、眠っていても、生きている以上はどんどん疲れは溜まっていく。もう逃す場所がどこにも見当たらない。
あるいは、と、怪談を読んだばかりなので思ったが怪談なんていう怖いものを読んでいたから引き寄せの法則で悪いものを引き寄せてしまったのではないか。一時期の僕の口癖は「俺、すごい引きが強いんすよね」だった。そんな一時期は一瞬もなかった。しかしもしあったとしたら、すっかり忘れていたが久しぶりに今、俺の引きの強さが発揮されたということかもしれない。お祓いをしてもらったほうがいいのかもしれない。引いた結果なにがやってきたのだろうか、と、昨日も怖がりながら読みながら思い出すというか夜になるたびに一回は思い出しているけれども先日の近所で起きた殺人事件の犯人はまだ捕まらないでいる。報道等によると残されたあれこれから上の階のバーの方がだいたいまあ犯人だろうというところらしい、というかそういうトーンで今は完全に報道されている。被害者の方と金の貸し借りがあって、云々、ということも書かれていた。僕はなんというか犯罪が裁判によって確定するまでは人を犯罪人として断定したくないタイプの人間なのだけど、それでも「あーきっとバーの方なんだろうなー」とすごい思っちゃっている感があって、よくないなと思いながら、「まーでもそれはそれとしてきっとそうなんだろうなー」とすごい思っちゃっている感があって、よくないなと思いながら、「とは言え犯人は状況的にまあそうとしかー」とすごい思っちゃっている、情けない。振りほどけない。ともあれ解決してほしい。なんとなくずっと気持ちが悪い。
『しんせかい』を読んでいたら「海苔の佃煮」という言葉が出てきてそうだ生姜の佃煮を作ろうと前カレー屋さんで思ったんだということを思い出して佃煮なんて佃煮ればいいだけであってレシピも何もないけれどなんとなく調べようと思ってパソコンを起こして検索バーに「生姜 佃煮」と打った瞬間に表示されていた「(遊)大引啓次 .292」が見えて「打率いいね、去年もよかったんだっけか」と思って名前をクリックしたところ去年はちょうど.250で着地したということが知れ、「生姜 佃煮」は検索されずじまいになった。
ところで「肩がものすごい重い」と書いたあと気がついたら肩の重み体の疲れが特になくなっていた。気分とかだけであれだけの重みや疲れが来て、去るものなのだろうか、だとしたら気分というのはすごいものだし、何かに憑かれていたのが書いたことで祓われたと考えたら、それはそれで書くってどれだけの効果があるんだとも思うし、そもそも憑かれていたのかよと思うし、何であったとしてもわけがわからない。佃煮はしょっぱくおいしくできて夕飯のいいおかずになった。
風が一日中強くて一日中電線が揺れていた。
##4月7日
昨日の夜に『しんせかい』を読み終えた。
いつか、遠い昔に、ここに似た公園で、たまみと二人でいたことがあった。そのときも、日が暮れるころに他の友だちは次々に帰ってしまい、最後にわたしたちだけが残った。海の底のような色に変わった空の下で、たまみと二人、不安になりながら立っていた。
「覚えてるんや?」
と、抑揚のない声で返した。
「忘れたんかと思ってたわ」
真顔で言うたまみを、わたしは見つめた。
「自分だけ忘れて、なにもなかったことにしてるんかと思ってた」
たまみは、それ以上のことは話さなかった。今日のややこしい客のぐちをいい始め、焦げた肉を食べた。
ときどき、白い花びらが降ってきた。明日はまた雨の予報で、そうしたら花は散ってしまうだろう。
柴崎友香『かわうそ堀怪談見習い』(p.100)
あ、これは柴崎友香だった。怖かった。でも『パノララ』とかの方が怖かったかもしれない、それこそ『寝ても覚めても』とかの方がずっと怖かったかもしれない、と思って、僕は『寝ても覚めても』と『わたしがいなかった街で』を混同しているところがあるというか間違ったことがあったので検索したらwebに著作一覧があったので見にいって、『わたしがいなかった街で』にこうあった。「1945年の世田谷区若林、大阪の京橋、1992年のユーゴスラヴィア、そして2010年の東京と大阪で。場所と時間、砂羽と夏の二人の「現在」の話。けっこうすごい小説だと思います。読んでください。」こうあって、いやほんとけっこうすごいというかほんとすごい小説だよなーと思って、なんか自著を「けっこうすごい小説だと思います」と書いてくれるこの感じになんだかものすごいうれしい気持ちいい気持ちになった。