読書の日記(8/21-27)

2023.09.01
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抜粋

8月21日(月) 

上がる前に和え物の野菜を買いに八百屋に。前を通ったココカラファインはなかなか開かないと思っていたが今週末にオープンするようだ。ココカラファインのペーパータオルがとても好きなのでうれしい。小松菜かゴーヤかなと思っていたらオクラが大袋にたっぷり入って250円というのがあったのでそれにした。レジを待ちながら壁に目が行って近くの小学生たちによるお手紙というかお礼というか告知の貼り紙があって「ミニ店員をさせてくださりありがとうございました」と大きく書かれていた、職業体験的なものがあったのだろう、その下に「お礼に歌をうたいます」とあって予想外の展開で、日時と会場が書かれていた、「ぜひききにきてください」と締められていた。
順番になってオクラをレジに持っていくとレジには大袋にたっぷり入ったアスパラが置かれていたので立派なアスパラですねと言ったらそれも足して会計されたので、あ、これは買わない、と慌てて訂正した、もらえるのかと思った、と笑いながら言ったらおばちゃんはアスパラの横に置かれていた茹でとうもろこしを渡してきて、これはくれるらしかった、もらった。

8月22日(火) 

早く片付けて早く夕飯を食べて早く帰ろうとも思っていたがそのためにはシャキシャキする必要があり、シャキシャキする力はなく、のったりのったりしていたら結局帰るのは終電になって今日も『言語の本質』を読みながら調布に戻った。これを読むようになってから普段使っている言葉の音の感じに注目する意識が生じていて音象徴って本当にあるなあと実感している。コンビニでハンバーグと切り干し大根の煮物を買ってビールを飲みながら家に近づいているとthinとthickが浮かんでこれはthickが「厚い」というのは変な感じだなあ! と感じた。シャワーを浴びると海藻サラダを戻して人参をスライスしたのを合わせて適当に味付けし、ピーマンを切ってレンジでチンして適当に味付けし、1時過ぎ、なぜ2品もつくっているのか。だからそれによってそれとそれとハンバーグと切り干し大根とキムチという食卓になってこれならば切り干し大根は要らなかったな。

8月23日(水) 

前から歩いていくる人のTシャツに「ACAPULCO」と書かれていて、毎晩読んでいるポニアトウスカの今の舞台もアカプルコだから、ポニアトウスカが前から歩いてきたのかと思った。大柄というかでっぷりと太った男性だった。

8月24日(木) 

終え、2時すぎ、やっとご飯。納豆がないなと思ったが昨日のもやしと福神漬けとキムチで。食べ終え、今日もスプレッドシートを触っている。どうやったら黒字になるのだろう、とあれこれ数字を触るが、遠い。実現不能なんじゃないかという気持ちになっていく。それを続けていたら気持ちが倦んでいった。気持ちが倦めば疲れが前にせり出してくる。眠くなり、1時間だけ、と思って布団に横になった。野球のニュースを見に行くと大谷翔平が右肘靭帯を損傷で今季の登板はもうなし、というニュースが目に入り、今朝、先発して1回で降板していて心配していたら、そういうことになった。奇跡的なシーズがこういう形で終わる。打者としては続ける可能性はあるのかもしれないし、もう今の成績で十分に奇跡的だが、とても悲しい気持ち。薄暗い部屋の中で、自分でも驚くくらいの悲しみが胸に広がるのを感じていた。

8月25日(金) 

楽しい気分で店じまいをすると帰り、どの瞬間になのか、いったいなぜなのか、ザ・ルーツを久しぶりに聞きたくなってそれを聞きながら電車に乗った。金曜日の終電はけっこう目いっぱいで、壁に押し付けられながら『言語の本質』を読んでいた。調布に着くとイヤホンは外して、音楽が消えてから頭の中にザ・ルーツが鳴った、「だはは、みゅじっだはっみゅーじっ、だはは、みゅじっだはっみゅーじっ」というやつ。なんとかかんとかばうんすぎっぼー、じゃすてんうぃらいゆっすんぎぼー」というやつ。

8月26日(土) 

8時半くらいまで働くと出、お寿司を食べたいと思う。それでオオゼキに行って寿司コーナーに近づくとまったくのすっからかんだった。遊ちゃんとSlackでやり取りしながら歩いて遊ちゃんは夜市に行ったそうだ。僕は西友に行った。初めて入った西友は薄暗い感じで、寿司コーナーはやはりすっからかんだった。遊ちゃんからもりもり寿しというところで持ち帰れるという情報が来たがグーグルマップ上の情報だと「高級」とあったので避け、オーケーに行った、惣菜とかのコーナーに近づく前からそんな気配があったが寿司に限らず惣菜全般すっからかんで、寿司はひとつとしてなかった。土曜の夜、人々は「お寿司買って帰ろうか」みたいなことをきっとやっているのだろう、気持ちはすごくわかる。それでは、というのでくら寿司に向かった。寿司を巡る冒険。放浪。

8月27日(日) 

乳幼児期から子どもは、知覚的な類似性を検出することができる。その「似ている」感覚を足がかりに、動詞の持つ抽象性を緩和し、動詞を学習する。さらに、動詞を学習することで、抽象的な関係性にも「似ている」と感じることができるようになるのだ。言い換えれば、動詞を知らなくてもわかる知覚的な類似性を利用して、大人のように、抽象的な関係を「似ている」と見なせるようになる。自らをブートストラップしているのである。 今井むつみ、秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(中央公論新社)p.203
ブートストラッピング・サイクルによる学習では、知識はつねに再編成され、変化を続けながらボリュームを増し、構造も洗練されていく。節目節目で重要な「洞察」が生まれ、「洞察」が学習を大きく加速させたり、概念の体系を大きく変化させたりする。つまり言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。 同前 p.204
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