読書日記(12)

2016.12.23
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12月16日(先週の残り)
調べてみるとiOS10がリリースされたのは9月だったようだけど僕は最近やっとアップデートして、それで使っていてなんというか一つもよくなった気がしないでいる。アラームを止めるときとか、すごく止めにくくなった。ロックの解除もしにくくなった。なによりミュージックアプリが本当に嫌な感じになった。信じられないくらい見にくくなった。こういうことが起きると、どういうことなんだろうと思う。開発しているすごい有能な人たちが「こっちがいいよね」と言ってこういうことをやっているのだと思うのだけど、どういうことなんだろうと思う。有能な人たちが決めたことなのだからもしかしたらこちらの方が使いやすいし見やすいのかもしれない、そう思うようになるのかもしれない。と朝起きたときにまず思った。朝に読むものがない。ネットを見ていればいいのだけど、なんとなく何かを読みたい。朝から『ペドロ・パラモ』は絶対におかしい。たぶんおかしい。わからない。おかしい気はする。どうだったか。なんでおかしいんだったか。どうして朝から『ペドロ・パラモ』はおかしいのだろうか。夜明けが、少しずつおれの記憶を消していった。
夜明けが、少しずつおれの記憶を消していった。

ときおり話し声が聞こえてきたが、今までの声と違うと思った。そのとき気がついたのだが、それまで耳にしていた声には音がなかった。音が響いてなかったのだ。声が感じられるだけで、音がなかった。ちょうど夢で聞くことばのように。 フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ 』(p.80)
今週は最初の日の土曜日に5,000字以上書かれ、そうしたら日記を書くことそれ自体が一週間を生きる目的になってしまった感じがあった。それは言いすぎだった。ただどんどん書きたいというふうにはたしかになった。先週が10,000字、先々週が14,000字だった。それを越えよう、初日で5,000も行ったのだから、みたいな考えはたしかに浮かんでいた。それでどんどん書いた。そうすると、懐かしい感覚に見舞われた、昨日のことだ、昼寝をするか、展示を見に行くか、と考えた時、展示を見に行こうなぜならば展示を見に行けばそれは日記に書くことができるから、と思った、それで「たしかにそうだね」という声が耳元で聞こえて、僕は自転車に乗った。書くことが生きることに先行するような状態、それはなにか懐かしい感覚だった。大学生のころ、ほとんど毎日ブログを更新している時期があった、神奈川から50分くらい掛けて新宿や渋谷に出て映画を見るようなそういう暮らしをしていた、映画を見に外に出れば、それはブログに書くに値するというか、十分に値する出来事になった、だから、だからとは言わない、が、今自分が映画を見に都内に出ようとしているこのことはのちにたしかに日記に書かれる、ということはその渦中で当然知っていた、それは行動の一つの動機づけになっていた。それが昨日僕の身に起こった。では、今日はどうしよう。今は午後だ。昼の労働が終わろうとしている。今日はどうしよう。きっと今日はどうもしないことは、知っている。しかし本を買いに行かなければいけないのではないか?『ペドロ・パラモ』は早晩終わるだろう。本を買いに丸善に行くべきではないのか?しかし何を読んだらいいのか。
ともあれ、と思って洗濯をしながら岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んだ。アレッポのニュースを読んで、それでまた手に取ったらしかった。前にも引用した箇所だけど、
イギリスの植民地支配に対し輝かしい民族の勝利を収めたはずのエジプトは、この時代、政治的にはナセルによる独裁の闇のなかにあった。政府批判は弾圧され、獄に繋がれた政治犯は拷問された。「あの時代」、反英独立闘争の闘志たちが獄で体験した殴打の暴力は今、ナセルの独裁に意義を唱えるものたちが経験している暴力にほかならなかった。革命によって植民地支配から解放されはしたが、今度は、革命の英雄によって――かつて1952年のエジプト革命は「ナセル革命」の名で呼ばれもした――国民は依然、独裁支配のくびきに繋がれていたのだった。
岡真理『アラブ、祈りとしての文学』 (p.121)
なんていうか、知らないからそうじゃないかもしれないしそうじゃないんじゃないかとも思ってはいるのだけど、アサドも一度は歓迎されたり期待されたりしていたのかなとか考えたら悲しくなった。アレッポ。なんというか、海外渡航経験2度しかない人間のその1度であり1ヶ月近く暮らしていたことのある町が、すごくきれいだった町が、めちゃくちゃに壊されていると思うとすごくやるせない。
「真の禁忌の何たるかは、人間の生の深奥に対峙することなく、人間の行為を一元的に裁断しようとする規範的な言説を超克した地平において見出さなければならないことが、作品のこの対比的な構造によって弁証法的に示されている」と書かれているユースフ・イドリースの『アル=ハラーム』を読んでみたくなった。
洗濯を終え、さていったい何を読んだらいいのか、わからないながらも行かねばならなかったため本屋に行った。何を読んだらいいのか、わからないからこそ直接足を運んで棚を見て手に取りそれで考えればいいだけ、ではないか、とも思ったが、少なくとも一冊は「これは必ず」というのがあったほうが気分が楽というか楽しくいられるというのは、さんざん味わってきた経験だ。それで丸善ジュンク堂の広いフロアの、その極々一部を、うろうろと歩いた。その結果、マスキングテープを3つと植本一子『かなわない』、山内マリコ『あのこは貴族』を手に取った。前者はずっと読みたかったやつで、後者はcakesの連載で少し読んで、東京の金持ちの生態とか興味あると思ったやつで、また先日見た『アズミ・ハルコは行方不明』の原作が山内マリコだと知り、これがタイミングだ、と。それからここからがやはり問題だった、バルザック、パール・バック、ウエルベック……等々のよくわからない悩み方で悩んだ挙句としてヘミングウェイの『日はまた昇る』が買われた。それで東急百貨店を出ると外は薄暗くなっていた。
