読書日記(13)

2016.12.31
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#12月24日 ホールインワンハンターたち、打ち放たれるといっせいに走り出す、各人各様のコース取りの様子に感心する
第3ホール、では打った瞬間、小型飛行機が飛んだ、そしてぐるりとカメラは林立する木々をなめながら半回転すると、別のコースにいる一人の少年を捉えた、彼が何か軽そうな何かをチップショットな感じで打った、そこから、ポーン、ゆっくり、ピタゴラ、スイッチ、流体、力学、天才、少年、くぐって、くぐって、そのつど、感嘆、次第に、呆れて、なにも、かもが、計算、通りに、どこかで、最初の、打球も、合流、したのか、くぐったり、ゆっくり、とんだり、はねたり、最後に、入った 大きな喝采
そのあと天才料理人になった
朝から小柄な声高なイタリア人になったつもりで「ドルチェヴィータ、ドルチェヴィータ」と、「ル」のところは巻き舌で、顔の高さに掲げた指をこすりながら、大きな熱心な声で、繰り返した
風邪は治った。完全に元気になった模様。
ばんじゅ、だっけ、と思ったら「飯酒」という変換があってすごくびっくりした。襦袢、これはじゅばん。なんていう言葉が欲しかったのか、わからなくなった
判明した。「ばんじゅう:番重」が言いたかった。
それにしても「飯酒 ばんじゅ」でググっても言葉の意味を説明してくれそうなページが、ない、と思ったらあった。
韓国では「バンジュ(飯酒)」というとある。そこで今度は「韓日辞典」を引いてみると「バンジュ=食事の時に飲む少量の酒」と出ている。
朝ご飯にご飯を3杯食べたりしながら武田砂鉄の『芸能人寛容論: テレビの中のわだかまり』を読んでいた。華原朋美のやつがものすごい面白かった。武田砂鉄の文章を読んでいるとなんでだか「文芸」という言葉を思う。思ったのは、もしかして先日のトークイベントのときに河出書房新社を退社するときに同僚たちから渡された雑誌『文藝』仕様の武田砂鉄が表紙写真になっている冊子の表紙と彼が編集者として手がけた作品が年譜になっている目次のページがプロジェクターで映されていてそれを見たから、だろうか。それだけじゃないと思いたい。とにかく面白い。
トークイベントのときに人をけなすのは難しい、というようなことを言っていて、たしか。それで、そうだよな、と思った。けなすのはとても難しい。褒めるのはどんな隙を持っていてもできるけれど、けなす方は付け入らせる隙を作ってはいけないから周到にしなければいけないから、難しい。この本のAmazonのレビューについている1つ星のレビューはけなすことの難しさを示す一つの例だろう。
##12月25日 大柄でうっすらと髭を生やした肌が地黒の髪はもじゃもじゃの男とデートをした、首都高の下みたいな道を歩いた、何度目かのデートで、もう次はないだろうなと思っていた、それを早々に告げた、プレゼントをくれた、やや悲しそうにしていた、別れたあとで申し訳ないような惜しいことをしたような、そんな気になった、そういう夢を見た。僕は女性としてその夢を見ていた。
そのあとで仮住まいの家に帰った、インド人の家にお世話になっていた、そこで住む男が大学時代の友人かなにかだった。彼は大柄ではないが髪はもじゃもじゃだった。お父さんたちは登場しなかったが、どんな人たちなのかはもちろん知っていた。
熱を出してから胃の調子が悪い、お腹のあたりがくすぶっている感じがする、ぼんやりと気持ちが悪い、そういうときは食べ物を流し込めばいいはずだという考えからいつもどおりにたくさん食べようとするが、食べてもよくなる気配がなく、それで諦めて胃薬を買うことにした。
クロックムッシュみたいなものを1つ作って食べてもう1つ作って食べてからミヤBMとさっき買った富士胃腸薬を飲んだ。和漢生薬配合。
そのあと胃のあたりがよりキリキリ痛むような気がして少し横になった。体調が悪化しているような気がしてならない。PL配合顆粒を飲んだ。お腹が苦しい。
普段と異なる場所の変調は非常に大きな影響をもたらす。ちょっとお腹のあたりに違和感があるだけでなんのやる気もなくなる。すごい制限を感じる。この痛みも慣れて普段のものになってしまえばそういうことにはならないのだろう。それは僕の場合はアトピーの痒みで、僕の人生は痒みと一緒にあるようなものだから、人生単位では大きく影響は被っていると思うけれど細かいことへの影響は今日の胃の痛みよりもずっと小さい。もちろんあるけれど、この痛みよりはずっと小さい。痛い。胃腸薬なんの効果もない。おとといもそうだったけれど体調に不安があると普段は欲望する「これだけはお客さんせめて来てほしい」みたいなのって一つも思わなくなるというか、とにかく無事に終われますようにと祈ることしかできない。逃げ切れますようにと。すでにして、こういう時計の見方をした、あと6時間半。
