抜粋
3月11日(月)
ブライトンが先制して30分くらい見ると食事を終えたので試合も終えた。ストレッチを経て布団に入って「フェイトの部」。この部はハードボイルド小説の感触がある。
ビールを頼み、バーを見渡した。客のなかからシーマンを見分けることはできなかった。ビールを片手に、大きな声で、誰かバリー・シーマンを知らないかと尋ねた。
「そういうあんたは何者なんだ?」とデトロイト・ピストンズのTシャツと空色のデニムのジャケットを着た小男が訊いた。
「オスカー・フェイト」とフェイトは答えた。「『黒い夜明け』というニューヨークの雑誌の記者だ」
さっきのウェイターが彼に身を寄せ、本当に記者なのかと尋ねた。記者だよ。「黒い夜明け」の。
「なあ兄弟」と小男が座ったまま言った。「あんたのところの雑誌の名前ときたらクソだな」一緒にカードゲームをしていた二人の男が笑った。
ロベルト・ボラーニョ『2666』(野谷文昭、内田兆史、久野量一訳、白水社)p.242
3月12日(火)
店開け、意外にもトントンとお客さんがあって一生懸命働き、今日は一日シフトなので仕込みは前半に詰め込んで夕方以降に楽ができるようにしたかった。そのためどんどん仕込みを進めて人参のおかず、ポテトサラダ、ピクルス、漬物、チーズケーキ、ショートブレッドがつくられていく。朝ごはんを食べ損ねて空腹で頭がクラクラする感じがあって、オーダーが落ち着くとカレーを食べた。
3月13日(水)
布団に入ると『2666』。講演がやっと終わる。また長時間どこかで『2666』を読む日をやりたいな。考えてみたら3月は1日以来、まったく仕事がはかどらない日はあれど、ちゃんと休む日はつくれていない。すぐこうなる。
3月14日(木)
7時になると「Delicate」を流して、やっぱりいい曲だった。開始時間までリピートで流していた。
結局10人の方が来てくださり、音量をしぼって山口くんが挨拶をして始まって、10人の人が白い本を開いていた、檸檬シアターの物語を読んでいた、僕も最初のオーダーを少し手伝ったりするも、今日は簡単なオーダーというか、特に指南することもない感じだったのでわりとすぐに読み始めて、覚えているものだなあと思う。やっぱりこれはいい小説だなあと何度も思う。「本当は十分くらい考えたいんですよ」と折原が言う。
「なんで? 思い出せないの?」
「いや、自分の年齢はわかってますよ。その言い方とかニュアンスみたいなのをどれにしようかな、って考えたり」
「何それ、怖いんだけど」
「怖いですよね」
「そこまで考えた事ないんだけど」
「美工藤さん考えなくていいですよ」
「いや考えるか考えないかは私が決めるから」
「あ、すいません」
「まあ考えないけど」
「考えねえのかよ」
「疲れるじゃん」
「疲れます」
「じゃあ今めっちゃ疲れてるって事じゃん」
「今は大丈夫です」
「なんで? 私のこと舐めてるから?」
「いや舐めてないっすよ」
「十分考えていいよ」
iPhoneの『時計』を開いてストップウォッチをスタートさせる。世界で一番かけがえのない時間が始まる。十分間美工藤さんは窓の外を見たりシャボン棒をかじったり脚を組んだりこめかみを掻いたりした。
「すいません。訂正します。舐めてるかもしれないです」
山口慎太朗『デリケート』p.52,53
「思ってるのに『思ってないでしょ」って言われるのきついよね」
同前 p.63
