察するコスト

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値段を決めてまだ数日だけど、やっぱり変更してよかったと思う瞬間がいくつもある。笑い顔で「お、いいんすか?」とか言えるのはやっぱり気持ちがいい。願わくはというか恐らくはというかやっぱり願わくは、受け取る僕だけでなく払ったお客さんも、お互いにそうであるといい。
もちろん、この改定によって「あ、もうなしっすわ」と思う方も出てくるだろうけれども、それが値段の問題であるならば、どんな値段であろうとも高いと思う人もいれば適当と思う人もいれば安いと思う人もいるのが値段というものだから、それは仕方がない。
「もうなしっすわ」が店のスタンスというかいろいろの見せ方というか表現の仕方の問題であるならば、すいませんこういう振る舞いになっちゃうんですここは、というか僕は、という感じで、なんだか惜しい気もするが、今の僕にとって最善と判断され選択された振る舞いはこれなので、やっぱりこれも仕方がないだろう。
ところで去年の12月に書いた記事にこんなのがあって。
「クドさ」か「察するコスト」か
「フヅクエにおいては、だから、いかに楽に過ごしていただくか、そのためにいかに察するコストを抑えられるか、ということなのかなと」とか書いていて。
当時、というか12月、この記事を読んで違和感を覚えた方っておられるんじゃないかと思っていて、「察するコストを抑えたいとか言って、え、どの口が言ってんの?いちばん難しいところ察させてるじゃん?」っていう。さっさせる。サッサセル。
「お好きな金額をお支払いください」の仕組みに関することはネット上では書かないと固く誓うでもないけれど書かないことにしていたので(インターネットの本分であるところのろくでもない誤配が起こって面倒くさいことが起きかねない気がしていたから)、察させまくっている部分については素知らぬ顔をして書いた。
ちょっとした欺瞞がここにありーとか思いながら書いていた。
今回の変更で、どこまで察するコストを下げることができているだろうか。
これまで完全にブラックボックスにしていたものを、今度はわりと一転する感じでけっこう踏み込んで詳らかにするようなやり方をしているのだけど、お客さんはこの感じをどういうふうに受け取っていらっしゃるのだろうか。
気持ち悪いと言えば気持ち悪いだろうし、わかりやすいと言えば実にわかりやすいわけだけど、吉と出るのか凶と出るのか。というか凶と出ちゃった方はやっぱり次はないんだろうから、吉と出る方とどれだけこの店は出会っているのか/これから出会っていけるのか、ということか。
まあなんか、そんな感じですかね。(なんの話だっけ
photo by 斉藤幸子