それはそれとして『芸能人寛容論』を日中に読み終えたこともありさっきからコーヒーを淹れたりサンドイッチを作ったりしながら武田砂鉄の文章のことばかり思っている。「文芸」ということを思う、と昨日書いたけれど、本当に彼の文章はすごい好きというかいつもすごい魅せられる、『紋切型社会』を読んだときもこの人は言葉に祝福されたような人だなみたいなことを思ったのだけど同じことを思う。なんだか全然うまく考えられないのだけどなんかすごい躍動しているというか自由に踊っている感じがするというか、自由なんだけどすごい技術のもとで自由にさせられているというか、名人芸みたいなのを見て「ほほ〜」と唸る感じの唸り方をよくしている気がする。比喩が上手とかそういうことだろうか、比喩というか話全体を比喩に仕立てるというか、対象をオブジェクトとして扱う、と、もちろん「対象」の英語がobjectなのはわかっているのだけど、オブジェクトとしてというか物体というか、すごいコロコロ転がしている手つきが気持ちいいというか、いやよくわからなくなったが。最初からわからないのでわからなくていいのだけど、とにかく読んでいて気持ちがいいというか目がすごく喜ぶタイプの書き手で、これからも読みたいと思うのだろうなと思っている。
寝る前に少しずつ読み進められている『キャッチ=22』は面白いんだか特に面白くはないのだかわからないところがあり、面白いと感じたりなんとなくバカバカしく感じたりしながら読んでいる。
寝る前に読んでいる、寝る前に何も飲まずに読んでいる、何も飲まないと飲むよりもすぐに床につくようになって、寝落ちまでの所要時間はそう変わらない気がするので、総じて夜に読む時間は短縮化されている。読むためには酒を飲まないといけない、が、今はまだ酒というところにいない。22日に熱を出して、21日はなぜか休肝日にしていたから、だから20日を最後に酒を飲んでいない、もう5日も飲んでいない、由々しいことだ、飲まねばならない、しかし体が欲さないので飲まないし、ねばならぬとは書くものの欲さない体はまったく別に飲みたくならないものだなというところに驚きもする。飲まないほうが退屈というのは思うが、じゃあ飲もうというふうには全然ならないようになっている。
##12月26日 『キャッチ=22』を少し読んだあとに昼寝をしたところソフトバンクへの入団を決めた陽岱鋼が記者会見を開いていてすでに白と黒と黄色のユニフォームを着た彼は途中で「いいっすか?」ととてもうれしそうな、陽岱鋼のあのすばらしい大きな笑みを見せて、言った。「あれやっていいっすか?徳を自分に引き寄せるためにっていうので朝からたまにやるんすよ」と立ち上がると、陽岱鋼の声とは別の声が、なにか読経のようなトーンの声が響き、意味は失念してしまったが「君は〜〜のために〜〜した」というようなニュアンスの、命令的な完了形の何か、あるいは未来からの視点でその先その人に待ち受けていた運命を告げるような何か、ありがたい言葉が流れ、陽岱鋼は胸の前で片方のてのひらにもう片方のこぶしを静かにぶつけ「合掌」と大きな声で言った。
焼き芋の販売機の一時的な撤去について「ご不便をお掛けしてしまい大変申し訳ございません」と過剰な陳謝の姿勢を見せるスーパーを出て坂をのぼっているときから感じていたことだったがやたらと下半身が疲れており、労働しながらもいつもよりも強い重力が体に掛かっているようなそんな感覚があった。そもそも昼寝すらも、設定していたアラームをガン無視するということが起きて、自然な目覚めがぎりぎり大丈夫な時間に起こったからよかったものの、開店時間を過ぎても寝ている、という事態になっても不思議ではないことになってしまった。これはなんというか、非常にというか、よろしくないというか、よろしくなさとかではもはやなく、本当に疲れが溜まりに溜まっている、と解釈するのが正しいことのようだった。
年の瀬になると街中から「来年からは」の大合唱が聞こえてくるものだがあたかも年をまたげば人格からまるごときれいに入れ替わるかのような、そんな過大な、というか端的に間違った期待を多くの人が「来年」に寄せているように思えてならない、来年とはいえ今日と地続きのものでしかないことに人々はどれだけ自覚的なんだろうか、と僕はこれまでわりと毎年のように思っていた気がする、だからあまり年の変わり目に(何を読むかということ以外は)強い関心を払わないようにしていたのだけど、今年の僕は「来年から、全部来年から」と盛んに言っている。「今は来年からの営業時間変更のせいで完全やる気失っているモードになっているけど、来年になったら心持ちも全部変わる。来年からは。来年からは」
その来年からはという名の現状の怠惰・無気力の肯定はもしかしたらこの読書日記にも及んでいるかもしれなくて今週はどうも書く気が起きていない気がする。どこにも出かけていないせいかもしれない。書くことがないみたいな感覚もあるのかもしれない、ともあれ、来年からはもっとがつがつ書く。
それにしても疲労困憊で、タスクを一つずつどうにか、こなしていく、それだけだ。それだけやって、どうにか、終わらせたい。12月26日、『キャッチ22』はいつまでに読み終わるだろうか、『煙の樹』に年内に進めるだろうか、戦争を、戦争をこの手に!
