読書日記(23)

2017.03.11
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#3月4日 読書日記の更新に文字数が1万字を超えると時間が掛かるようになるような感覚があって今は14時54分で誤字脱字のチェックにずいぶん時間が掛かったような気がしたが気のせいかもしれなかった。『10:04』みたいな、おそらく今日明日で読み終わるであろうベン・ラーナーの『10:04』みたいな親密な心地にさせてくれる小説を読みたいがいったい何を読んだらいいのだろうかと思っている、予期しなかった自分にとっての大ヒットだった。木原善彦訳なので木原善彦訳つながりで『民のいない神』を久しぶりに読んでみるというのはどうだろうか。それもとてもいいかもしれないけれど、あのエキサイティングな調子と、今僕が感じていてまた浸っていたいというか中にいたい親密な調子は、また別物かもしれないし、もしかしたらどこか近いものかもしれない。土曜日。土曜日。新たなページを開いて白いページに、タイトルに「23:3-1」とあるこのページ、白いページに「白いページに」であるとかの文字を打ち付けて汚していく、埋めていく、昨日いとこが店に来たせいだろうけれど実家というか田舎のあの道を思い出した、ロードサイドでもない細い、畳まれたり音もなく営み続けられたりする店や信用金庫であるとかの建物を両サイドに見て走る、右へも左へもカーブするYの字の、挟まれているところには数年前に丸亀製麺ができた、右に折れて右側にすぐに以前大叔母が入院していた病院があったが取り壊されて何かになっていたしそのずっと前に大叔母は転院していた、転院をわりと繰り返して、最後はずっと同じところにいた印象がある、最後は、どこで迎えたのだったか、薄情なのか僕はもうそのことはわからない。いとこが昨日来て酒を飲んで帰っていった、いとこは僕より一回りとちょっとくらいだろうか、よくわからないがかつてからそのくらいは年上だった、それは今も変わらなかった、昨日もおそらくその差に違いは生じていなかった、でも今日はどうかはわからない。僕は土曜日のこの時間、15:04にタイピングを続けるこの土曜日はなんだろうかと思っている、とても暇なわけではない、でもまったく忙しい感じではない、コーヒーを飲んでいる、ホームパイを買ってきたからそれを食べてもいる。オープン戦がおこなわれている、早く開幕してほしい、僕は野球の結果を眺めていれば長い時間楽しんでいられる、
##3月5日 そのあと、どのあとだろうか、タイムスタンプは押されているか。そのあと忙しくなってというか忙しいというよりはただなにかずっと動き続けていた、仕込みもいろいろとあった、それで詰まっていた、そういう時間が続いた。閉店の直前にティーンエイジ・ファンクラブのライブを見てきたという友だち二人がやってきてそれでしばらく歓談をおこなった。ティーンエイジ・ファンクラブが2017年にライブをしているというそのことがなんだか意味が一瞬わからなかった。僕はものすごい疲れていたので今日は銭湯に行くぞと思っていたので12時半になると銭湯に行くからといって帰ってもらって僕も銭湯に行って銭湯はいつになく空いているようだったし、5分お湯に浸かることは、どれだけ疲労を軽減してくれるのだろうか、5分お湯に浸かることと、往復20分弱くらいになるのか、15分弱くらいか、自転車を漕ぐことと、足し引きしたとき疲労ポイントはどのようになるのか、究明が待たれてはいなかった、気持ちがいいこと、それが全部だった、いやそれは本当に全部なのか。するとビールを飲むとすぐに酔っ払った、昨日のことを書いている。すぐに酔っ払って僕は、『10:04』を続けた。あと少しで終わってしまう。それがさみしかった。僕はずっとこのなかにいたかった。すぐに酔っ払ったあとにすぐに眠くなったので読み終えることなく済んだ。そうすると朝だった。
##3月6日 延々と働いて腰が痛くなって疲れ果てたそれが日曜だった、店が閉まったあとに来ていた久しぶりの友だちと歓談をおこなった。まるで毎日そういうことがあるような流れになったがこういうことはめったにないことだからめったにないことが2日続いためったにない2日だった。僕は軽薄なものを作りたい。そんなことはない。そのあとで金麦と煙草を買いにコンビニに出るとバス停のベンチに腰掛けて喫煙をして飲酒をした。それは久しぶりのことで、僕は一年前の同じ時期にそういうえば同じことを日課のようにやっていた、そのことを同じ景色を見ながら思い出していた。そのときに考えていたこと、鬱屈していたこと、そういう手触りを思い出していた。