丸善ジュンク堂に行くときはいつもは帰りは神山町を通って代々木八幡を通ってわざわざ開かずの踏切を待ってというルートをとるのだけど、空を見ると松濤の方角がまだ明るかったから、行きと同じような経路で帰った、つまり松濤の高級であろう住宅街を抜けて山手通りに出て、という道のりになるのだけど、東の空の低いところが濃紺で少しずつ薄い青になっていって西のほう、家々の屋根より少し高いあたりが青から黄色に変わるあいだの白い部分で、そこから少しずつ黄色が足されていった、その白い部分を喜びながら、それから前景の真っ黒の輪郭になった木々や建物を見ながら自転車を漕いでいた、明らかに手が冷たかった、今日は明らかに寒かった、しかし清涼な暮れ時の空を見上げていると気分はただただよかった。白眉は富ヶ谷の交差点で訪れた、そこで信号待ちをしながらふと西に伸びる井の頭通りに目をやると坂を下ってぐっと上がる、その上がり方が狭い感覚で立つ街灯の明かりで明示されて、その奥に空が広がっている、その空がこれまで見ていた薄い黄色よりも先を見せていて深い橙色で熟したようになっていた、走り過ぎていく車のテールライトや向かってくる車のヘッドライトやいくつも点る信号の光がまだ馴染みきらないような、そんな明るさの景色が途方もなく美しいもののように思えた。それで帰りにコンビニで肉まんを買って店に戻ってソファにどっかりと腰をおろし肉まん肉まんと喜びながら手に取り頬張ると、頬張ると、涙が出そうになった、私はただただ悲しかった。
悲しみはすぐに消えた。それで夜がやってきた。ウイスキー、ウイスキー、ウイスキー。昨日買った町田良夫のCDを流しながら『ペドロ・パラモ』を読んだ。
##12月17日 先日のこと。
ジムのエレベーターに乗り込もうとしたら先客がいてそちらは後ろに下がるので僕が扉付近に立つことになるのだが先にいたのは先客なので扉が開いたときに先にどうぞとやる。ジムの扉はオートロックなやつでカードをかざして開けるタイプで、一回ずつ時間が掛かるから先か後かで差が出るからやはり先客が先の客なのでそうする。それは自然に出る気遣いだと思っていた。
先日2軒目に入ったバー的な店でエレベーターに乗り込もうとしたら先客がいてそちらは後ろに下がるので僕らが扉付近に立つことになるのだが人がそれなりの人数なので僕らが先に出る。それで僕は店内を覗いて「席ありそう」とかのんきに言う。すると一緒だった友人が先にエレベーターに乗っていた方々を先に通して、それで彼らは「素晴らしい」と言ってそれから感謝の言葉を述べて友人は「当然です」と言って彼らが先に入った。そのとき僕は先にいた人たちがいたということが意識から完全に抜けていて、それで自分たちが座れる席があるかどうかだけを考えていた。あとでその先に通した男性二人組の方がこちらのテーブルに一品よこしてくれた。それで僕らは「ほー、かっこいいね」と言った。僕はジムのエレベーターに乗り込もうとするときはいつもしていた自然だと思っていた気遣いが酔い等によってあっけなくなくなった自分を思い出し恥ずかしい思いをし、その場では酔い等によってしていなかったかもしれないがあとで考えると結局頭で考えないとそういう気遣いのひとつもできないってことか、と思って落胆した。その店では、無帽になることが要求されたため無帽で過ごした。頭はひやひやした。
夢をたくさん見て起きたら12時を過ぎていた。たくさん夢を見て、そのいずれも忘れてしまった、とても面白かったので残念だった、途中で起きたときにはさっき見ていた夢のおさらいをして忘れないようにしようと思っていたのだけど、次に寝たときに見た夢でアップデートされてアップデートされたものも忘れてしまったので全部忘れてしまった、残念だった。最後のやつは少しだけ覚えていた、大きい土地、斜面、工事、高い位置にある部屋、集まる人々、メディテーション、年末年始も仕事柄仕事なんだよねと話す人の話、海外の何かに誰かが行くとか行かないとか、その本を俺は買います、喫茶店でお話をします、
そういえば、気がついたらとっくに年を越していた、そのあいだ肉体労働的な労働をしていた、ような、そんななにかは今朝の夢のどれかだったろうか、それとは別の日の何かだったろうか、
少し宇宙船めいた、UFOめいた、小高いところにある大きい土地、敷地内にあるいくつかの建物、その一つが普請中で、男たちがなにかのっぺりした箱型の建物を作っている、ウディ・アレンのバカげたSFみたいな建物、壁がきらきらと人工的な緑色で照っていた、母屋の和室は広かった
だから起きたらやはり12時を過ぎていた土曜。本当に土日を12時から営業にするのだろうか、想像がうまくできないというか対応できる気がうまくしないというか、でも実際にそうしてみたらどうせそれに慣れるだけなのでできることは知っている。
そのため読書日記の更新をした。昨日の夜に推敲はしていたのでアップするだけだったのだけど、推敲もけっきょく1時間近くを費やした。これは本当に、よくないぞ、と思った。先週は冒頭に「(先週の残り)」とあるように、長くなりすぎて、アップしようとしたら全部は受け付けてもらえなかった、それで今週分にずらした。文字数は28,504とある。これはリンクのタグとかも込みなので実際は25,000くらいだと思う。今読んでいる『ペドロ・パラモ』が39*16で1ページぴっちり埋めて624字だから、600字だとして、文庫本40ページ超という長さになる。何をやっているのだろうか、それはとても楽しい。
だから起きたのが12時過ぎだったのでぼやぼやしていたら1時で、八百屋さんとスーパーに行って一生懸命仕込み活動をおこなった。名古屋のヒップホップを聞いていたそれでとてもアガった、すると開店時間を迎えた。静かな営業だった。週末は忙しくなるという魔法もとうとう終わったんだ、と思った。あんまり暇なので昨日買ってきた山内マリコの『あのこは貴族』を読み始めた。
