読書の日記(11/28-12/4)

2022.12.09
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Shopify沼、マッコリ、セネガル/月末の金勘定、ランウェイ、下北沢の売上/梱包発送試行、セブンのハンバーグ、『家の本』、本の離脱力/オーストラリア、デンマーク、カール・ドライヤー/滑稽な起床、人はつねにやるべきではないことをやり始める、昼番初台夜番下北沢/ポスティングの費用対効果、Jane's Addiction、人間の速度、本の遅さ/スプレッドシオール、孤独な天使たち、小説の終わり/写真撮影、レバンドフスキ、百鬼園随筆

抜粋

11月28日(月) 

今日は前田さんとタッグなのでできるだけ前田さんが動くのを観察しながらああだこうだ言ったり観察をサボって自分の仕事をしたりしながら過ごし、お腹がぐんぐん空いていく。そのまま7時になって川又さんがやってきてバトンタッチ、家に帰る、帰りの電車で本を開くとパゾリーニの死が再び描かれていて、読んでいるとおでこが汗で濡れてきた、冷や汗だ、気持ち悪くなってきて立っているのがしんどくなってきた、すぐ隣が優先席なので体調が悪くなってしまったから席を譲ってもらえないかとお願いすることもできたがまだ大丈夫だと思って耐え、本は読めない、不自然な汗をかきながら外をじっと見ている、光が横に横に流れていく。

11月29日(火) 

帰ると昨日店から持って帰ってきた、ひきちゃん本間くんからいただいたマッコリを飲もうと思って、僕はマッコリというものをまるで何もわかっていなかったのだろう、きっと何かが底に溜まったりしているだろうからと思ってボトルを上下にひっくり返すことを何度かしてから、ひきちゃんがメモに書いて教えてくれたとおりにふたを少しずつ、10度くらいに分けながら開けて空気を逃していく、と思ったら3度目くらいでできた隙間からマッコリが噴射した。マッコリは炭酸の酒だったらしい! キッチンまわりが大惨事になった、噴射の様子はヘリコプターをイメージしてもらったらよい。いつも着ている黒い厚い服も汚れた、いい機会だと思って洗濯しようとしたらそのまま乾燥までさせると縮むよと遊ちゃんに言われ、そんな繊細な衣類だったとは!

11月30日(水) 

体が押し付けられるきつい電車の中で『家の本』を開く、2006年、たんすの家の章だ、母と娘をたんすが隔てるあの家だろう。それは寝室の話で今はリビングだ。そこには正方形のテーブルが置かれている。今日は人が集う日だからテーブルを追加しないといけない。
そこで、よく庭で見かけるような、プラスチック製のテーブルが追加される。かつては白かった表面が、いまではやや黄ばんでいるが、けっして見苦しいことはない。垂直にはめこまれた四本の脚が、食卓にふさわしい安定感をもたらしている。ふだんはバルコニーに置かれているこのテーブルが、正方形のテーブルの隣に設置される。
したがって、舞台の中央にはテーブルがある。二脚のテーブルがつながれて細長くなった食卓に、八人分の食器が用意してある。外にはすでに闇が下り、窓ガラスが鏡のように、内部の光景を反射して閉じこめている。
窓ガラスには、すでに食事を終えた人びとが映っている。皿は汚れ、何枚かはテーブルのすみに積まれている。流しに重ねられた皿もあるだろうが、会食者の頭上に吊された照明の光は、シンクまでは届かない。 アンドレア・バイヤーニ『家の本』(栗原俊秀訳、白水社)p.227,228
1ページとちょっとを読んだところでふいに、自分が今、今ここからは遮断された、何か視界が奥まったような、ぐんと中に入り込んだような、そういう静かで穏やかなまったく別の場所にいたことに気がついて、小説というのは改めてこれはすごい、離脱力というか、この力はすごい、これは僕はスマホを見ていたら起きない、映画や音楽だったら起きるだろうか、音楽は起きるかもしれない、いや音楽が起こしているのは今ここからの遮蔽みたいな感じもするし、あるいは今ここの美化みたいなところもある、見えているものが映像になって耐えられるものになる感じ。本というか小説がもたらすものはまた全然違う、かなりおかしな感覚だ、2022年の東京を一挙に離れて2006年のイタリアの時間が流れ込む。その場所と時間に自分が飛ぶ。情景、運動。文字を追いながら頭の中でそれらを組み立てていく中でその感覚が起きていくというかその中に入っていく。