完全なる空腹の状態で金麦を2缶飲むとふわふわとした心地になって、夕飯を食べる気がなくなっていた、それで帰った、帰る間際、いや、でも何かお腹に入れないと、と思い直し、でも牛丼等を食べたい気はしないし何か調理する気もまったく起きない、そういうところでまさかの日清のカップヌードルでも食おうと思って、カップラーメンなんて何年ぶりだろうか、食べようと思って、踵を返してコンビニに戻ろうとしたところでiPhoneを落として、拾うと画面に大きな亀裂が入っていた、防護の何かを貼っていたが、もしかして割れたのは防護の何かであって画面それ自体に傷はないのではないか、と薄く期待して防護の何かを剥がしてみたところ画面それ自体がしっかりと割れていた。だからカップヌードルはとても高い買い物になった、それを思うとバカらしく腹立たしくでも別に腹は立っていなかった、それは酔いによる効果だろうか。わからないが寝際に『10:04』を読み終えて、読み終えてしまった、と思って寝た。
それが昨日だった、今朝は曇りだった、自転車に乗ってブレーキの感触が昨日までと違って、坂をくだっている途中で高いところに男たちがいた。マンションの屋上部分で何か作業している人たちだった。帰り、今度は別の建物に足場を組む男たちがそこまでに組まれた足場に立っていた。男たちが高いところにいる朝だった、足場は建物を覆う透明な枠組みで、そこに張り付く普段とは違う姿勢の男たちのその姿はアンゲロプロスの映画を思い出させた。多くは黄色いレインコートをまとった男たちだったが、『永遠と一日』のフェンスを越える途中で止まった男たち、それを思い出させた、曇り空の影響もあるのかもわからなかった。フェンスを越える途中で止まった男たち、そんな光景がゼーバルトにもなかっただろうか、記憶違いかもしれない。言ってみれば『10:04』は僕にとってはウディ・アレン・ミーツ・ゼーバルトであり、それが好みでないわけがないのだった。次の本は決まっていない。本を読まないで他のことをやるべきかもしれない、やるべきことは、あるらしい。信頼。
高いところにいる男たち、そのことを思いながら、それから一緒のタイミングで思っていたのは「なま」ということだった、それで店に着くとなまって英語で言ったらどれなんだろうな、フレッシュなのか、レアとかなのか、なんか違うよな、と思ったらそれはrawだった、僕が言いたいのはrawだった。僕はいまrawなものにしか興味がないというか、しか、というのは言い過ぎだけどrawなものに強く惹かれる、そういうものに触れていたいと思っている。昨日の夜友だちと話していたときも日記はいいよねという話をしていたのだけどそれは植本一子を読んでから僕のなかで定着した感覚だったけれど、それはだからrawということなんだと思った。それで説明がつくのは『家族最後の日』を読み始めたとき最初の2章、お母さんのことと義弟のことを書いた章、それがその主題を正面から描いたエッセイとして仕上がっており、僕はその本の始まり方に、随所に感じ入りながらも不安というか、不安のようなものを感じていた、それはこれはrawではないという感覚なんだと思った。『かなわない』を経て、しっかりと編集者がついて適切に書かれた文章、その端正さが僕を不安にさせた、だから石田さんの章が始まってそれが日記でそしてやっぱりあの感覚が読んでいて戻ってきて、僕はそれによろこんだ。それはだからrawということだった。rawというのは写真のデータとかでも使われる言葉らしくて、そういう意味でも写真家の植本一子の日記でrawを感じるというのはなんだかナイスなことかもしれない、と思った。ともあれ、rawなものがいい、そういうものに触れていたいし、そういう態度で僕は日記を書いていたいというか日記を書いていたらそういう態度になっていられるから日記がいい、そういう気分で生きている気がする。
##3月7日 いろいろと仕込みをしながらということもあったけれど平日とは思えないなんだか忙しい日になって22時半やっとゆっくり座っているということになってさすがに疲れてぼんやりとしていて不安・ほせ・差エール、そのまま変換させるとこんなことになる程度にGoogle日本語入力はその名を認識していないがフアン・ホセ・サエールの新しいやつが出たと人から聞きそれを喜んで次はそれを読むことが明らかに決定してタイトルは『傷跡』でそれをしかし僕は私はいつ買いにいくのかと思っていて今週はなんとなく一日どこかで休みにしてもよかったけれども自分にたいへんな連勤を課すことにしたので休みがどこにもなくて働き通しなので本をいつ買いにいけばいいのかがわからなくてiPhoneの修理もいつしに行けばいいのかわからないし昨夜は『10:04』をまた少し冒頭から読んでいて今週はいろいろと考えなければいけないとかやらなければいけないとかそういうことがあるので新しい本を自分に与えることはやめて『10:04』の甘美な時間をちまちまと再び味わうというのもたまにはそういうペースの読書をしてみるというのも次に次に行かないで一つの小説にとどまって戻って味わって噛み締めてみるというのもいいのではないかと思って昨夜はそうしていたのだけど結局こうやってフアン・ホセ・サエールの新しいものが出たということを知ってしまって買いに行って読み始めて楽しくなったりそこまで楽しくはならなかったり退屈したかと思ったら急に息を吹き返して興奮したりしてそうやって新しいもの新しいものに行くということになるのは毎度のことだけれども今週は幸か不幸か身動きが取りづらいためそして水声社というアンチAmazon出版社の本のためAmazonで見てみても中古でしか売られていなくて定価の倍くらいの価格がついていたがどこのバカがそんなものを買うのかと思うほかないし例えばもしかしたら明朝にiPhone修理の店に新宿に行くかもしれないし起床時間等によってはまったくそんなことは無理かもしれないけれどそれは西口で西口ということはブックファーストがあるわけだけど大きいから置いているだろうけれども普段行かない本屋で構造もよく把握していなくて探すのが面倒だし全幅の信頼は渋谷の丸善ジュンク堂や新宿の紀伊國屋書店と違って置いていなくて私はやっぱりワンフロアで完結している丸善ジュンク堂を完全に支持しているし書籍の購買のデータを紀伊國屋書店ではなく丸善ジュンク堂に蓄積させた方が楽しいからそうしたいのだけど最近はなんでだか新宿に出る機会が多くて紀伊國屋書店ばかり行っていて丸善ジュンク堂のあの東急百貨店のエレベーターに乗り込んでだんだんと足下に広がっていく渋谷の町を眺めることすらしたいと思っているし眠気というか疲労が頭をぼんやりとあたためていてコーヒーを本来であれば淹れたいのだけど残量がだいぶ怪しいところになってきており次の豆は明後日木曜日に届くので明日を乗り切れるかどうかというところで自分で一杯消費してしまうので何かが変わってしまいそうにも思えるそういう残量なので今は我慢をしたほうがいいような気もしているが私は先ほどからチラチラと二度ほど豆の入っているキャニスターの置かれている棚を顔を左上に向けて見ていてつまり「本当にギリギリなのか?」と思っているというか今一度確かめてみたら「意外に飲んでも大丈夫なんじゃないか?」と思うような残量だったりするのではないかという期待をほのかに抱いているらしいがとここまで打ってやはり立ち上がり豆の残量を計ったところ決して安泰とはいえないけれども一杯はいってもいいという判断がくだされたためお湯が沸かし始められてとここまで打たれたあとに今回の浅煎りのコーヒーであるところのエチオピアのイルガチェフェのやつが無事淹れられて今は22時55分で10:55で『10:04』はスペイン語版かなにかだと『22:04』というタイトルだったということがTwitterだったか訳者あとがきだったかにあったがコーヒーはあったかいし香りと一緒に上がってくる湯気が僕の眠気をより深め疲労をより顕在化させるようなそんな気もしないではないけれど
##3月8日 部屋があたたかく眠気がぼんわりと強化され続けている、幸か不幸かコーヒーは余裕でもちそうだ、今日は考え事が昨夜から一気に進んだためテンションが上がった、審判がくだされるのは先だ、お腹から眠い。
こうやって何度も名前を挙げているところからして特殊なことというか事件というかやはりニュースなんだなというところだけど、『騎士団長殺し』は僕は結局読まないのではないか、なぜなら次はサエールを読みたいからだ、来週は楽しみな予定があってそれが現在の希望の根拠になっている、明日は読書会だが予約が2人しか入っていない、これで当日キャンセルとかが出た場合、どうなるのだろう、明日はだから前回に引き続き僕もたっぷり本を読む時間にしようと思う、ということは、明朝に書店に行ってサエールを買ってきた方がいいということだろうか、そういうことなのかもしれない。
「村上春樹を読まない」ということがなんとなく「テレビを見ない」と同じような、何らかの浅はかな主張のようなものあるいは何らかの空虚な優越感のようなものをにじませがちな発言になりがちな気がしていて取り扱いに注意を要する気がしている。僕は村上春樹は読まないんですよね、若いときで卒業しちゃったなw。僕はテレビは見ないんですよね、そもそも持っていないんでw。ところで眠い。