手のかかる存在だった祖父がいなくなったとたん、張り合いがなくなったのか、正月の支度も省略するようになった。必要なものは渋谷の東急本店の外商に持ってこさせ、お節はなじみの料理屋に予約を入れて、自分で作るのはお雑煮だけ。しまいになにもする気がなくなって、ここ数年は年末と三が日を、帝国ホテルに泊まってのんびり過ごすのを習慣にしている。
山内マリコ『あのこは貴族』(p.18)
丸善に行くと行くたびに東急百貨店の1階のあれこれのブランドの区画を横目に歩きながら「ブルガリ」とか「ディオール」とか口の中でつぶやく、つぶやいて、それからエレベーターに乗ってフロアガイドを見ながら7階の丸善以外自分とは何も関係がなさそうだと思う、思って、いったいこの百貨店なるところにはどんな人が用事があるのだろう、と思っていた、だからその当の東急本店がこのように出てきてそして外商というものがあるということを知ると「外商!」ととても楽しい。外商というのはどういうものなのだろうか、大きなカバンを持ってやってきてその中にあるワインとかを売るような、なんだったかこれは、なんの映画だったか、『裸のキッス』か、そんなイメージなのだけど、家にやってきてカタログとかを広げて最近の商品とかを知らせるのだろうか、そのカタログを作る部署が百貨店内にあるということだろうか、今季のディオールのイチオシは、とか、そういうことが書かれているのだろうか。
暇が度を越したためふいに「キーマカレーでも作ろうかな」と思い立った。すごくあたたかいものを食べたいと思って、思ったのがそれだった。キーマカレー以外にもあたたかいものはあると思うし、もっと汁気のあるカレーのほうがずっとあたたかいような気がするのだけど、少し前から作りたいと思っていたから、それで思い立ったのだろう、しかしそれを作るという決定はなされなかった。なぜならば煮物等、他に食べるものがあるからだ。
山内マリコがすごい面白い。夜、『ペドロ・パラモ』読了、『かなわない』少し読む、ドキドキする。ヘミングウェイ読む。パリの人々のあれこれ、『移動祝祭日』の小説版といったおもむき、とても面白い、今ヘミングウェイは自分とフィットするなにかなのだろう。
このラスパイユ大通りを車で走っていて、気が弾んだためしは一度もない。ちょうどPLM(パリ-リヨン-地中海)鉄道の汽車に乗っていて、フォンテンブローとモントルー間のあるセクションにさしかかるときに似ている。あのセクションにさしかかると必ず、そこを通過し終るまで、退屈で、憂鬱で、かったるい気分に引き込まれてしまう。ある一定のコースにその種の憂鬱な区間が存在するのは、何かを連想するせいじゃないかと思う。パリには、ラスパイユ大通りに劣らず醜悪な通りがほかにもあるのだから。この通りの場合、歩いていくぶんにはまったく気にならないのだが、車で走るのは耐えられない。
アーネスト・ヘミングウェイ 『日はまた昇る 』(p.80)
##12月18日 ライフをうまく積み上げられない。朝、ではない夜中、目が覚める。眠気がどこか行く。しばらくそのままでいて、うっすらと外があかるくなってくる。そのあとヘミングウェイを読む。辛い場面があった。はっきりと朝になっていた。いい加減、と思って頭まですっぽりくるまって眠って起きたら12時になるところだった。体が芯から痺れるような感じがある。
その朝の鐘はいつもより長く鳴りつづいた。もはや中央教会の鐘だけではなかった。サングレ・デ・クリストやクルス・ベルデや、もしかしたらサントゥアリオの鐘も鳴っていたかもしれない。昼になっても鳴り止まなかった。夜が訪れた。そして昼も夜も、同じ調子で、しだいに音高くなりながら、えんえんと鳴りつづけた。しまいにそれは、ざわざわした嘆きの音に変わっていった。男たちは話すとき、怒鳴るように喋らねば自分の声すら聞き取れなかった。「どうしたんだろう?」と口々に尋ねあった。

三日目にはみんなの耳がおかしくなった。空気にみなぎるあの唸りの中では、とても話などできたものではなかった。しかし、鐘はなおも鳴りつづけた。なかにはすでにひび割れて、瓶のようなうつろな音を立てているものもあった。 フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ 』(p.193)
年末年始は『キャッチ22』にしようかなという気分が盛り上がってきていたのだけど、昨晩この箇所とかを読んでいたら『百年の孤独』をやっぱり読みたいような気にもなんだかなってきた。過剰さはうつくしい。
とうとう調子のいい時期は終わったのかもしれない、と日曜日、開店から1時間経った今、思う。昼間は1000円カット(税込1080円)に行って散髪をしてきた、待ち時間がいつも長く、1000円分以上待っているような気がする、ただそれも読書に充ててしまえばそれで構わなかった、山内マリコを読んでいた。とても面白い。
1000円カットではラジオが流されていた。NACK5が、なっくふぁいぶが、流されていた。女の人が最近恥ずかしかった話としてインスタで間違った人にコメントをタメ口でしてしまったということを話すくだりで、アカウント名が類似していたため間違いをおかしたということを話そうとしてそのアカウント名、それもどうやら有名な人らしいそのアカウント名を言おうとしたところ横の男の人から「あんまし言わないほうがいいんじゃないかな?アカウント名とかはあんまし言わないほうがいいんじゃないかな?」と言われて、少し不思議そうな声を出してからその通りにしていたのだけど、なんというかなんだったのか。いろいろな感覚があるものだと思った。放送終了後に「アカウント名は言って大丈夫だと思いますよ」とぜひちゃんと主張してほしいと思った。