ところでだからそれまでの小説の方がもしかしたらずっと怖くて、作中でも「恋愛小説を書こうとして書いたわけではないものが恋愛小説として読まれて恋愛小説家とされていったように怪談小説もまた書こうとして書かなくても」みたいなことが書かれていたけれども、僕はだから柴崎友香の小説はなんか怖いものなんか凄いものとしてこれまで読んでいて、怪談小説のこれはむしろ怖さよりもほんのちょっとだけ描かれる恋愛というかほの字的なところが強く印象に残った、お茶屋の男をちょっといいと思うその思い方が強く印象に残った、というのは嘘というか誇張というか都合よく話をまとめようとしてついた嘘というか誇張というかでやっぱり怖かった。やっぱり怖かったし、これまでに柴崎作品に感じていたのとそれはやはり似たような怖さだった。それからこれは職業小説というのか知らないけど、柴崎友香の小説では初めてがっつり仕事の様子が書かれた小説なんじゃないのかという気がした。そんなことはないかもしれない。オフィスでのワークのことは『フルタイムライフ』とかでも書かれていた記憶がある。ともかく小説家の語り手の仕事の様子、そういう部分も面白かった。
それで『しんせかい』をだから昨夜は読んだら読みえた。
玄関の前へ腰を下ろしてたばこに火をつけた。右に古い道具があった。立ち枯れした木にも見えた。たばこを消してそこらに投げてもう一度家の前に立ち呼んでみる。返事はない。再び家を背にして腰を下ろしかけたとき立ち枯れの木が絞り出すように何かを吐いた。痰を吐いた。人だった。五分刈りの頭に赤いタオルで鉢巻をしたじいさんだった。顔は赤茶色のくしゃくしゃで目玉がどこにあるのかわからない。ここにいるのだからたぶんこのじいさんも進藤さんだろう、いつもの進藤さんはもっと若い人だがそうだ、進藤さんのお父さんかおじいさんだ。
「こんにちは」
といってみた。じいさんは反応しない。やはり何かの古道具か立ち枯れした木かと近づいてみると間違いなくじいさんで、もう一度今度は大きな声で
「こんにちは」
といってみた。ようやく聞こえたのかじいさんは小さくうなずいたように見えたが風に揺れていただけかもしれない。ときどき強い風が吹いていた。しばらくそのままそこにいた。いながらじいさんを見ていた。気を入れて見ていないとどうしても木に見えた。ゴゴゴと音がした。じいさんが何かいったのだ。しかしまったく聞き取れない。それは声というより物音だった。じいさんがたばこを出してくわえた。そして一本、こちらに出して向けた。もらってくわえた。くわえるとじいさんはマッチで火をつけてくれた。風を二人でよけて火を守りたばこにつけた。手が触れた。それはやっぱり木の皮のようで、温もりがなければ木だと勘違いしただろう。じいさんがまた何かいった。わからないから聞こえなかったことにした。じいさんがたばこを足下に捨てた。ぼくもそうした。
山下澄人『しんせかい』(p.63-64)
いい場面だった。この前後が、馬が暴走するところであるとか、倒れてから意識を取り戻すまでの自由に飛んでいく視点であるとか、好きな場面がいくつかあった。二つ目の「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」も面白かった。どちらも読んでいてとても慣れない手触りがあった、それはとてもいいことだったためまた他のも読んでみようと思った。それで昨日が終わって今日になったところ夕方になって上沢が投げていた。上沢はとても活躍してほしい投手で、去年まったく見なかったから消えてしまったのだろうか、と思っていたらどうやら怪我をしていたらしくそれを知って安心した。中村勝はどうしているだろうか。上沢は今日はどうか。3回途中の今、すでに2点取られている模様。
Twitterのおすすめユーザーに頻繁にシモーヌ・ヴェイユが出てくる。読むものがなくなると慌てて昨日ポチった多和田葉子の『百年の散歩』が届いて開かない。「連作長編」とあって、僕は短編集にしても連作長編にしても好きではないというか、好きではないは語弊があって、何か「それよりも長編を」と思ってしまう。なんとなくひとつづきであってほしいと思ってしまう。同じようにチャプターが分かれていても「連作長編です」ではなくただ「長編です」と言ってくれたら、それだけで僕の中で長編になるから、そっちがいい、と思ってしまう。なんだかよくわからないのだけど僕はなにかひとつづきとされている物語を読みたいと思っているらしい。とはいえこれが楽しみでないということではいささかもなくけっこうなところとても楽しみで、でもいま開くととても細切れになりそうというか、今は先ほど来られたお客さんがメニューをペラペラされているところで、5分10分でオーダーが入るであろう
と打ったまさにその瞬間だった、オーダーが入ったのは。というところで、