ヤンヤンが提案したのは『おもいで』に入ってくるところからやり直す、という、仲直り界に風穴を開ける革新的なアイデアだった。むっちゃでかい鉄球が先っぽについた解体工事の時に使うクレーンで風穴を開けたので、もう穴とかじゃなくて全部を消し飛ばした。ヤンヤンは店員さんに「もう一回入ってくるところからやります」という圧倒的に説明不足な言葉を放り投げ、二人で一度店の外に出てもう一度『おもいで』に入ってきた。「暑いね〜」とか「アイスコーヒーが好きだ」とかの話を先ほどと同じように辿り、ヤンヤンはこう言った。「私タナカイズミの写真好きだよ。タナカイズミの写真をもっと色んな人に見てもらいたい。タナカイズミが私以外の人撮った写真も見たい。いつでも見たい。どこでも見たい。あ、今そういえばInstagramっていうのがあるらしいよ。知ってる? タナカイズミ。知ってるよね。それだったらいつでもどこでも誰でも見れるよね。便利だね」
タナカイズミはヤンヤンにここまでやらせた自分に絶望して笑った。ヤンヤンは「笑うのなしよ」と言って笑った。効果は抜群だった。
同前 p.80
夜の中央線、一つ空いた席の前に美工藤さんとタナカイズミと本二郎と俺の四人が立っている。本二郎が「道蘭さんって、なんか、難しいよね」と言い、美工藤さんは「言いたいことはわかるけど、もうちょっとちゃんと言った方がいいよ」と言う。美工藤さんのその注意は全方向に向かった愛だったので、異様な美しさを帯びて放たれた。その言葉が無かったら俺は家に帰ってまたぐるぐると色んな事を考えて最終的に自分で自分を傷付けるという無理のある決着をつけて寝ていたと思う。
同前 p.91
3月15日(金)
結局何時に起きたのだったか忘れたが、起きるとうどんを食べた。『Number』を読みながら食べ、イチローの、ダルビッシュの、ボー・ビシェットとルイス・アラエスの、菊池雄星の記事を読み、今日は大谷翔平の夫婦の写真を大谷翔平およびドジャースのアカウントがアップしたことが大ニュースになっていた。
3月16日(土)
歯磨きしに洗面所に行くと遊ちゃんが洗濯機の上に置いたパソコンの画面に向かって「自分でやれー! 自分でやれー!」と力強い声で言っていて、歯ブラシに歯磨き粉をつけるとその横をすり抜けてトイレに行った。遊ちゃんはまた何かを言っていた。
ぽかぽか陽気の日になるようなのでインナーダウンはなしにして、鍼に行くという遊ちゃんと一緒に出て話しているとさっきは大奥のドラマを見ていたらしく、ジェットコースターみたいに激しい展開が繰り広げられているそうだ。松平定信は正妻の幼馴染であだ名で呼び合う仲だ。恋慕もしていて上様から正妻を略奪したく、それで側室の子を殺すことを画策し、それは成功し、さらにまた別の側室の子を殺すべく部下を遣わせたがやりきれず、それで部下に対して怒っていたところ、自分の手を汚さずに何を言っているのだ、と憤りを覚えた遊ちゃんが松平定信に向けて「自分でやれー!」と言っていたことが知れた。歩いているとたしかにぽかぽかしていた。
3月17日(日)
僕はまた眠り、11時前くらいに起きたのだったか、スマホをぬるぬるしていたらなぜか『宇宙兄弟』を読み始めてしまって60話も無料で読めるというので読んでいった。岡山にいたときに漫画喫茶にこもって読み耽ったことがあるのだが、だから再読のはずなのだが、完全に初めて読む感覚で読んでいたし面白い漫画だった。建物に閉じ込められた状態での2週間にわたる試験は大変そうで、主人公のグループは仲がよさそうでよかった。主人公だしこれで落ちたら次の宇宙飛行士の試験まで何年もあるみたいだから、落ちるわけにはいかないのだろうが、無事宇宙飛行士になれるのか心配。みんないいやつなのでみんなに合格してもらいたい気持ち。『宇宙兄弟 スーパースターズ編』として今いるみんなで宇宙行くのを実現してもらいたい気持ち。