山内マリコの小説は主要な登場人物の二人が慶応大学出身ということで、幼稚舎から慶応に入る大金持ちの人たちの生態や、大学から入る「外部生」の感覚とかが書かれていたのだけど、慶応慶応と言われると自分の出身校だとばかり思っていたけれど、書かれているものを読んでいるとまったく別の学校のように感じたというか、僕のまるで知らない世界があった。キャンパスが遠く離れていたからそもそも別のものという感覚も濃かったのだけど、日吉や三田に通っていれば味わった感覚だったのだろうか。僕は大学からの外部生でも幼稚舎からの内部生でもなくて高校からの半端な内部生で、中学生の時に入試問題を解くことが常軌を逸する程度に得意だったため高校受験を経て入った。慶應義塾志木高等学校、に合格した、という知らせを、家に帰ると母が、リビングから廊下にやってきて、「受かったよ」といったことを喜色のある顔で僕に伝えた、僕も喜んだし驚いたのではないか、親はべつだん教育ママというものではなかったしむしろ勉強を押しつけてくることは一切なかったが、息子のこれまでの長い時間の取り組みが考えうる限り最高の結果を残したそのことに、我がごとのように喜んでくれたのだろう、と思った。試験が得意だった僕にとってはそれは努力ではなく取り組みだったし、僕は努力もせずにいいレールに乗っかれてしまった、と思った。それはあとで思ったことかもしれない。それにそのときは努力だと勘違いしていたかもしれない。これが自分の人生のピークだろうな、とそのときは思った。それもあとで思ったのかもしれない。人生のピーク、それはある面では正しく、ある面では特に正しくもなかった。それぞれの面がどんなものなのかは、一つも考えていないのでわからない。
本当に激烈に暇な日曜になってしまった。山内マリコ読み終わった。夢中になって読んでいた、それだけ面白かったということだった。他のも読んでみたい気がしてきた、そもそも『ここは退屈迎えに来て』というナイスなタイトルから気になっていた。それにしてもなんというか、面白かったな。東京を生きるいろいろな人たちの僕の知らない価値観やライフスタイルを見ることができてすごく新鮮で興味深かった。それからまったく知らないブランド名や服飾品の名称等、『なんとなく、クリスタル』の現代版みたいな感覚で読んでいたところもある。
一つだけ、そんなコレクトネスが小説に必要だというつもりは微塵もないけれど、「大金持ちの家の専業主婦として生きる」ことが全力で肯定されるような人物がいたら、とも思った。みんな仕事に邁進して解放されるのか、みたいに思った部分がないといえば嘘になった。なんでこんなことを思うのだろう、普段小説を読んでそんな「こういう人物も描かれてほしかった」とか思うことなんてない気がするのにな。ヘミングウェイのエンディングに「悲しい」とか言うくらいで、でもなんだろう、なんか僕のこの態度は舐めているのかもしれない。よくないことだ。
今度は植本一子を読んでいる。面白い。今は20時55分で、20時10分から誰もいない。座って本を開いてそれからふと時間を見て「あと4時間もあるのか」と思った。今も同じことを思っている。あと3時間もあるのか。この流れ的に今日はもう誰も来る気がしない。流れなんて、本当はそんなのは存在しないのは知っているのだけど、こういうときはそう思う。ぽっかりと何かから本当に隔絶されたような感覚がある。ラーメンを食べたい。
本も読み疲れた。そう思っていたら友人が店に来てくれて、11時過ぎとかに来て閉店してから酒飲みながらダラダラ話すようなそういう過ごし方を四半期に1回くらいの頻度でするそういう友人だったので、今日は9時過ぎだったけど他に誰もいなかったのでずっと話をしていた。そのためずいぶん助かった。途中でいい加減もう誰も来ないから閉めて飲みに行きましょうと提案しようかとも思ったが、さすがにやめた。そういうことはしちゃいけないと思っているのでそういうことをしないで済んでよかった。そうしたら11時頃に一人来られて、ちゃんとやっていてよかった。
と、植本一子を読んでいたらなんかちゃんと日記っぽい書き方というか、というか僕なりの植本一子の日記っぽい書き方みたいなのをしてみたくなったらしくこの2段落そうした。
昨日が暇だったのでふてポテチ(不貞腐れてポテチを食べる行為)をキメたばかりだったのだが、今日はふてチョコ(不貞腐れてチョコを食べる行為)をキメた。これはひらがなでなくてはならなくて、「不貞ポテチ」だと何やらおかしな意味が加わる。でもひらがなだと今度は意味が足らなくもなる。省略しなければいいだけの話でもある。ウイスキー、ウイスキー。ヘミングウェイを読んだ。
##12月19日 朝、ではない夜中、目が覚める。眠気がどこか行く。しばらくそのままでいて、どうにかまた眠る。ここのところ途中でしっかりと目が覚めてしまうという面倒なことが起きているため、もしかしてウイスキーを飲みすぎているのではないかと思って3杯のところを昨晩は2杯にしたのだが同じことが起きた。困る。
朝から植本一子を読んでから昼の労働をする。『かなわない』とにかく面白いというか、どんどん読みたくなる、なにかとドキドキする。昼の労働をしながら植本一子のことというか『かなわない』のことなのか石田家のことなのかを考える。子育てに猛烈に疲弊しながらも同時にこれからカメラマンとしてより活躍するぞーみたいな感じで仕事をしようとしている。僕は自分ひとりを食べさせ養うだけでもギリギリなのに、と思うとなんか頭がくらくらしてくる。なにも想像できない。なんとなく自分が情けない気分にもなるような気もするし、別にならないような気もする。
『あのこは貴族』もそうだけど、同じ年代の、日本の、東京の、自分の暮らしというか世界と地続きにいるように勝手に感じられる人たちの書くものであったり人たちのことが書かれたものであったりを読むと、こう、頭のなかに住み着いてしまうところがある気がして、邪魔で、少なくとも今はそうなっている。
