読書の日記(7/22-28)

2024.08.02
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抜粋

7月22日(月) 

夜に来られた二人組の方の片方が『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んでいるのが見えて、下巻だと知れた。下巻の始まりくらい。この本を読んでいる人を見かけると、そのたびに僕は楽しい気持ちになる。「いいなあ!」という底抜けに明るい気持ちになる。あれだけの楽しさの読書の時間というのはめったにないものだった。

7月23日(火) 

バイクを漕ぎながら今日はデータベース設計入門のYoutubeを見た。データベースは関係してくるはずなので、なにか感触を先に知っておくのもいいかなというところで。楽しそうだった。
シャワーを浴びると夕飯の作成でキャベツとピーマンと生姜を塩もみしてごま油と砂糖と醤油で和えたやつ、ごぼうとれんこんと豚肉の炒め物をこしらえてバクバク食べた。食べながらはサッカー関連の動画で木村浩嗣小澤一郎対談を見た。

7月24日(水) 

遊ちゃんが仕事で所沢に行くと言って出て少しすると空が瞬く間に暗くなってきた。ディスプレイの明かりの眩しさが相対的に上がったことで気づいた。外を見ると重い色の雲が立ち込めていた。雷鳴が遠くから鈍く聞こえた。雨が来るかと思ったらその前に風が吹いて前の庭の木がゆさゆさわさわさと揺れ、それからピカッと空が光った。木がしなる。どこかからぴゅーっと長い高い隙間風の音もする。バキバキと今度はずっと鮮明に雷が轟き、暗い青みを帯びた雲が空を流れていく。それでも雨はまだ降っていないように見える。強い風と大きな雷があっても雨はまだなのか、これだけの状態で雨はまだなのか、と思って窓を開けてみるとむあっと湿った土の匂いが入り込んできて雨も降っているようだった。部屋からはっきり雨が見えるようになったのは10分くらいしてからだった。斜めに降っていた。30分もすると青空が見えた。

7月25日(木) 

今日はすっかり暇な日のようで、昨日までの今週、3日だけだが、この3日はわりとまともに近い感じがあったので、そろそろ人は暑さに慣れてくれただろうか、と淡い期待をしていたが今日はすっかりダメだった。引き継ぎを終えるとライムミントシロップの続きをやりキーマカレーの続きをやり、そういうことが済むと座ってぽちぽちと働いた。
下北沢から移動してくる前に無印でサーキュレーターを買っていて、カウンター席の一番奥のところが熱だまりみたいになりやすくて気になっていた。そこに風を送る、空気を循環させる、というので買ってきてすぐに置いたが夜だから真価はわからないが多少なりとも効果はありそうだ。空気が籠もっていない気がした。

7月26日(金) 

どこかで疲れが来るのではないかと心配していたが最後まで元気に営業できて今日もいい店だった。幸せな読書の時間の総量を増やす。そのことを考えながら働いていて、えーこれは、といういいアイデアも浮かんで、それはいい! と思ったりしていた。元気だ。
猪突猛進に片付けてきちんと終わりにし、VsionCameraのガイドページを見たり検索して出てきたQiitaを読んだりしながら帰って今日までQiltaだと思っていた。

7月27日(土) 

取得する書誌情報の調整をしてAPIの部分は前に設定していた。メインは版元ドットコムとかがつくっているっぽいopenBDというやつでその後ろにGoogle Books APIsという構えで、どのAPIを使うか考えるとき、阿久津隆というのはちょうどよい対象で、阿久津隆だとどうなんの、というので調べたりした。ほぼ問題なくあったが(『読書の日記』の2冊めだけタイトルが『本づくり スープとパン 重力の虹』と副題だけになっていた)、手元にあったいくつかの本は出たり出なかったりして、わからなさがあった。バーコードがあれば、というものでもないみたい。他のアプリでもいろいろ見たが、けっこうバラバラだった。なんのAPIが使われているんだろう。
でもとにかくその取得する書誌情報の調整をして最初はうまくいったように見えたが『自由研究には向かない殺人』をかざすと著者が「Jackson Holly」と出てなるほどと思った。いくらか続けたが今はここはいいや、と思って切り上げた。スキャンが成功する動画を戸塚さんに送りつけた。

7月28日(日) 

まだ2時か、まだ明晰だ、そう考えてから作業に戻り、意識がぼやけるまで続けた。そのときベルンハルトの語り手は心臓の音を聞いていた。「私はひたすら自分の心臓の鼓動とその不規則さを観察した」。
もちろん私たちは、医者、こういうケースでは内科医の言うことに耳をかすが、信じはしない。医者の言ったことはちゃんと聞いたが、それは信じず、無視するのだ。たぶん、この無視というのがいちばんいい方法だろう、と私はいま考えている。だがもちろん私たちは、もう余命いくばくもないと医者から言われたその言葉に苦しみつづける。だから私たちはしょっちゅう医者の言葉と医者の破壊的なご託宣から逃げだすのだ。なぜなら私たちは、たとえ人生をさんざんこき下ろし、場合によっては軽蔑しているにしても、やはり生きていたいからだ。私たちはやはり生に固執し、実際いつまでも生きていたいと願うのだ。 トーマス・ベルンハルト『消去』(池田信雄訳、みすず書房)p.452
ここに来て自分の体、自分の心臓の鼓動に収斂していくのか、と私は考えた。凄みを覚えた。しかしそうではなかった。朝がやってきた。本棚から抜き出したデカルトの「気が紛れて、救われ」る「文章とともに私は二、三時間窓際で過ごしたが、やがて起きて階下へ降りていかなければならない時間になった。葬儀が始まったのだ。私はもうかなり長いこと、窓から妹たちを観察していた」。なんと、朝が来た。唐突に、新しい朝が来た。
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