12月1日(木) 

スーパーに向かっていると
「今日は塩焼きそばにしよう」
というひらめきが天啓のようにやってきた、すると遊ちゃんがおーおー、おおおと力強く歌いだした、すれちがった人はきっと「サッカーに夢中なんだろうな」と思ったが遊ちゃんはひとつも夢中じゃない。

12月2日(金) 

閉店してビールを飲み小分けのご飯と鶏ハムをリュックに突っ込むと出、敷地のロープを掛けると帰る。Jane's Addictionを耳に流す。今は暗い世田谷の坂道を前にしながら音が流れ始めた瞬間、どうしてだか、かつては人はこれをレコードで買ってきて、床に座ってターンテーブルに置いて、針を落として、それで再生させたんだよな、と思う。駅に着くと本を開く、語り手が夜明け前の公園を散歩している、彼もレコードを聞いたりするのだろう。ターンテーブルにレコードを置いて聴取に向かう人の体験と指一本でなんでも選び取れる、無数に向こうから情報が流れてくる、その波の中をざっぷざっぷと転々とする体験はあまりにも違う。自然に生じる我慢強さが絶対に異なる。レコードを買ってきた人たちは、とりあえず一度は通して聞いただろう。今は最初の15秒とかで聴取者の耳をぱっと掴まなければいけないそうだけど、それは人間の速度とはやはり相容れないのではないか、人間の頭や感情はそんな速さで対応できない、駄作だと思いながらも何度も何度も聞くみたいな体験がもたらす、遅れて咲く何かみたいなものの価値は絶対にある、それを取り戻すことはもうできないのだろうか。そんなことを思っていると4曲目くらいになって「Sex is violent」と聞こえてきた、ああ、これだ、これこれ、よみうりランドのイルミネーションの今年のテーマの「LIGHT IS HAPPINESS」というフレーズを見たときに頭をよぎり、しかし捕まえきれずにいたのはこれだ、やっぱりJane's Addictionだったわけだ、無事突き当たることができたわけだ。ジュエルミネーションの今年のテーマは「SEX IS VIOLENT」。

12月3日(土) 

6時になって店に行くとわんさかお客さんがいて嬉しい。マキノさんと交代して8時まで前田さんと。8時になる直前に来店とオーダーのラッシュがあって、ちょっとのっぴきならない感じがあったので前田さんにお願いして残ってもらった、そこから猛烈な勢いでオーダーをこなしていった、かなり完璧な動きができた感じ。一段落つくと、あー楽しかった、と思う。それで前田さんが帰っていって僕は引き続きよく働いて閉店を迎え、帰ってもまだ仕事をしたいから今日は龍馬、と思っていたら冷蔵庫を開けた手が取ってきたのはハートランドで、「いや龍馬って言ったでしょw」と言いながら「まあいいけどさ」と言って飲む。久しぶりに定食を食べておいしい。今日は3店舗ともにいい感じの売上で、3日で寒さを人が受け入れたということだろうか。とにかくありがたい。

12月4日(日) 

『家の本』が終わろうとしている数日前からこれが終わったらベルンハルトの『昏乱』かなという気がしていたというかあの饒舌に触れたかった、だけど『おいしいごはんが食べられますように』も読みたいしまだ買っていないが井戸川射子の新しいやつも読みたい。だから外国、日本、外国、ということにして間にそれらを挟むか。今晩はどうするのか。そう思っていたら内田百閒を手に取っていてこれは盛林堂書房で買った『百鬼園戦後日記I』だ。どうやら今日はこれらしい。どうしてだろう。布団に入ると開く。
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