夕方に外を歩いていたらスーツ姿で自転車で多分カレンダーと思しきものを入れたノベルティ的な大きめの紙袋を前かごに置いた男性とすれ違って、彼はおそらく営業マンで、知らないけれど年末の挨拶回りをしているところだった。それを見てふと自分が会社員で営業をやっていた時分を思い出して、なんというか、「生存」と思った。かつて僕は仕事をとにかく我慢するものとしてやっていて、今僕は仕事を生存を賭けたこととしてやっているんだな、と思った。会社員のときは、営業成績がどれだけくだらないものでも(少なくとも短期的には)自分のもらう給料は変わらなくて自分の暮らしは一ミリも変わらなくて、決められた枠の中で働くことだけがやるべきことだと思っていたというかそういう感覚で働いていたというか目をつむって耳をふさいでやり過ごしいたのだけど、今は当然、売り上げですべてが左右される暮らしをしているわけで、お客さんが一人増えればその分ぼくの暮らしはよくなるし、一人減れば貧しくなる。仕事に対する感覚は本当にまったく違うんだよな、と思った。もちろん、もちろんこれは極めて短期的な話であって、会社員だってリストラ等の可能性はいつだってつきまとうわけだし、僕だって店を閉めることになったとしてもそれで死ぬというわけではまったくないのだけど。
頭のなかに住み着いてしまう。少なくとも今はそうなっている。夜になってもずっとぼんやりと『かなわない』のことというか石田家のことというか、を考え続けている。なんだかこのまま読み続けるのは危ないような気もしてきた、日記の中でいろいろと鬱憤が溜まっていって爆発をしてという様子がたびたび書かれるのだけど、それを読んでいたせいなのか、せいにするのはまことに無責任なのだけど、それの影響を受けたのか、夕方からすごく憤懣やるかたない感じのモードになって、イライラして、それで疲れて、これは危ない、甘いものを食べないと、と思って開店15分前にコンビニに駆け込んでアイスクリームを買ってすぐに開けて食べながら店に戻った。寒いのと冷たいので気持ちよかった。食べたら少し落ち着いた感じがあった。でも、よく見ないで買ったのだけどたぶんそれはビターチョコレートみたいなやつで、口に苦味が残った、それが少し残念だった。能天気なくらいベタベタに甘いものを食べたかった。
今日もバカみたいに暇な日になっている。明日は非番なのでちゃんと休めるように(つまり仕込み等が発生しないように)できることをどんどんやっていった。すると2時間で片が付いた。2017年の抱負はワークライフバランス的なところになる、と12月に入ったくらいから考えているので先にここに書いた。明日は非番だけど、昼の仕事をやってから休みだから完全な休みではない。丸一日休みという日は基本的に一日もない(先月寝坊して昼の仕事をすっぽかした日があってその日ちょうどフヅクエは非番の日だったので期せずして求めずして丸一日休みだったけど、それくらいで)。完全な休みがほしいかといえばよくわからないというか持て余す気はしているのだけど、でもなんというか、なんというか、このままというのも。
とにかく疲れている。疲れとは体が疲れて気持ちにも波及して感じるのか、気持ちが疲れて体に伝わって感じるのか、とか考えていた。後者な気がする。12月はもう本当にダメだと思う。たぶんなんでダメかといえば来月から週末の営業時間を変えようとしていることが原因で、変えることは決定されているのにそれが実装されていない状態がただの宙ぶらりんの状態に感じられる、それで伸び切った紐でも糸でもゴムでもいいけれど伸び切ったそういうもののような、張りがまったくない状態になっているのだと思う。今月が終わりを迎えることにしか今は希望を見いだせない、そんな感じがする。あとは明日の休みがひとつの希望の拠り所になっている。そういうことになっている。
この未実装による宙ぶらりん状態というのは去年の2月つまり22ヶ月前か、「去年の2月」というのが「22ヶ月前」ということがなんというか違和感がすごい、ともあれ去年の2月のひと月と同じ状態で、それまで「値段は決まっていません、好きな金額を払ってください」システムだったものを3月2日から価格を普通に設定するという変更をおこなった。その決定から実装までに待つ理由があってひと月ほどがたしか宙ぶらりん期間があって、そのときの気持ち悪さとまったく同じだと思う。あるいはwebを作り変えたいんだというときに、自分でいじれないときのすぐに変わらない焦れるような感覚ともまったく同じだと思う。とにかく、変えると決めたら変えないことには気が済まない、変えると決めたものが変わっていない状態がとても気持ち悪い、のだろう。というか、変えようと思うまではこの店は「フヅクエ」で、満たされた状態で、変えようと決めたら変わったあとの像だけが僕が描く「フヅクエ」で、変えようと思って変わっていない状態はたぶん「フヅクエ(仮)」という感じになってしまって、「フヅクエ」でも「フヅクエ」でもない状態というのがとても気持ち悪いのだと思う。
今回の変更はでもそれだけでもないのだとも思う。単純に、労働の様相が変わる、そこに抱いている恐れというか、不安のようなものも、ひと月のあいだ引き伸ばされることで、ひと月のあいだ不安や不確定みたいなものの中で暮らさなければいけないこの感じも嫌なんだと思う。どうなるにせよ、何かがそうなるのであれば、それに順応しようと、あるいは対策を打とうと、するだろう、でもそれが想像上でしかないとしたら想像はいくつもの状態を作れてしまうので、それで気持ちが余計に疲れるようなところもあるのだと思う。気持ちが悪い。疲れた。
先にタスクをこなしておいて本当によかった。誰も来ない。椅子の上からまったく動かない身なので、この動かない状態から動こうとするとすごく大きな労力が必要だったはずで、先に全部こなしておいてよかった。もうあとは3時間、閉店時間を待つだけだ。僕はいったい何をやっているのだろうか。
危ない気がする、と言っておきながら植本一子を読み続けている。子供とすごくうまくいかない場面を読んでいると、「誰も悪い人がいない地獄」みたいな感じがしてぞっとするしげんなりする。八方塞がり、と思うといろいろと泣きたくなる。
2012年分の日記が終わったところでなぜか、なにやらにぐっときて、営業中にもかかわらず涙を出していた、出していた瞬間にお客さんが来られてうろたえたというか伏し目になった。たぶん、11月21日の、編集担当の方との決別というかの日のところからぐっときていたのがばっときたんだと思う。