コーヒーが余裕でもちそうなためコーヒーを淹れた、19時31分、朝はコーヒーが不安だったためコーヒーは淹れかった、でも飲まないわけにはいかないのでコンビニで買うことにした、コーヒーのLサイズ、納豆、切手140円分、が買われた、コーヒーの機械のところでコーヒーが落ちているあいだ顔を横に向けたところにある各種前売り券等のポスターを見ていたところスカイツリーの展望台だかなんだかの情報があり、そんなものを事前に買う人があるのだろうか、と思いながら見ていると料金区分が3つ設けられていて大人・中人・小人、とあった。大人、小人、であればおとな、しょうにん、と読むのだけど、こうなると大人と読んではならない圧力が強く、だいじんだろうかと思ったがしょうにんなのでにんということなのかといま変換してみるとだいにんちゅうにんしょうにんで全部出たからそうだった。おとな、でいった場合にはなぜかなかんどと言いたくなった。おとななかんどこびと、どういうことなのかはわからなかった。なかんどはくらんどみたいな感じなのだろう、蔵人、うみんちゅ。四人をよったりと読むのがなんとなく好きだ、を思い出した。を思い出して金麦の桜のラベルの広告のコピーが可笑しかった、この場合はひらがなよりも漢字を振りたかった、可笑しかったと聞いたのを今思い出したので「ので」と打ったところで止めて検索をしたところ見つかってちゃんと情報を整備している金麦というかサントリーに好感が持ててコピーは「風と、花びらと、笑い声と、つないだ手と、新しいスニーカーと、レジャーシート、お弁当と、鼻歌と、八分咲きと、うきうきと、待ちに待っていたこと、変わらないこと、目が合うこと、笑っちゃうこと、ささやかなこと、ほっと、たしかなこと、小さな夢と、つづいていくこと、あなたがいること、あなたといること。春と、金麦と」とあった。レジャーシート、というのがただならないというか、ただならない。
未来の存在。未来の不在。私たちを未来へと導く。23時22分、『10:04』を開いている。また頭から少し読んでいた、教えてくれた人がそうして遊んだといっていたグーグルマップで出てくる場所を確認しながら読む遊びをすると楽しかった。ストリートビューまで使えばきっともっと楽しいがそこまではしなかった。
アパートのすぐそばまで行くと急に雨が降りだしたが、どちらかというと、まるでその辺りでは前から降っていて、僕らがビーズカーテンを分けるみたいにしてそこに入っていったように感じられた。突然風が強くなった気がしたのも、風に対する意識が高まったせいにすぎないのかもしれない。公園の前を通ったとき、二人の少女が顔を寄せ合ってこそこそと何かをしているのが見えた。僕はその子たちがたばこに火をつけようとしているのかと思ったが、二人が互いから離れたとき、それぞれ手に持った花火の火が白くまばゆいマグネシウムの炎色から徐々にオレンジ色に変わっていくのが見えた。少女たちが笑いながら花火で模様——ひょっとすると名前かもしれない——を描きながら公園を走り回ると、飛び散る火花に向かって小型犬がキャンキャンと吠えた。僕は急に、空をゆっくりと横切る翼端灯がないこと、そして着陸前の傾いた機内から街を見下ろしている人間がいないことを意識した。
ベン・ラーナー『10:04』(p.25-26)
##3月9日 昨日が完膚なき寝不足状態だったため早く寝たらとても早く起きて、なんのために早く寝たのかわからなかったが天気がよかったので外にふらふらと出ると新宿駅近くのiPhone修理屋さんにiPhoneを持ち込んだ、なんだか今回はアップルストアにわざわざ予約して行ってということをしたくないような気分があったため修理屋さんに行った、iPhone修理屋さんは検索するとたくさん出てきてどれがいいか選ぶことが難しい、教えてもらったところに行った、そこはwebがしっかりしていたし料金体系が明確な感じだったしやっぱりそういうところで判断するほかない、あとは普段はそこで何かを確認することはないがGoogleの口コミというのが参考になるというかそれくらいしか参考にできる材料がないから参考になった、地雷は踏みたくなかった、しかしサクラ的な口コミも絶対にあろうからわからなかった、僕が行ったところはレビューを書くと500円引きになるというサービスをやっておりやっぱりレビューによる信用の蓄積しかないのだろうと思った、そこでiPhoneを渡した。液晶の破損ではなくパネルのみの破損ということで僕は1万2000円を覚悟していたら6800円だったのですごく安くなった気がしたうれしかった、そこから最寄りの書店であるブックファーストに開店と同時に滑り込むような