なにか、打っている途中で思い出して書こうと思ったことがあったのだが打っているあいだに忘れて、思い出せないという感触だけが残されてとても気持ちが悪い。
##12月27日 トイレで「危険な読書」という特集のブルータスを開いていたら荒俣宏が『戦地の図書館』という本を紹介していて面白そう読みたいと思った瞬間に、「飽き飽きするまでずっと本を読む時間を過ごしたい」という強い欲求が湧いてきて、そのとき僕は実家のリビングのホットカーペットに腹ばいになって肘をついて本を読んでいて腰から下はこたつに入っていてそばの手作りの大きなスピーカーからは父が選ぶジャズのレコードが掛けられていて、僕はたまにみかんを食べたりキットカットをつまんだり、少し疲れると外に出て冷気を心地よく感じながら煙草を吸ったり、あるいはうとうととしたりする。荷物のなかにはあと少しで終わるところだった『キャッチ22』の下巻と『戦地の図書館』と『煙の樹』の3冊が入れられていて、『キャッチ22』をやっつけたあとは残りの2冊を気分に沿って読む。気分に沿ってと言ってもいずれを開いても戦争のことが書かれている。
昨日は久しぶりに酒を飲むことにして安ウイスキーを水割りにしてがぶがぶ飲んだ。すると前よりもおいしくないような気がして、そんなに楽しい気が起きなかった。不毛さ。
クレヴィンジャーは、ボローニャ上空で戦死することはヨッサリアンの責務だということについてウインターグリーン元一等兵と同意見であり、ヨッサリアンが、爆撃ラインを動かして出撃を中止させたのは実はおれだと告白したとき、顔色を変えて彼をなじった。

「なぜ悪いんだよ」と、ヨッサリアンは自分のほうに非があるかなと思いかけているだけに、いっそう激しく議論しながらわめきたてた。「大佐が将官になりたがっている、ただそれだけの理由でおれはけつをぶち抜かれなきゃならないのか」
「本土の連中はどうなる」とクレヴィンジャーも同じく興奮して問いつめた。「あの連中はおまえが飛びたくない、ただそれだけの理由でけつをぶち抜かれなきゃならないのか。あの連中は空軍の支援を受ける権利があるんだぞ!」
「しかし、なにもおれでなくたっていいだろう。いいか、だれがあの弾薬庫をやっつけようと、彼らにとっては同じことだ。おれたちが飛ぶ唯一の理由は、あのキャスカートのやつがおれたちを使ってやっつけると志願したことにあるんだぞ」
「ああ、おれだってそれくらい百も承知さ」と、クレヴィンジャーは痩せた顔を蒼白にし、興奮した茶色の目をしかつめらしく泳がせながら言い切った。「しかし、あそこの弾薬庫がまだ健在だという事実には変りがない。おれがおまえに劣らずキャスカート大佐をきらっていることぐらい、おまえもよく知ってるはずだ」クレヴィンジャーは唇を震わせながら、強調のために口をつぐみ、つづいて拳で彼の寝袋を軽く叩きはじめた。「だが、おれたちが決めることじゃないぞ——どういう目標を破壊するかとか、だれがそれを破壊するかとか——」
「そうして、作戦飛行中だれが殺されるかとか、なぜ殺されるかも?」
「ああ、それもさ。おれたちには詮索する権利なんかない——」
「おまえはきちがいだ!」
「——詮索する権利なんかない——」
「どうして、どういうわけでおれが殺されるかは、おれの問題ではなく、キャスカート大佐の問題だと、おまえは本気でそう思ってるのか。ほんきでそうおもっているのか」
「ああ、そうだとも」と、クレヴィンジャーは見たところ自信なさそうだったが、強く言い張った。「戦争を勝利に導くために責任を委ねられている人間がいてな、どんな目標をどう爆撃したらよいかについては、おれたちよりそのお歴々のほうがはるかにましな決定を下すはずなんだよ」
「おれたちはふたつのちがったことを話しているんだ」とヨッサリアンは大袈裟にうんざりした様子を見せながら言った。
「おまえは空軍と歩兵部隊との関係について話をしているが、おれはおれとキャスカート大佐との関係について話をしている。おまえは戦争に勝つことを話しているが、おれは戦争に勝ってなお生き残ることについて話しているんだ」
「仰せのとおり」と、クレヴィンジャーは人を喰ったような調子で答えた。「おまえはそのどちらが大切だと思う」
「だれにとって」とヨッサリアンは反撃した。「目を開けてよく見ろよ。クレヴィンジャー。死んだ者にとては、だれが戦争に勝ってもちっとも変りはないんだぞ」
クレヴィンジャーはまるで横っ面を張られたかのように、しばらくじっと坐っていた。
「こいつぁめでたい!」と彼はにがにがしく言い放った。ごく細い乳白色の線が、容赦なく締めつける環のように唇をとりまいていた。「敵にこれほど大きな安心感を与える態度——そう確実に言える態度——は、おれには思いつかないからな」
「敵というのはな」と、ヨッサリアンは自分の言い分の正確さを充分に量りながら言った。「どっちの側にいようと、とにかくおまえを死ぬような羽目に陥れる人間すべてを言うんで、それにはキャスカート大佐も含まれているんだ。そのことをおまえ忘れるなよ。長く憶えていればいるほど、それだけおまえは長く生きられるんだから」
だが、クレヴィンジャーはそれを忘れ、死んでしまったのである。 ジョーゼフ・ヘラー 『 キャッチ=22(上) 』(p.232-234)
