読書の日記(5/6-12)

2024.05.17
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抜粋

5月6日(月) 

9時くらいまで働くと今日は運動は休む日にしてとても久しぶりに銭湯に行った。常連たちが大谷翔平について話していた。ドジャースの話になり、ひとりがイチローさんも在籍していましたよねと誤ったことを言い、もうひとりは聞いていないのかなんでもいいのか、うん、いたね、と応じていて、いい加減でよかった。

5月7日(火) 

6時ごろ遊ちゃんと買い物に出、豚肉と三つ葉とかを買って戻るとそれらを茹で、人参はしりしりでズッキーニは薄切りで塩揉み、ナスは柔らかく焼き、それぞれホーローの容器に移し、そこに水と鰹節と塩と醤油と酒でつくった漬け汁を注いだ。昨日ツイッターで長谷川あかりさんの投稿で見たやつですこぶるおいしそうだったしちょうどズッキーニとかナスとか浸したらおいしそうなものもあったのでそれをやりたくなってやった。3時間くらいは浸しておくといいとあったのでこれは仕込みで、済むと仕事復帰。意味のある仕事、意味のある仕事、と思いながら、自分は意味のある仕事をできているのだろうか、何か価値を生み出しているのだろうか、と思いながら、座っている。この苛烈さに耐えることが僕に課された何かなのだろう。大変だわ。

5月8日(水) 

帰ると紅茶を淹れてお仕事。下北沢を出るくらいから気持ちが沈んでいるのを感じている。なんらかの虚しさ。しばらくすると激しい雨音がし始めた。雨雲から逃げ切れたわけだ。つまらない気持ちで仕事をひとつずつ潰し、6時半になると遊ちゃんと夕飯で昨日のおひたしとキムチと。一晩経つと肉や野菜にどれだけ味が染みるか楽しみだったがそんなに変わらないような感じだった。でもおいしかった。実家の卓上の醤油差しの話をしながら食べた。

5月9日(木) 

どうしてなのかここを読んでいたらオラシオ・カステジャーノス・モヤの「吐き気―サンサルバドルのトーマス・ベルンハルト」の感触を思い出して、ベルンハルトを読んでいる以上どこで思い出してもいいはずだがなぜかここで思い出した。この次のページにもまたいい言葉があって「叔父の話についていけないということを絶えず感じさせられているうちに、彼に反感を抱くことで満足するようになり、その反感は日増しに高まって、滞在が終わりに近づくころには、むきだしの憎悪に変わった」というものだった。話についていけないということを感じさせられているうちに反感をいだくことで満足するようになり、その反感は日増しに高まり、ついにはむきだしの憎悪に変わる。なんか、すごく、現代でも。

5月10日(金) 

夜までまたじっくり働き、今日はおとといとかにツイッターを削除したのに続いてブラウザのブックマークバーから野球ニュースも削除した。さらにブックマークバーを非表示にした。こうするとだいぶ違う感じがするというかブックマークバーが表示されている状態というのはいつでも別の場所が呼んでいるような状態だったんだなと、すっきりしたブラウザを見ながら思うし、それらがない状態で働いていても、何度も、しきりに、自分の意識がツイッターや野球ニュースにアクセスしようとするのを感じて、そのたびに「ないんだった」と気づくようなそういう動きが何度もある。ツイッターにも野球にもアクセスできない今、じゃあ何を見に行けばいいの、みたいに思う感じもあって、何も見に行かなくていいんだよ、と言い聞かせる。気が散り続けていることがよくわかる。

5月11日(土) 

最初の2時間は怒涛だった。ちょっと記憶にないほどの怒涛さで、なんにもわからない岸本さんはしかしよく見る目を持っていてかなりスムースに動いていたのであとで感嘆の意を伝えた。バタバタしながらどうにかこうにかこなして少しずつ緩まり、それから仕込みとかに着手してあっという間に6時で山口くんとバトンタッチしてあとは任せた。調布に戻り、家に帰ろうかとも思ったが今日は8時半からシティとフラムの試合だ。調布に着くと、いま帰ったら俺はサッカーを見ちゃう、と思って帰宅を回避して館に行った。アイスコーヒーを飲みながらトーキング・ヘッズを聞きながらもうひと仕事でいい働きができた気がする。

5月12日(日) 

布団に入るとベルンハルト。昨日は寝落ちして栞を挟みそこねて、どこまで読んだっけな、と見ていくとページを折られたところがあり、ふたりの妹のことが書かれていた。ここはすでに読んだと思いながら読む。
二人は病弱だったが、それは母親ゆずりの長寿を約束された病弱さだった。妹たちはいつでも咳をしていて、そうでない妹たちを見たことがない。ヴォルフスエックでは階下からも階上からも彼女たちの咳が聞こえてくる。死を招くような悪性のものではない。まるで咳をすることだけが情熱で、この世にそれにまさる慰みはないとでもいうかのよう。パーティーでも咳のしどおしだ。何も話題をもたない妹たちがひっきりなしに咳をするのだ。 トーマス・ベルンハルト『消去』(池田信雄訳、みすず書房)p.42
一文一文が強烈に面白く、この面白さは本当になんなんだろうと思って3度も4度も読み返した。
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