昨日の話の続きというか本来書きたかったこと。印象づけるに際して力を発揮するという何かと何かの掛け算。たとえば昨日の例だけど「本×コート」、あとは
と、ここで1分くらい固まるたぐいの人間だからこそ、自分の店のことを考えていてもそういう何かいいやつが思いつかないんだろうなと。なんですかね例えば。
ひねり出そうと宙空を見やるのだけど頭の中は「何かうまいやつないかな…うまいやつ…馬…」で、いっこうに何かが出てくる気配はない。
まあきっと色々あるんでしょう、思い浮かばないけど、膝を打つようなあれこれが、世の中には、たくさん。
そういうわけで、この店のありようが表現され、人の記憶に残るような、「お、それは気になる」と思うような言葉の組み合わせを探ってみたい。
そこで最初に出てくるのが、というので浮かぶのが「本×読書」。すぐに間違いに気づく。あ、ミスったミスった、と。同じじゃん、と。
こういうちょっとしたミスっていうのが起きてそこから何かが始まることがあるから人間ていうのは面白いなと思うんだけど、本と読書は同じじゃない。
フヅクエという場所を考えたときに、本という語を取るのか読書という語を取るのかで言ったら間違いなく読書になる。決して本ではない。
これすごく大きな違いで、たしかにこの店には本がいくらか並んではいるのだけど、並んでいるとは言っても大した数ではない。僕の持ち物がただ並んでいる(だからCDやDVDもある)、というそれだけだ。
「本×〜」と言ったときには、やっぱりもっと蔵書数が多くて壁を覆うようにわーっと並んでる感じがする。あるいは多くはなくともすごくセンスよい具合に配置されているとか。つまり「本×〜」が提供するものは「景観としての本」みたいな要素も多々あるんじゃないか。
僕は本がわーっと並んでいる、あるいはかっこいいものとして置かれている景観というのはすごく好きだし、まあ本当に落ち着くよね、守られている感じするよね、というタイプだからそういう場所は好ましいのだけど、フヅクエはそれとはまた違うような気がする。(身だしなみというか東京ってやっぱりこういう感じの方がいいですかみたいな恐る恐るの感じで「これこんなふうに置いたら格好がつくかな…」みたいに意識してるところもあるんだけど)
じゃあ何か。となったらここが提供しているのは「読書の時間」であって、「本のある空間」ではない。仮に一冊も本を並べていなくても、機能としてはほとんど損なわれない(もちろん人によっては並んでいる本を読みたい、あるいは並んでいる本によってある種の共犯意識を芽生えさせることもあるだろうからそこは損なう部分になるけど)。
よくよく考えるとこれまでもずっと「読書」という言葉で書いているから「今さら何を」という感じかもしれないのだけど、「この店は読書の店である。本の店ではなく」という発見は僕にとってはわりと新鮮というか腑に落ちるものだった。
今日も掛け算はできなかったけど、だからフヅクエは少なくともブックバーやブックカフェではない、ということがはっきりとわかりました。