どうしたことか、腹が痛くなってきた。さっき向かいの席の
##12月28日 終わりに向かっている。昼の労働は今日で終了。仕込みもなく、だらだらと過ごす。おやつにセブンイレブンで買ったチョコ菓子を食べた。昨日はセブンイレブンで買ったアイスクリームを食べた。数日前はローソンで買ったアイスクリームを食べた。つまり、おやつ習慣というものがこのところできた、ということらしかった。『キャッチ=22』、上巻が終わった。
ぐるぐると、時間の経過がわからないような作りのなかに放り込まれている感じがあって、僕の集中力がないせいかもしれないけれど、どれが先でどれが後なのかわからないで読みながら、あ、これは前に聞いたことある場面だからこれのあとがこれだったのかとか思いながら、でもそれは先に読んでいるのですでに起きたこととしてすでに一度体験したこととして体験するようなそういう読み方になって、時間がだからどこにも進まない、この感覚は出撃回数50回から55回へ、それから60回へと延々と増やし続けられる兵士たちが生きる弛緩した呆けた恐怖に満ちた八方塞がりの死以外に脱出口の見当たらない狂った時間とも通じるものがあるのかもしれない、と思った。
「おれは睾丸をなくした。アーフィー、おれは睾丸をなくした!」アイーフィーには聞こえなかったので、ヨッサリアンは前かがみになって彼の腕を引っぱった。「アーフィー、助けてくれ」と彼はほとんど泣きながら頼んだ。「やられた。おれはやられた!」

アーフィーはぼんやりと不審そうな笑みを浮かべながら、ゆっくりと振り向いた。「なんだい」
「やられた、アーフィー。助けてくれ!」
アーフィーはニコッと笑って愛想よく肩をすくめて見せた。「聞こえないんだよ」と彼は言った。
「おまえにはおれが見えないのか」とヨッサリアンは疑わしげに叫び、あたり一面に噴き出して足もとにひろがり深まっているように感じられる血の海を指さした。「負傷したんだ!助けてくれ、後生だから。アーフィー、助けてくれよ!」
「まだ聞こえないんだよ」と、アーフィーはむっちりした手を白い花冠みたいな耳のうしろに当てながら、辛抱づよく訴えた。「なんて言ったんだい」
ヨッサリアンは、あんまり大声で叫んだために急に疲れ、元気を失った声で、このやりきれない、腹立たしい、ばかげた状態について答えてやった。おれは死のうとしている。だのにだれひとりおれを見てくれようともしない。「気にするな」
「なんだって」とアーフィーが叫んだ。
「睾丸をなくしたと言ったんだ!おれの声が聞こえないのか。おれは股ぐらに負傷したんだ!」
「まだ聞こえないんだ」とアーフィーが文句を言った。
気にするなと言ったんだ!」ヨッサリアンは罠にかかったような恐怖心をもって叫び、身震いをはじめた。急にひどく寒くなり、ひどく力が抜けてしまった。
アーフィーはふたたび残念そうに首を振り、頭を低めて彼のみだらな、乳白色の耳をほとんどまっすぐヨッサリアンの口もとに寄せた。「ねえあんた、もっと大きな声で話さなきゃだめだよ。もっと大きな声で話さなきゃ」 ジョーゼフ・ヘラー 『キャッチ=22(下) 』(p.102)
久しぶりにビスコッティを作った。カルダモンをきかせたやつを作った。たのしかった。それは手土産にするべく作られた。もうひとつ手土産をと思いビーントゥバーのチョコレート屋さんにおもむいていろいろ試食をしたら極めて楽しかった。だいぶ前に行ったことがあったそのときはベトナムのやつにえらく驚いてそれを買ったそれはものすごくベリー感のあるチョコレートでカカオと砂糖だけでなんでこんなことになるんだという風味で驚いただが今回はもう驚かなかったただ舌が楽しんだだけだったたしかに今回もそれを舌はすごく楽しんだどれを食べてみてもすごく楽しんだしかし今回驚きとして迎えたのはトリニダード・トバコのやつでそれはまったくもってハーバル感がすごくて口に入れて鼻から香りが通る瞬間にまったく笑った。カカオだけだと、何に似ているって店の方はおっしゃっていたか、杉の木とかそんな感じのことだった気がする、それはあまりに食べたことのないチョコレートだったので
##12月29日 丸善ジュンク堂に行くと残された時間は10分だった、急いで『戦地の図書館 - 海を越えた一億四千万冊』の場所を調べて棚に向かうと『プリズン・ブック・クラブ』とかと同じコーナーで同じようにわりとパワープッシュされていた、それを手に取り踵を返した、レジに、行こうかというその瞬間、ふと振り返って見ると見慣れた顔が目に飛び込んだ。それで慌ててそちらに向かい手に取ったそれは栗山英樹『「最高のチーム」の作り方』だった。2冊を買って映画館に入った、4階に上がった、シネマヴェーラは久しぶりだった。