##3月10日 とここまで打たれてそのままになって一日が越されていた、いつ打っていたのだったか、どれだけ放っていたのか。意識の隅っこにも続きを書くことが浮かんでいなかったのだけど滑り込むようなタイミングで入って目当てだったフアン・ホセ・サエールの『傷跡』とその上を見たところ見たことがこれまでなかった気がしたから新しく出たやつだろうかと思って発行日を見たら2015年の11月だった『パリ・レヴュー・インタヴューⅠ 作家はどうやって小説を書くのか,じっくり聞いてみよう!』をなんだかそれはとても面白そうだと思ったために買うことになってレジに持っていったら両方とも3000円程度の本だったらしく2冊で6000円を越したが先ほどのiPhone修理で5000円ほど浮いていたので気持ちのうえではお釣りが来るくらいだった、そうやって一日が始まって朝の、人のほとんどない大型書店は気持ちがよかった。
それから夕方まで営業をしてそのあとに人間の方とお話をする時間があってそのあとに読書会があって坂口恭平の『けものになること』だった、参加者が極小だったため昼にその旨をツイートしたら妙にたくさんリツイート等がされたりフォロワーが20人だか30人だか増えたりということがあったが挙手されることはなかった、時間になって、2人のご予約者のうち1人が来られない、つまり1人しかおられない、笑ってしまう状況で、笑いながらかくかくしかじかと話した、読書会というよりは読書の時間になっちゃいましたけど、とか言いながら、びっくりしちゃいました、とか言いながら、始めるでも待つでもなく、ただ読まれている、その時間、けっきょくもうお一方は来られなかった。連絡を一切よこさないでキャンセルする意味が僕にはわからないのだけどそれに対する怒りであるとか苛立ちであるとかを昨夜の時点では特に感じることもなく、僕も自分のコーヒーを淹れて最寄りのソファに腰掛けて今朝買ってきたサエールの『傷跡』を読み始めた。なんという、停滞、というか、なんというか、淀み。けっこう驚くべきちんたらさがここにはあって、とても不思議な感覚になっていた。
と、なんとなく書かれた順に時系列だと思って読んでいて途中で「あれ?」と思ったので今確認していたら時間があっちとこっちを行き来していてだからエルネストの部屋でのやり取りの場面が先立って書かれていたので本当に注意力のない読み方をしていることがよくわかるが構いはしなかった、しかしちんたらしている、のんびりというよりはちんたらという感じで、そのちんたらしているのは今のところ愉快な感覚で読んでいる、今日の昼はやたらに暇で今13:13誰もいないしやることもないというかこれを打っているくらいだからやることもないしコーヒーを飲みたいし大げさな手の動きのタイピングでコーヒーコーヒコーヒーj日^j^¥非OKストア¥h0¥お顎あ^じゃいオーh90日お¥―0j^¥日尾^¥ひこお¥―日¥あこアリジョージー音柄^―ジアjぽ^―r字帯じゃjンがオイアjrはh9h3んhげ@あhbヵん。んwg9p8l.h.あ、jr日lhガンm,bのイアbgか。んrなhw80お愛ぇk.hgんl.kんkはb8日なkンロイアb日ホイじゃご愛オア;穂言うrヘアkjんlg,m↓具90w3位lwんお4位;jp:;いj;おl.kmjっホは小木あおはおホイhが終えg日おあこ^―エア日¥和え所^―日覆m−爺―^h位0あ^衛士―^
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とここまで打ったあと20時前から急に一気に忙しくなりびっくりするとともに疲れ切ったし楽しくもなったのでよかった。一喜一憂しかしない。ぼるへす、と書いたのは昨日買ったインタビュー本のボルヘスのところを読んでいたからでボルヘスが楽しそうに話していたが寝る前はサエールを読んでいた、どちらもアルゼンチンの人だった。
また、あらゆるものに分身が備わっているという事態も考えられるだろう。トマティス、グロリア、おれの母、おれのノート、おれの気象欄、『ラ・レヒオン』紙、アルノルト・シューンベルクのバイオリン協奏曲が鳴り響くエルネストの明かりのついた部屋。もしそうだとすれば、もうひとつの世界に属する円のなかでは、なにかしら別のことが起こっているはずだ。というのも、正確無比な複製などというものは、無限の増殖という恐ろしい事態を意味するがゆえに、およそばかげた考えに思われるからである。無限に繰り返されるベッドの上で、同じく無限に繰り返されるおれのような人間が、自分とベッドが無限に繰り返される可能性について考えをめぐらせるなどということはありえない。そんなことはまったくばかげたことである。しかし、ベッドから起き上がったおれは、たったひとつのベッドとたったひとりの人間しか存在しないというのもやはりそれに劣らずばかげたことではないだろうかと考えた。そして、おれ自身の分身に関して唯一恐ろしいのは、おれには生きることのできない人生を彼が生きているのかもしれないということだ、そんな思いにとらわれた。
フアン・ホセ・サエール『傷跡』(p.81)