抜粋
1月29日(月)
昨日の西荻窪はいつ以来かわからないたくさんのお客さん数で、パウサの前の夜としてふさわしいものとなったのではないかと思う。パウサはサッカー用語で、一時停止みたいな意味かと思ったら停止やフェイントを使ってパスを出すタイミングを遅らせることらしく、だから西荻窪のはパウサは意味のわからない使い方になった。
1月30日(火)
山口くんが来て交代。オオゼキで鶏もも肉を買う、ビックカメラの前が工事されていてグラウンドキーパー的な動きでサラサラの土を均していた。あんなところにそんな土が? 調布駅前広場は去年から工事が本格化して、進捗を見るのが日々のささやかな楽しみになっている。帰ると居間のテーブルがいくらかにぎやか。遊ちゃんは今日は『氷の城壁』を最初から読んだそうだ。ハートランドの瓶もあった。
1月31日(水)
シャワー浴び、玉ねぎとブロッコリーと菜の花を切って水を少し入れた皿でレンジでチン。そこに醤油とごま油とお酢を少し掛けておいしそう。オーブンを見出すと同時にレンジでチンも最近見出した感。あとはセブンで買ってきたハンバーグとキムチで、試合はアーセナルとアストン・ヴィラかどこかで、飯食い、キムチは要らなかったかもしれない。ハンバーグとレンチン野菜で十分かもしれなくてそれにしても野菜がおいしい。
2月1日(木)
榮山さん上がり、代わり、仕込みの残りを片付けると読書会の準備というか予約購入の本にサインを書き、あと頼めるメニューにチャイを加えたり。そうしていたらカウンター席の明るさのことを思い出し、少し明かりが弱いように感じていた。傘付きの照明の強さは電球を換えないと変えられないが、本棚を照らしているスポットライトの向きやダクトレール上の位置で手元の明るさは変えられそうで、だから椅子によじ登ってダクトレールをかちゃかちゃやって、影ができる場所を変えたり当て方を変えたりという作業を繰り返した。最初は手のひらを当てて明るさを見ていたが本を見たほうが、と思って文庫本の棚から取った本を開いて確認しながら進めた。ふと開かれたページを見ると「日記」という文字が見えた気がした。
「僕の代りに、延子がよく覚えといてほしいんだよ。」
「だって……。」
「ううん、僕達の生活のことをさ。若い時のことを、いろいろ延子に昔話してもらって、老後の楽しみにしようじゃないか。」
「ええ。」
延子はうなずいた。思いがけない夫の言葉に、心を動かされて、
「それじゃ、日記を書くことにしますわ。」
「日記? そうだな?」
と牧山は考える風で、
「日記はどうかな。書いとくのは面白くないかもしれんね。延子が覚えていてくれる方がいいんだよ。」
「そんなの……。あたしだって、なにもそう覚えてられませんよ。日記をつけておけば、確かですわ。あたしの記憶なんて、ずいぶん怪しいのよ。実際とはちがった風に覚えてると思うんですの。そんなに信用されると困っちゃいますわ。」
「人間の思い出って、そんなものだよ。なにも確かでなくていいんだ。実際とちがってる方がいいんだ。延子が好きなように、覚えていてくれるだけで、沢山なんだよ。老後にその話を聞いて、ああ、そうだったかと思い出したら、それでいいのさ。」
川端康成「夫唱婦和」『愛する人達』(新潮社)p.144,145
日記については意見がわかれますが、不確かなほうがいいというのはとても同意だ。それにしても昔の小説のこの感じはいいものだなと、延子と同じく僕も心を動かされる。なんだろうこのリズム。こういうのを読みたいな、と思う。だから『伊豆の踊子』けっこうだいぶ楽しみ。それでそうしているとそして照明の具合はだいぶ変わってずいぶん明るくなったんじゃないか。満足するとセブンに行ってバタークッキーを買った。
2月2日(金)
食事してすぐにお腹が痛くなったのでトイレに籠もってまったり。それから洗濯してきた布巾を店に置き、ラウンジにいるもぼけーっとしちゃってダメだ。少しすると諦め、B&Bに入ると最初のコーナーで『汚穢のリズム』という本が見えて、何か気になるというか飛び散った脳みそとかと関係ある気がする。ぞっとするあの感覚というのはなんなのか気になっていた。道路の上のたとえば鼠の死骸。近づきながら嫌な予感がしても見届けて確定させなければと思うあの感じ、果たしてそれが死骸だとわかった瞬間に生じるあの感じ。それから目当てだったのはSNSで何度か目にした、ボラーニョを引き合いに出す言葉も何かで見た、なんとかというやつで、メキシコのやつ、表紙の色合いは覚えている、タイトルも見れば引っかかるかもしれない、おぼつかない材料を頼りにそのあたりのところに行くと差さっていて『ハリケーンの季節』だ。喜び勇んで2冊を買うと初台に移動、シオール。シオールではある程度まともに働けてしかし眠い。
2月3日(土)
店の終わりを見届け、片付け、しんなりとした気持ちで電車に乗り、『ハリケーンの季節』を読みながら帰る。「本を読んで帰る」というのが、「今日はもうライフがゼロだから読む」みたいな行為になっている感がある。ゼロじゃなければ仕事をする気満々というのは本当にどうなのか。ともあれメキシコだ。メキシコの田舎町がハリケーンで損壊する。生き残った魔女の娘がうろうろと歩いている。やっぱり電車は読書だよなと思いながら心地よく、今日も耳はVladislav Delayですっかり気に入った。馴染む。今、こういうのがいい。
2月4日(日)
日付が変わるころには布団に入り、送られてきた初台の伝票を見たら夜が大忙しになったようで、久しぶりに見るお客さん数だった。快哉を叫んだら遊ちゃんを起こしてしまうので黙って横になると『ハリケーンの季節』。たぶん200ページちょっとという薄さもあるのだろう、プレッシャーのなさというか、それも手伝ってどんどん読もうとなっているらしい。うれしいことじゃないか。