そこでハワード・ホークスの特集がおこなわれていて何か映画を見ようと思ってシネマヴェーラを調べたところハワード・ホークスの特集ということでこの日の2本はともに戦争の映画ということがわかり戦争の映画を見たいと思ったため13時の回の『永遠の戦場』を見ることにしたので行った、1936年の作品だった、中に入ってみると9割方埋まっているような感じで、年齢層はとても高かった。人と人のあいだに入る以外にないが、安易に入ると動きとか音とかがうっさいおっさんが横になる可能性が無視しがたい確率であるため、いつになく慎重に考えた。最初座ろうとしたところは、見たところ床にチョコだか飴だかの袋が3つほど落ちていて、それでその人の横は違うだろうと思ってやめた。そういう判断をいくつかおこなった結果座ったところは悪くはなかった。ただ右の人はよく笑う人だった。「そんなにおかしいか?」と僕は問いたかった。たしかにおかしいけれど、そんなに長引かせるほどだろうか、と。ただの、なにかの顕示でしかないように感じてしまう、僕の感じ方が性格が悪いだけなのかもしれなかった。僕はここにいる人たちをたぶんそう好きではないと勝手に思っている。どうだっていいことだった。それで映画を見た。戦場は永遠な感じがして非常に大変そうだった。第一次大戦のフランスだった。おそろしかった。砲弾や銃弾の雨あられの中を突っ込み走る兵士たちの姿と向こうに広がるぐねぐねと隆起した足を取られて走りにくそうな戦場をカメラが兵士たちよりはゆっくりしたペースで並走して低いアングルから捉える場面があって、兵士たちは光の都合でだいたい輪郭だけになり、それらがザックザックと走ってゆく、砲弾や銃弾が雨あられと降る、倒れる者ももちろんある、その映像を見ていると本当になんてバカらしいのだろうかと、なんてやけっぱちな作戦なんだろうと、戦争とはこんなにもバカみたいなことの繰り返しだったのかと、すごい気分になった。それにしてもえらくかっこうがよかった。栄光への道、が原題だけど、永遠の戦場のほうがそうだなと思った。終わり方も、なんだかいいように終わったけれどおそろしいことだった。すべては繰り返される。
「はい、少佐殿」とヨッサリアンは用心深く相手に調子を合わせた。「おっしゃるとおりだと思います」

「もちろんおれの言うとおりさ。おまえは未成熟だ。おまえは戦争という理念に自己適応ができないでいる」
「そのとおりです。少佐殿」
「おまえは死ぬことを病的に忌避している。おまえはおそらく、おまえが戦争に参加しており、いつなんどきおまえの首を吹っ飛ばされるかわからぬという事実をきらっているのだろう」
「きらっているどころではありません、少佐殿。わたしは完全に腹を立てているんであります」
「おまえは生き残りたいという根づよい熱望と不安を有している。そしておまえは偏屈者、暴れ者、俗物、あるいは偽善者を好まない。潜在意識において多くの人間を憎んでいる」
「意識的にであります、少佐殿、意識的にであります」とヨッサリアンは協力の精神をもって訂正した。「わたしは彼らを意識的に憎んでおります」
「おまえは、奪われる、搾取される、堕落させられる、屈辱を受ける、あるいはだまされるといったことに対して敵意をいだいている。悲惨はおまえを憂鬱にさせる。無知はおまえを憂鬱にさせる。迫害はおまえを憂鬱にさせる。暴力はおまえを憂鬱にさせる。スラムはおまえを憂鬱にさせる。貪欲はおまえを憂鬱にさせる。犯罪はおまえを憂鬱にさせる。腐敗はおまえを憂鬱にさせる。なあ、おまえが躁鬱病患者だとしても、おれは驚かんだろうぜ!」
「はい、少佐殿。わたしもたぶんそうだと思います」
「おれの言うことを否定しようとするな」
「わたしは否定しようとはしていません、少佐殿」と、ヨッサリアンはついに彼らに存在することになった奇蹟的な意見の一致を喜びながら言った。「わたしはあなたの言われたこと全部に同意します」
「それなら、自分がきちがいだということを認めるわけだ。そうだな」
「きちがい?」ヨッサリアンはショックを受けた。「あなたはなにを言ってるですか。なんでわたしがきちがいなんです。気が狂ってるのはあんたのほうだ!」 ジョーゼフ・ヘラー 『キャッチ=22(下) 』(p.130,131)
最終営業日はすばらしい盛り上がりを見せたのでうれしくなったし毎日がこうだったら僕は裕福になった。
それで友だちがやっている映画を見る会みたいなものに一年ぶりに向かった、電車に乗って下りると駅前のロータリーは必要以上に暗くてタクシー待ちの人々が影になって並んでいた、広場ではスケボーの音がざーざーと響いていた。大通りを歩いていくとカラオケ館の前を通ったら大黒摩季が歌われているのがよく聞こえた。それは僕を愉快にさせた、それで僕は所定の建物の高層階にあがっていった。
映画の会は月一回おこなわれており集まった人たちで2,3本の映画を見るという催しで、この一年は一度も行っていなかった、それ以前は何度か行ったことがあった、一年前に行ったのは同じく年末のときで、年末の一回は人々がその年のよかった作品等を発表する「俺たちのアカデミー賞」という名前の付けられた会で、去年僕はそこで泥酔したことも手伝ったのかやたら調子づいてしまいグザヴィエ・ドランの『Mommy/マミー』をこき下ろす発言をおこない、あとで気恥ずかしくなった。それで足が遠のいていたわけではない。集まった人で映画を見るよりも僕は集まって飲むような会合が定期的におこなわれていたらいいのになと思っている。