読書の日記(8/19-25)

2024.08.30
412.jpeg
書籍版新作『読書の日記 予言 箱根 お味噌汁』『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』が発売中です。
https://fuzkue-s3-v4.s3.ap-northeast-1.amazonaws.com/DN_56_cover_2_16adc7232b.png
こちらのページは抜粋版です。残り約10,000字のフルバージョンはメールマガジンかnoteで読めます。

抜粋

8月19日(月) 

夕方に家を出て冷蔵庫の搬入日の相談の電話を受けながら改札を抜けてホーム階に下りていき、電車に乗ると横に座ったおじいちゃんが語気強めの独語をたくさんする人だったのでイヤホンをつけ、おすすめ的なところに出てきたWireの『Pink Flag』を聞いて懐かしい。住野くんを思い出す。日記を書いていると、音の隙間で「京王よみうりランド」と聞こえ、え、と思って顔を上げると京王よみうりランド駅だった。そう言われてみて初めて、その数分前に見た窓の外の景色を思い出し、今と同じように高架っぼかった。正しく初台方向に向かっていたらしばらく地下、高いところは八幡山と明大前から笹塚くらいだから、変なことだった。そこで何かは感じて、小さく残っていたのだろう。

8月20日(火) 

電車に乗ると何かの部活の人たちなのだろうグループがいて、背中に「絆」と書かれたTシャツを着ていて一瞬「鎖」に見えた。「これだ」と思ったものを実行せず他の可能性を探り続けることに人間は耐えられない、と帰って塩焼きそばをつくりながら見た「積読チャンネル」で言われて、そのタイミングで塩焼きそばが完成したのでご飯、人参のラペと一緒に盛り付けて部屋に運び、「これだ」と思ったことの実行を今日も続けた。焼きそばは今日は豚肉と長ネギとほうれん草。 すべてを終えて布団に入ると「事実、大佐の関心は商売よりも仕事じたいにあった」という一文が目に入った。

8月21日(水) 

今日も自転車にイライラしながら歩いて、能天気なペースでのったりのったり漕ぐものであればいいが、歩道でシリアスな顔で強く漕ぐ自転車が嫌いすぎて泣きそう。特に電動機付きのやつが怖くて、あれめちゃくちゃ重いでしょう。僕は理科が本当にダメだからこれすらおぼつかないが重さがあるほうが衝突時の力みたいなやつが高まるわけでしょう。E=Cみたいなやつ。EはEだろ。運動エネルギーというそうだ。だから運動エネルギーで満ち満ちたものが歩道を跋扈するのが許せない。運動エネルギーを満たしながらスマホちらちら見ながら漕いでいるやつとかは理解不能で恐怖すら覚える。なんなのその自信は、といつも思う。完全な凶器。そんなに人を轢くかもしれないリスクを引き受けたいのだろうか。自転車剥奪してほしい、と私は考えた。

8月22日(木) 

布団に入ると『百年の孤独』。アウレリャノ・セグンドが苦労して連れて帰ってきた花嫁のフェルナンダがブエンディア家の様子を変えていった。「家族全員の敵意を買っていることは明らかなのに、フェルナンダは自分の先祖から伝わったしきたりを強引に持ちこもうとした」。
台所で各自が好きなときに食事をする習慣をやめさせ、麻の卓布や燭台や銀の食器のそろった食堂の大きなテーブルで、決められた時間に食事をするように仕向けた。ウルスラが日常生活のもっとも単純な行為だと前々から考えていたものが、仰々しい、もったいぶった行事となった。 ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直訳、新潮社)p.329
変化を苦々しく思うとともに、ウルスラが食事というものを「日常生活のもっとも単純な行為だと前々から考えていた」というのがよかった。

8月23日(金) 

帰ると店からかっぱらってきたカレーとセブンの煮卵と人参のラペでご飯。すぐ眠る。

8月24日(土) 

やたら眠く、そしてやたら疲労感を覚えているのは来週早起きの日が複数あるからかもしれない、と私は考えた。眠気や疲れを先取りしているのかもしれないと。
最後まで眠く、そして疲れていた。大谷にあやかって望んだお客さん数には届かなかったが、しかし初台の売上新記録となったので快哉を叫んだ。

8月25日(日) 

起きる気になれなかった。めちゃくちゃ疲れている。 とぼとぼと歩いて駅に向かい、電車に乗ると『ことばが変われば社会が変わる』を開いて、「主に三つの考え方から理解されてきた」言語変化現象のふたつめ、形式的な変化のみを言語変化とみなす考え方の例として「ら抜き言葉」の話が出てきた。
「ら抜き言葉」には、理由があるとも言われている。「られる」には、「〜される」という〈受け身〉の意味と、「〜できる」という〈可能〉の二つの意味がある。そのため、「食べられる」がどちらの意味か、あいまいな時があるからだ。「ら」を抜けば、「食べられる」は〈受け身〉の意味、「食べれる」は〈可能〉の意味、と区別できるようになる。 中村桃子『ことばが変われば社会が変わる』(筑摩書房) p.9,10
これは体がざわっとする感動というか驚きがあって、これまで僕は書き言葉におけるら抜きの強硬な否定派として生きてきたので、こんな説明のつけ方があったのか、そしてこれはひとつ合理的な変化とも言えそうじゃないか、と後頭部を大きなハンマーで殴られて気を失うような衝撃があった。意識が戻ると馴染みのない匂いがして知らない場所にいることがわかった。嫌な匂いではないのだが落ち着かなくさせる匂いで、あまりいい予感はしなかった。開いた目に映るのはまったくの暗闇で、体が横たわっている場所は柔らかく、マットレスの上にいるのかもしれない。この匂いもマットレスからのもので、人の体臭とかだろうか。体臭だとすればいい匂いに分類されるような気もしてきた。もっと嗅ぎたくなってくんくんと嗅いだ。その音の響き方で、どんな部屋にいるのか少し見当がついた。
・・・
残り約10,000字のフルバージョンはメールマガジンかnoteで読めます。