でも、私はやりたいんです。私は私の名前だけで、勝負したいんです。そう言うと工藤さんは「時期尚早だと思います。編集の立場からしても、友人の立場からしても」と言われ、もう終わってしまったんだな、と思った。この人を置いて、私は次へ行かなくてはいけない。
植本一子 『 かなわない 』(p.134)
ずっと読んでいる。2013年に入って、これまでよりもずっと外に出てライブを見たり撮影したりする場面が多くなっている。目が離せなくなっているというか、貪るように読んでいる。今晩はヘミングウェイはお休みだな、と思っている。
今晩は酒は飲まないでおこうと思っていた夜だったが、酒を飲みながら読もう、に変わったので酒を飲みながら読んだ。なんでか、スクエアプッシャーを聞きながら読んだ。息が詰まるというか息が止まりそうになりながら、読みきらない状態で夜を越さない方がいいのではないかと思いながらも、寝ないと、という時間になったので数十ページを残して寝ることにした。ふだん寝落ち以外の入眠をすることがまずないので、頭まですっぽりかぶって、どうにか自分を寝かしつけた。途中でまた起きた。
##12月20日 コーヒーを淹れて朝から『かなわない』の残りを読んだ、読み終えた。なんというか、凄いものを読んだ。これはたぶんもの凄い本なんだと思う。新奇ということを拠り所に「凄い」といっても仕方がないし足りなすぎるのだけど、「子育て×仕事×不倫」という、書かれている主だったトピックを取り上げただけだけど、この掛け合わせは、僕はこれまで読んだことがなかったものだと思う。日記という形式ゆえなのか、それぞれのトピックが他のトピックに奉仕させられるわけでなくそれぞれに完全に充足しているこの感じはなんというか凄い。こういう個々が充足したものに触れるとわりと自動的にアルノー&ジャン=マリー・ラリユーの映画『運命のつくりかた』を思い出すようになっていて、ラブストーリーとミュージカルとロッククライミングと野鳥観察が全部それぞれにどれが主でどれが従という事態に陥らずに目の前に強力に提示される、それを思い出す。『かなわない』はそれからもう一つ「×料理」もとても大事な気がして、食べ物の記述がこの本の厚みというか魅力というか奥行きをすごい作っている気がする。なんせ食べたい。そしてそれにしても最後の時期の「先生」とのやりとりは、ものすごかった。「先生」が黒黒とした字で植本一子の日記を飲み込んでいくような感じで、恐ろしかった。そのあたりはほとんど「×サイコホラー」の様相だった。とにかく凄かった。
昼の労働を終えたあと2時過ぎから休日になった。自転車に乗ると東中野まで9分で着いたので驚いた。それで濱口竜介・酒井耕の『なみのおと』を見た。とても久しぶりに見た。おばあちゃんたち、消防団の3人、友人を亡くした女性、税理士で市議会議員の男性、それから夫婦、姉妹。夫婦、姉妹、のうしろ2つがダントツに好きで、夫婦のやつを見ているととめどなく涙があふれて鼻の下が鼻水の層でべったべたになってティッシュを持っていなかったのでどうしようかという事態になった。
見るたびに同じことを思っている気がするのだけど、たぶん僕は「震災の話」を聞きたいわけではない態度で映画を見ていて、親密な間柄の二人の人間のみが醸すことのできる親密さに満ちた対話を、見たいのだと思う、それでその2つ、夫婦のやつと姉妹のやつはその親密さによってのみ表出可能に思えるプレシャスな瞬間が画面にたくさん何度も映っていて、それで見るたびに僕はたぶん、嬉しくなって泣いている。
時間があったため東中野から中野のちょっと上の新井薬師前のほうのロンパーチッチに行った。店の名前を書くのは僕には珍しいことだけどロンパーチッチは「コーヒーお酒ジャズのお店」で、先々月だかに初めて行ってこれはべらぼうにいいなと思って絶対また行こうと思ってときおり行きたいなーと頭に浮かべていて今日が東中野というちょうどいいあたりにいたということもあって「残された時間がやや少ないか?」「いやそれでもいきたい」という感じでそれでロンパーチッチに行った。ビールとケーキとカフェオレとチョコレート、を飲み飲みつまみつまみ、大きな音量で流れるジャズを聞き「お」と思ったらシャザムで調べたり面出しされているレコードを遠目から凝視してなんというやつだか知ったり、しながらヘミングウェイを読んでいた。とてもいい時間だった。すごく好き。月一くらいで来たい。それから新宿に向かった、紀伊國屋書店、信濃屋。紀伊國屋ではジョーゼフ・ヘラーの『キャッチ=22』を買った。信濃屋ではナプエフィンランドジンをまた買った。3瓶目だ。これは異例だ。歌舞伎町を歩いていると先日歌舞伎町近くの喫茶店で会話をずっと聞いていたホストと女の子のことを思い出すらしくホストと同伴の女性という感じの組み合わせを見ると目が喜んだ。
寝る前にヘミングウェイを読んだ。初めてロンパーチッチに行って以来、夜に本を読むときはジャズを流すようになっていて、今日は今日流れていたMulgrew Millerを探して聞いた。すると寝た。途中で少しだけ起きた。最後まで眠りたい。
##12月21日 先週くらいからiPhoneの画面のアプリの並んでいるところでLINEとgmailとFacebookのメッセンジャーの通知の設定を変えて数字のバッジが出ないようにしたところ、気にならなくなって精神衛生上とてもいい。誰からもたいした連絡が入る生活はしていないけれど、どうでもいいメールでも未読のメールがあることで「読むかアーカイブするかしなくちゃいけないものが今あるらしい」ということが画面を見るたびに意識させられていたところが、意識しなくていいことになったので気が楽というかとても健康でいい。
夕方。仕込み、ヘミングウェイ読了、昼寝。ヘミングウェイはだんだん少し倦んでいった感じがあった。ロストジェネレーション、自堕落な世代の自堕落な休暇を見続けていて、少し食傷気味になったというところがあった。でもそれも当然かもしれなくて、なぜなら彼ら自体がとっくに彼らの暮らしに倦んでいたのだから、倦んでいる姿を読んでいて倦むのはもしかしたらあるべき姿とすら言えるかもしれなかった。総じてとてもよかった。カフェ、釣り、闘牛。ヘミングウェイ。今晩からは『キャッチ22』を読むだろう。年越しに読もうかと思っていたが、なんか先に先にという気分になったみたいで今日から読むだろう。それで読み終えてしまったならば、やはり『煙の樹』で越そうとするのだろう。分厚い本をリュックに入れて、僕は実家に帰るのだろう。