映画を見ていても映画を見ているあいだは映画を見ているのでツッコミを入れたりくらいのことはあっても話をするということにはならない、僕はどうせなら人と話したい、多数の人の集まる場で人と話すことはいつまでたっても苦手だけどせっかくなら人と話したいと思った、定期的におこなわれていて「今日は行こうかな」みたいな飲み会みたいな、できたら宅飲みみたいな、そういう場所がほしい。だから映画を見るだけならば行くこともないような気にたぶんなっていった。それで一年ぶりに行ったらまた12月なので「俺たちのアカデミー賞」だった、着くと15人くらいだろうか、人がいて、誰かが発表をしていた、クッションやソファに好き好きに座り人は聞いたり飲んだりよその人と話したりしてリラックスしたムードであった、僕は金麦をちょうだいし、人が話しているのを聞くのは面白かった、いろいろとなるほどなーと思いながら、人が自分が好きなものを話す姿はいいものだと思った、一方で僕には語るに足るような好きなものなんてあるような気はしなかった。渡された紙にベスト10と主演賞、助演賞と書いた。それは営業中にエバーノートを見返しながらメモをして作っていた。こうなった。見た本数は52本ですべて映画館での鑑賞だった。映画を見る気力というか単純に欲求みたいなものが、今年はどんどんなくなっていった年だった。
淵に立つ
オーバー・フェンス
ディストラクション・ベイビーズ
ザ・ウォーク
山河ノスタルジア
母よ、
チリの闘い
若き詩人
ハドソン川の奇跡
シング・ストリート

主演女優賞:蒼井優 『オーバーフェンス』『アズミ・ハルコは行方不明』
主演男優賞:柳楽優弥 『ディストラクション・ベイビーズ』
助演女優賞:筒井真理子 『淵に立つ』
助演男優賞:菅田将暉 『ディストラクション・ベイビーズ』
とにかく蒼井優と言いたかった。柳楽優弥とも言いたかったし菅田将暉とも言いたかった。それだけだった。今書いていて筒井真理子は助演でなく主演ではないかと思ったが、それも別によかった。筒井真理子と言えたらそれでよかった。10挙げてみたところでそれぞれに特に思い入れもないような気もしたが発表しながらああだこうだ話したり話されたりしていると意外に伝えたいことが起きてくるようなところがあり面白かった。金麦を3缶とワインを少し飲んだところ自分の番が終わったら眠くなりソファに横になると眠っていた。
##12月30日 起きると6時半くらいだった、たぶん2時間とちょっとのあいだ眠っていた。革張りのソファは寒さを体に伝えてきた。見回すと眠っている人はちらちらといた、起きて話している人たちもいた。すでにいなくなっている人たちもいた。話している人たちは楽しい話をしていたので聞いていて楽しかった、その話題にあがっている人物のTwitterアカウントを僕は聞いてそれで見てみたかった。せっかく早起きしたので早くから動こうと思ったため7時くらいに辞してそば屋に入ってかけうどんを食べた。かけうどんが食べたかったのでそうして、電車に乗りながら『キャッチ=22』を読んだ。ここ数日のあいだ僕がもっともしたいことは「『キャッチ=22』を読み終わらせること」だった。それで読んだ。今日になり、それはもっともしたいことからミッションにかわった。今日中にやっつけること、それを自分に課した。なんとしても『煙の樹』を始めなければいけない。
店に戻って昨日の片付けの残りとブレーカーをおろしたり、数日間安心して不在にできる状態にして、コーヒーを一杯淹れて飲み、またあたたかいうどんを食べたいと思った。あたたかいうどんを食べたいと思いながら下の床屋さんに年末のあいさつをしてそれからまた電車に乗ったので『キャッチ=22』を読んだ。新宿から湘南新宿ラインの宇都宮行きに乗りたかった。すると35分後とわかり、僕は長いのでグリーン席に乗りたかった、これはもしや、と思って大崎までいったん行って、それでそこから宇都宮行きに乗った。大崎はビルが林立しているふうだった。大崎から乗るとゆうゆうと乗ることができた。それは恵比寿でも変わらなかったし渋谷でもまだ余裕があるようだった、新宿でも平気だったかもしれない、と新宿に着いたときに思った、しかしなによりも安心してい続けられるということがもっともコストが小さいことだと思うため自分の判断を間違ったものだとは思わなかった。宇都宮までは2時間ちょっとあった。蓮田を過ぎたくらいで一度車窓から外を眺めるとすでにそれは「これから先ずっと同じ」だと知っている光景があった。一軒一軒の家がでかく、そのまわりを刈られた田畑が広がっていた。並走する新幹線の高架橋とその下に時間ごと止まったように停められている軽自動車があったりした。邪魔されることなく遠くまで抜ける空は気持ちよく晴れ渡り下半分の景色はことごとく枯れ葉色だった。それでずっと、『キャッチ=22』を読み続けた。眠気は、やってこなかった。音楽は、聞かなかった。