##12月22日 寒い。さっきまで熱かったけど今は寒い。背中が痛い、首周りが痛い、節々が痛い。体全体が気持ち悪い。寒い。手足がしびれる。
風邪を引いた。これはたいへん想定外で困った。今晩は非番だったのでEDIT TOKYOの「綾女欣伸×武田砂鉄「定形外編集」」に行くつもりだった。夜までに治るだろうか。
ひとまず早く1時半になってほしい。1時半は病院の受付開始時間だ。早く病院に行きたい。なにか体内に即効性のあるやつをぶちこんでもらいたい。指の先がしびれながら寒い。体が芯から寒いというのは風邪のとき特有の感じ方なので貴重な機会と思いつつも、これは本当に嫌なものだなと思う。数字を知ることが好きなので早く熱を測りたい。8度3分を希望する。高いほうが、大変な思いをすることを正当化してくれるから、そういった数字が好きだ。煙草もコーヒーもぜんぜんおいしくない。
昨日寝る前にリップクリームをたくさん塗ったこと、「たまには」と思って休肝日にしてペリエを飲んだこと、ジムで走ってシャワーを浴びたあとに半袖でうろうろしていたこと、そのあたりが今回の風邪の原因だろうか。気持ちの糸がだるだるにたるんでいるとき、風邪はやはり引きやすくなるのだろうか。関係ない話だろうか、どうだろうか。寒い。
EDIT TOKYOは行ってみたかった場所だったのでちょうどいいイベントだった。武田砂鉄の話とても聞いてみたかった。なのでタイミングもよかったので行くことにしていた、のだが、刻々と、行かない可能性が高まりつつある。最近はヤフーなあれの「Pass Market」という決済サービスというのかチケット予約サービスが使われている場面が一時期よく見たpeatixだっけ、よりもよく見る気がするな、というところなんですが、キャンセルがなんとイベント数日後までできるのかというところがびっくりしたというか、行くつもりでチケット買ったら行けなくなってそのまま当日が過ぎてそのあとでキャンセルしたら一円も払わないで済むとか、ちょっと消費者側に寄りすぎているのではないかと思った。主催者の設定次第なのかもしれないけれど。これやられたらとても困るよなというか。無事満席になった、定員終了、と思っていたら5人欠席者がいて全員あとでキャンセルしたら、事前にキャンセルが出ていれば埋められたかもしれない5人を取りこぼした=参加したかったかもしれない5人がいたずらに機会を逸したうえに主催者は入るはずだった5人分の料金をまるまる失う。アホらしいというかいくらでも嫌がらせができてしまう仕組みでなんというかなんでだろうと思う。こんなに甘やかす必要はないと思う。とキャンセルすることになりそうな今、思う。
とか思ったのち、1時半、限界が来てソファで眠った、病院行かなきゃ、行かなきゃ、と思いながら眠ったところ、起きたら、なんと治った!なんと治った!
と思って笑ってすごいな人体とか思ってそのあとやっぱり体が重くなってだるくなって痺れるようになって姿勢を変えるのすら億劫になってでも病院病院と思って受付ギリギリの時間で病院に行って熱を計ったら8度7分あった、快哉を叫んだ。それでインフルエンザの検査をしてもらったら大丈夫だった。薬等を処方していただき、それを飲んだ。なんとか大丈夫な気がする、と思ったため銀座に出かけた。それでトークイベントを聞いた。たぶん体は大丈夫だろうと思いながら、なにかのときにすぐにトイレとかに駆け込めるように一番出やすい席に座って、トークを聞いた。面白がりながら聞いていたのだけど結局フラフラしていてうまい棒の話と山田うどんの話しか今は思い出せない。終わって、知っている方がいたので「こんにちは」とか適当なことを言った。人とのコミュニケーションはまったく取れない、頭が動かない、そもそもこういう場でコミュニケーションを取ることが苦手な人間なのでそのうえ熱でフラフラしていたらまったくなにもできない。それで適当に本を買って帰った。そういうえば驚いたことに会場に植本一子さんがいて、質疑応答のときに話を振られていた。前日まで夢中になって読んでいた本の著者がすぐ近くにいるというのはすごく不思議な感覚だった。なおこの場合はきっと、「さん」を付けるのが適切だと思っているので敬称をつけた。と思ったけどもしかしたら不要かもしれない。たしかに、そこにいたのがもしテイラー・スウィフトだったらそのまま書きそうだし村上春樹でもそのまま書きそうだから、やっぱり不要かもしれない。敬称の問題は、とても厄介かつ愉快だと常々思っているので、厄介かつ愉快だと思った。今。それで電車に乗って銀座を離れた。なんとか一日を無事に乗り越えられそうな気配があって、まだ予断は許さないけれど、よかった。喫茶店に入ってざっくり書いていたブログを微調整して更新しようとしたが頭が回らないのでやめてこれを書いてそのあと買ってきた武田砂鉄の『芸能人寛容論 テレビの中のわだかまり』を読んだ。寝る前に一食くらいは食事をとらないとと思っておじやを作って食べたら『キャッチ22』を読んだら寝た。
##12月23日 起きたら治った。たぶん治った。治ったと思って立って動いていると完治ではないだろうなという感じがするが、大丈夫だろう。それにしてもすごく寝た。いくらでも寝られると思った。
風邪は僕は引かないことにしているので風邪を引いたのは恐るべき不測の事態だった。最後に引いたのは今年の年始の1月5日とかで、そのときも恐るべき不測の事態だと感じた。年1で引くことになったのだろうか。2年に1回くらいにしたい。それにしてもたまにしか引かないと引くと恐慌をきたす。