足利、と途中で思ったが、地図を見てみると足利は栃木の西端で、宇都宮と高崎のちょうど中間くらいだった、だからこの風景の延長線上に、と思ったけれども、たしかにそれは延長線上ではあるけれども、そんなことを言ったら東京だって延長線上と言えるのと同じ延長線上でしかなかったその足利には、アズミ・ハルコがいて、津田詩織がいて、だから蒼井優がいたはずだった。そこではロードサイドドライバーたちがしのぎを削る。高く、頭でっかちの看板がそびえる。点々と、道標のようにそれが続く。そこは、そんなに退屈なんですか?山内マリコの『ここは退屈迎えに来て』を先日お客さんが「読みます?」とくだすった、それを持ってきたら、とちらっと思ったが、地方都市に今暮らしていない人間が地方都市に足を踏み入れた瞬間にそれを読むというのも、本当になんというか、いけない行為のような気がする。ただ、どんな人間のどんなシチュエーションがそれを読むことを許すのだろうか、僕は数年前まで地方都市に数年間暮らしていました、日々さまざまな似たような国道や県道を車で走っていました、1階は全面駐車場で2階から建物になっているつまり一日中日陰になっている家電量販店の駐車場が日々の昼寝のスポットでした、だから私にはロードサイドの退屈を描いたものらしいそれを読む権利があります、ロードサイドの退屈さを退屈だと言ってしまっていいそういう権利があります、権利を私は有しています、そういうことだろうか、なぜ、僕はこんなことを考えているのだろうか。
宇都宮で乗り換えて乗り換えのホームで立ち食いそばがあり食べている人たちがあった、ただそれは食べずにそれよりも甘いものを買いにNEWDAYSに行こうかとも思ったが座れなくなる気配があったのでそれも我慢して電車に乗り込み黒磯まで出ると1988 cafe shozoに行った。僕は年末年始はここ何年か毎年行った、毎回複数回行った、それを僕はとても好ましく思っていた、それで今日もまずそこに行った。それであと少しになった『キャッチ=22』を読んだ。スコーンはおいしく、松の実のケーキはおいしく、ダージリンの紅茶もおいしかった。
ちょうどその瞬間、偶然吹きつけた風のせいか、マクワットの感覚のごく小さな誤算のせいか、高速で飛んでいた機の高度がガクンと落ち、プロペラでキッド・サンプスンの体をふたつ切りにしてしまった。

その場にいなかった者たちでさえ、つぎになにが起こったかをありありと記憶していた。万物を粉砕し圧倒するかのごときエンジンの爆音を通してツツッ! というごく短い、ごくやわらかな音が聞こえたかと思うと、切断され血まみれになった臀部にまだ幾本かの筋によってつながっているキッド・サンプスンの二本の蒼白い、痩せた二本の脚だけが、たっぷり一、二分と思われるあいだじっと立っていたが、結局、かすかな、こだまを伴った水音とともにうしろざまに海中に落ちてまっさかさまになったので、キッド・サンプスンのグロテスクな足先と、漆喰のような白いかかとだけがいつまでも姿をさらしていた。 ジョーゼフ・ヘラー 『キャッチ=22(下) 』(p.196)
なんで戦争のものばかりを今浴びたいのだろうか、わからないのだけど、ヘミングウェイの『武器よさらば』を読んでいたときに思った「なんでこんなに淡々としていられるのか。死に接するということがどういうことなのか想像がつかない」という想像のつかなさが理由になっているような気がする。死に接する人たちのたくさんの感情を読みたいような、何を思うのか、知りたいような、そういうところのような気がしている。僕だったら、と思う。僕だったら自分に死が間近に迫っていると知ってしまったら恐慌をきたすようにしか思えない。絶対やだ絶対やだ絶対やだ!と駄々をこねるような、そんな姿しか想像がつかない。でもいろいろの中で人々はそんなパニックに陥らないで平静に「死ぬ可能性がぐっと高まった状況」みたいなものを受け入れることが多いような気があって、どうしてそんなことができるのだろう、と不思議に思っている。そういう意味では、この小説の主人公であるヨッサリアンの戦争からの逃避は、とても「やっぱそうだよねえ?」と言いたくなるようなものかもしれない。
「おれはいまそういう生きかたをしている」

「しかし、きみだって自分の責任すべてに背を向け、そこから逃げ出すわけにはいかない」とダンビー少佐は力をこめて言い張った。「それは実に否定的な手段だ。逃避主義者の行動だ」
ヨッサリアンは軽蔑をこめて快活に笑い、首を横に振った。「おれは自分の責任からから逃げ出すんじゃない。おれは自分の責任に向かって脱出するんだ。おれのいのちを救うために逃げ出すことには全然否定的な要素はない。あんたはどういう人間が逃避主義者だか知ってるはずじゃないか、ダンビー。おれやオアはそんな人間じゃないぞ」 ジョーゼフ・ヘラー 『キャッチ=22(下) 』(p.416)
そういうわけで読み終わった。戦争は本当に悪夢のようで終わりが見えない迷路のようで読んでいてもしんどかった、戦争、という言葉に含まれるのは戦場だけでなくというか戦場以上に、戦場に彼らを送り出す指令、戦場から彼らを脱出させない軍規、戦うことに否と言わせないような兵士たち自身が作り出す空気、のようなものそれらこそが悪夢のようで終わりの見えない迷路のようだった。途中から隣に座った男女の男の話し方がとても嫌だった。 甘ったるい話し方をする男だった。そう思って聞いていると極端なことを言ったそれは「やだぁ、なーに撮ってんのぉ」というもので、メモをしながら「これはサンプルとして極端すぎる」と思った。あとは「あ、これ、たこウィンナー」とかだ。とにかくなにか鼻にかかったような、かったるい、甘ったるい話し方をしたしたまに、自分の仕事中の話し方を気持ち悪いと感じるときがある。なにかメープルシロップみたいだなと思うときがある、要は甘ったるい、とろっとした、気持ち悪い話し方だ。それを自分がしているときがある気がする。そういう自分の声を聞いたとき数秒後に気持ち悪い気分に襲われる。それで隣が気になり始めたこともあり、どうせ眠い等でコンディション不良であることもあり、また一から始めるというのに適したタイミングではないと判断された、実家に帰って、あたたかいこたつに入り込みたいような気もあった、その部屋ではジャズが鳴っていた。ショーゾーではほっこりした歌ものが流れているような音が人々のがやがやの隙間から聞こえていた気がしていたが気がついたらバッハの無伴奏チェロ組曲だと思われる音楽が流れていた、それを僕は好きだった、パブロ・カザルスによる無伴奏チェロ組曲、おそらく極めて「はいはいはいはい」なそれだろうそれを、僕はたまに聞くことがあった。それで店を出た。おそらくまた明日来る。また電車やバスに乗り、実家に着くと線香に火をつけて手を合わせた。それでこたつに入ってこれを打ち始めた。音楽は鳴っていなかった。
次の一冊は、小説なら『煙の樹』でノンフィクションなら『戦地の図書館』で軽い読み物だったら『「最高のチーム」の作り方」ということになる。これは素晴らしい状態だ、この状態を30日の夕方までに迎えられてよかった。この年越しを彩るのは『煙の樹』だ、それを『戦地の図書館』が支える格好だ、疲れたときには栗山英樹に鼓舞してもらう、そういう陣形だ。ただ懸念はある、それは『戦地の図書館』が読み始めたらすごく楽しくなって『煙の樹』そっちのけになるのではないかということだ。年越しの主役は小説であってほしい、だから煙の樹よ、だからお前は振り返らず先頭を犀の角のようにただひとり歩め。
ただまだ読み始めない。今は眠いし、父親や母親や叔父や叔父の会話が聞こえてくる、始めるにあたっていいシチュエーションとはいえない。だからまだ読み始めない。今この状況で何かを読み始めなければいけないならば、俺は栗山英樹を選ぶ。
DHを解除して大谷を打席に立たせれば、得点力はアップするが、果たしてそれは得策なのか……。

「今日、勝つんだ」
勝つことを大前提として考えたとき、どうやって勝つのか、ようやく具体的なイメージが浮かんできた。

——真に信ずれば、知恵が生まれる——

それはシンプルなイメージだった。
「翔平が0点に抑えれば勝つんだ」
そこに自分で決めているという感覚はあまりなかった。そう決めざるを得ない状況に自分が持って行かれている、そういう感じだった。 栗山英樹 『 「最高のチーム」の作り方 』(p.70)
まず本文がゴシック体というところにびっくりした。そのため「ゴシック体なのか!」と思った。なんとなく面白い気分で読んでしまうのだけど僕はくりやんのことは大好きなのでリスペクトすることを大前提として考えたとき、どうやってリスペクトするのか、ようやく具体的なイメージが浮かんできた。たとえばこんなところに。
ベンチ裏のトイレから出てきた大谷と偶然目が合った。偶然なのか、それとも目線を送ってきたのかは定かではないが、普段、試合中に目が合うことなんてめったにないのに、そこで目が合った大谷は「行けますよ〜」といった感じのアピールをしてきたように見えた。声には出さないが、「いつでも大丈夫ですよ〜」みたいな雰囲気だ。

だからこちらも、「面倒くさいやつだなぁ〜」みたいな雰囲気を出してみたりして。 栗山英樹 『 「最高のチーム」の作り方 』(p. 106)
そのため夜はデジタル一眼レフカメラをポチった。読書日記以外のブログの写真は最近はずっと友だちのカメラマンに撮ってもらったやつがあるのでそれを使っているのだけど、それを使っていたせいなんだろうけど、やっぱりブログの写真はきれいな方がいいなという気が起きてきたらしく、それらの写真が切れてiPhoneの写真に戻るのも嫌だなと思って、だからといって毎回プロに頼んでいたら面倒だし、「なんとなくきれいっぽい写真があればそれでいい」というのが僕のなかのブログの写真の位置づけなのでそれをプロに頼むのはそこに掛ける必然性が見いだせない出費になる気もするし、と思い、買った。5万円弱、というのは、僕にとっては、まったく全然小さくない出費で来月はどこにも行かず誰とも会わずに過ごしたいところなのだけど、なんでだろうか、買った。どうせ買うなら年内に買って利益を少しでも潰したほうがいいかなと思ったみたいなところもあるのだけど、そもそも利益なんてほとんどないし開店の年の大きな赤字の繰越分がまだ残っていて今年はそれを全部突っ込むことで黒字はほぼ消えるみたいな感じだと認識していたので、今年でなく来年すべきだったのかもしれない、あるいはどちらでも変わりなかったのかもしれない、来年は「いずれにしても利益はたくさんですね」と言いたい、再来年からちゃんと所得税とか住民税が発生して「税金は大変だな」と言いたい。言えていなかったとしたら、すごくまずい。ともあれきれいに撮れるようになるといい。
23時11分。家の人々もとっくに寝室に行き、納戸からプレミアムモルツを持ってきた、「はじめようか」と小さくつぶやいて、『煙の樹』を開いた。すぐに寝た。