だいたいよしな気はしつつ、手先にややしびれを感じたりすることもあり、ややだるさは残っていることもあり、けっこうな緊張を感じながら店を開けた。4時、そうすると先週の暇を挽回するようにどんどこお客さんが来られ、それは僕の今日のコンディションからすると「これ完全にうれしい悲鳴シチュエーションだな」というものになった。昨日、僕は非番で不在だったわけだけど昨日は忙しい日になったみたいで洗い物がまったく追いつかなくなって電車もあったのでそのまま帰ってもらったので大量の洗い物を今日やったという程度に昨日はだから忙しくなったみたいで洗い物がたまったのはその忙しさが一日の後半に集中したためという感じで伝票見てもこれはヘビーそうだなというところだったのだけど今日は16時からの1時間で昨日のお客さんの数とほぼ同じだけの数のお客さんが来られた。オーダーの内容が違うので重さはまったく異なるけれど、ともあれ忙しいデイな幕開けになった。自身の体調に注視しながら、ドキドキしながらこなしていた。こなし終えて今これ打鍵している。無事に一日が終わりますように、と思っている、17時53分。
昨日風邪を感じて最初に思ったのは「これで保育園の送り迎えとかしなきゃならないとかあったら絶望的にしんどいよな〜」ということで、『かなわない』のことが浮かんだらしかった。それからトークイベントに行って思ったのは「これでイベント出演の予定があったりしたら絶望的にしんどいよな〜風邪でいうとどのくらいのところで人々は出演とりやめにするのだろう」ということで、そういうことを考えていると今の僕の暮らしには果たさないといけない約束みたいなものってほとんどないんだなということがわかった。店だって、どうしても無理だったら休めばいいだけだし、なんなら営業開始してからでも「今日はやっぱり体調があれなので閉めるというかこれ以上はお入りいただけないようにします」というのは、可能といえば可能で。宣言したあとソファに横になって「すでにおられる方はオーダーは全然お受けしますので横にはなってますけど気にせずお声掛けくださいね〜zzz」みたいなことも、絶対ダメかといえば絶対ダメとは僕は思わない。
そういうわけでやや気分が悪いのだろう、18時38分。
まだ元気というわけではないんだろうなというのがわかりやすいのは味見をするときで味見しても何も舌がよろこばない、そもそも何かを食べたい欲求がない。今日は開店前にパン屋さんでなんか甘栗が入った丸っこい324円のパンを買った、いつもパン・ド・ミを買うところで、そこで自分で食べるパンを買うことは珍しいというか滅多にないことだった、なんとなく今日は「今日はパンだな」と思ったらしくてそうした、食べたらおいしかった、でもたぶんふだんのコンディションで食べたほうが8倍はおいしかった、だからもったいないといえばもったいなかった、だから昨日からの2日間で食べたものはヨーグルト1つ、おじや1杯、パン1つがすべてで、今晩はどうするだろう、特に食べたい気分が湧かない気がする。コンビニでうどんでも買って食おうかという気もする。あたたかいものがいい。とても静かだ、山は本当に一番最初の1時間だけだった、今はすでに閑散としている20時22分。
静かなときが流れている、22時32分。武田砂鉄のやつを読む。cakseのやつはたまに読む程度だったのでだいたい初めて読むものなので楽しいので面白いので嬉しい。そういえば昨日のトークイベントのとき、昨日書いた通り「綾女欣伸×武田砂鉄「定形外編集」」というやつで、武田砂鉄ともうお一人が朝日出版社の編集の綾女さんで、こうやって書いていてすでに面倒くさい、迷い込んできた、武田砂鉄ともう一人が綾女欣伸で、いや、もうお一人が綾女さんで、綾女さんで、綾女欣伸で、綾女さんで、だから綾女さんで、なんで綾女さんかといえば『夢の本屋ガイド』の編集を担当されていたのが綾女さんでお会いしたことがあるというか原稿に最後まで付き添ってくださったのが綾女さんだから綾女さんになるのだけど、いやしかしそれは適切なのか(昨日の質疑応答で聞いてみたらよかった、どんな答えが出てくるのかすごく強く興味がある。でもそのときは「質問なんて何も浮かばないなー」と思って過ごしていた)、ともあれだから綾女さんは知己であった。知己であって、会場のお客さんはどのくらいだろうか、30人くらいだったろうか、だからそう多いわけでもなく、終わったあとに「こんにちは」と言いに行くのは容易いことであった、僕はそういうことをしなかった、ふらっと出くわした知己の方とは「こんにちは」とは言ったが、綾女さんに「こんにちは」と言いに行くことはしなかった。何が言いたいか。ふとさっき昨日会場でお会いした方とSNSでのコメントのやり取りで「昨日はご挨拶もせずに帰り」と書きそうになって、しかし、ご挨拶ってなんなんだ、しなければいけないご挨拶とはいったいなんなんだ、と思ったということらしかった。最たるご挨拶もせずの対象は綾女さんだろうなとは思ったのだけど、しかしご挨拶をする必要というか、権利というか、いやなんだろうか、なんだろうか。したくないわけではないけれど、したところでなんなんだ、俺がご挨拶をしたところでいったいなんなんだ、そんなことは求められていることなのか、知り合い風を吹かせてるんじゃないよという話ではないのか。こんにちは、って、いったいなんなんだ、というか。少し前も知り合いというか友人というかの店に行ったときに裏からその人の声が聞こえたときに僕は「ご挨拶もせずに」ものを買ってそのまま帰ったということがあったのだけど、こんにちは、来ましたよ、これ、買いましたよ、なんて、なんの必要があるんだろう、と思ったんだった。礼でも言えばいいですか?みたいな反応しかもたらさないのではないか、それは僕の想像力不足だろうか。実はそんなことはないのだろうか。わからない。社交なんてできない。いやいや待て、社交とかの前に『夢の本屋』ができたとき届けてくださったとき不在だったときのお礼とか、するべきことがあっただろう、その節はお世話になりましたとか、そういうのがあったろう。社交とか言う前に僕が非礼なだけかもしれない。総じて僕は非礼な人間だとは思うので僕らしいといえば僕らしいのだけど、なんというかこんがらがった末に振る舞いが非礼になるとか、アホらしいなとも思う。挨拶くらいできるようになりたい。のかもしれない。本当は。