読書の日記(11/21-27)

2022.12.02
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『君は君の人生の主役になれ』、別のしかた、酒と暮らし/ワンパンパスタ、『家の本』、『亀』/物撮り、雨の祝日、日本対ドイツ/パスタ、コンポーネント指向、ポテチ/Title、『本が語ってくれること』、蟹ブックス、『香山哲のプロジェクト発酵記』/バーンレート、厚かましいお願い、資金調達/よみうりランド、コルグ、カレー屋/ジャイアンツ球場、鎌ヶ谷の記憶、グミ・チョコレート・パイン/アフターパス、キャッシュオンリー、『デス・プルーフ』/ミルキーウェイ、高木正勝、百円玉拾う/LIGHT IS HAPPINESS、一杯の豚汁、11円足りない/

抜粋

11月21日(月) 

昼番なので10時にインし、飯食うとミーチング。11時に前田さん来て一緒に準備。移動平均曲線を見る。暇な日。発注を教えたり仕込みを教えたりしながら6時まで働くと水澤さんが来て交代。行き帰りの電車で『君は君の人生の主役になれ』を読んで「抽象を通して具体を見ることで、目の前に広がるありふれた世界が全く別様になる。それがまさに勉強の醍醐味です」とある。
しかしこのことは、解像度が高いほど素晴らしい世界が広がるというような単純な話ではありません。大人と子どもの環境に対する反応を見比べてみるだけでわかりますが、子どもより大人のほうが見る解像度が高いから、大人はそのぶん世界の豊かさを堪能しているとはとうてい言えません。むしろ、大人は具体のままに見る子どもの目を失ってしまったからこそ、それを取り戻すために抽象という代理物に飛び込んでいるのかもしれません。その意味では、勉強は子どもの目を別のしかたで取り戻すことを通して自由になるためのものとも言えるのです鳥羽和久『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)p.226,227
勉強したくなった。というかビジネスな勉強な本を読んでいて面白いのはこういうことを面白がっているからだよなと思う。これまで文学とかそういうものばかりを読んでいた人間にとっては、それを選び取るかどうかは別として、これまで知らなかった別のしかた、別の考え方がそこここにあってそれが面白いんだよなと思う。

11月22日(火) 

家に着くころには1本目のビールを飲み終えてすぐに2本目のビールを飲み始め遊ちゃんはまだ働いているようでZoomかGatherか、話し声が聞こえる。刻んだにんにくと玉ねぎを炒めてベーコンと白菜としめじも合流させてくったりするまで蒸し、それから水とコンソメと塩を入れて煮立たせる、そこにスパゲティを入れて煮ていく、5分茹でる。でも5分だとまったく硬かったので水を足して時間を足していく。いい柔らかさになって煮詰めて完成で、なんだかものすごい量ができた。200グラムとはこんなにも大量か、という量でさすがに僕もおののいたし遊ちゃんは「3人前?」と言った。大きなお皿に盛り付けてそれで完成でバクバク食べておいしい、おいしいが減らない、減らないがおいしい、と繰り返しているうちに減ってきてやっと1人前くらいになる。適量は130グラムくらいだろうか。

11月23日(水) 

だから7時くらいになると一度仕事を切り上げてスーパーに行ってポテチとビールとトマトとかを買ってきて今日はトマトとベーコンと白菜とシーフードミックスのパスタをこしらえるそうだ。炒め、しんなりさせ、水とコンソメと塩を入れて茹でる、ぐつぐつ煮詰める、昨日よりは手際がよくなった。コンソメを入れるから遠慮がちな量になりがちだけど塩をしっかり入れたほうがいいかもしれない、そちらのほうが味がしっかり芯につくかもしれない。食べ終えて8時半とかでシャワーを浴びてまだ1時間あるので仕事。ウェブサイトの内容を少し書き換えたいと思って店舗ページの中にお近くの「本の読める日」参加店とかそういうのを表示したいと思って、それでVSCODEを立ち上げて店舗ページのところがどういう構造になっているのか見るのだがけっこう複雑というかコンポーネント指向というのはきっとこういうやつなんだろうなという感じになっていて、ギリギリ触れそうな感じもするけれど下手に手を出すよりもはんぞーにお願いしたほうがいいやつかもしれない。
そうしていると時間になったのでビールとポテチを取ってきて臨戦態勢。ずいぶんワクワクしている。試合が始まって数分で解説の本田圭佑が守備がいい感じでできていると話していてそうか数分でそういう状態は現れるのか、と新鮮。それから守備がぐんぐん崩れていったようで「ハマってない」という言葉が何度も発された。本田の解説はとても面白くて、どういうところに着眼するのかを教えてくれるような感じだった。失点し、それからも全然立て直せない状態が続いて前半が終わって、本田はどうやればこの状況を打開できるのか熱心に考える。

11月24日(木) 

ネオンに彩られたパルの商店街に入って歩いていく、商店街の終わりのほうにヴィレヴァンがあることに初めて気づいた。それで蟹ブックスに行って追加のチラシやリーフレットを渡す。ちょうど今日花田さんからそれらの追加の依頼のメールが来ていたのでついでに寄った形。なんとなくTitleに行ったらそのまま蟹ブックスに行く、というのが僕の中で自然な流れになってきている感じがある。それでそのまま長々と居座って話をしていた、店のこと、原稿仕事のこと、本屋のいろいろな形のこと。こういう話はずっとしていられるな、ずうっとしていたいな、じっくり腰を落ち着けてしたいなこの話、という話がいくつもあって飲みに行きたい。ブックストアエイドの5人で久しぶりに集まって飲みに行きましょうよ、という話を先日からSlackで提案したりしているのだが過疎ったワークスペースというものはそういうものなのか誰からも反応がないのだが近々行きたい所存。出たら閉店時間をちょうど過ぎたところで、長くいすぎたというか、楽しくなって長々と居座ってしまったが、これは話したがりの迷惑な客みたいなことになっていないか出てから心配というかやや後悔。

11月25日(金) 

11時半に閉店になって猛スピードでご飯を食べて片付けて帰る。終電の電車は強烈に混んでいた、本を読もうと思っていたが潰されて読めないような感じ。本を窓に押し付けるように持っていると何か声が聞こえてきて、なんとなく不穏な気配、と思っていたらその声が大きくなっていって客同士が喧嘩しているらしい。「やるのかこら」とか「殴ってみろよ」とか、うるさい。耐え難い。それは続いて荒ぶる声は今ひとつ迫力がないような、不慣れな出し方のような、でもたまに運良くしっかりどすが利く感じになるようなそういう声でただただ鬱陶しい。いつまでもやまない。うんざりしていると今度はテンションの高い大学生たちの声が響いてきてうるさい。たぶん恋の話をしている。誰かとの何かについて黙秘したい人がいる。アイキャントスピークイングリッシュユーノー、みたいなことを言っていて鬱陶しい。耐え難い。なんだか自分が苛立ちやすくなっているのを感じる。

11月26日(土) 

午前中に降った雨でしっとりと濡れた土のグラウンドはきれいで静かだった。その左側にはしっかりした建物があって室内練習場のようだ。ここでたくさんの選手が練習を積んできたのだなあ、と思うと誰もいないその光景を前にしながらでも何かぐっと来るものがあって来られてよかった。なぜか何度も中田翔の姿が浮かんでいた。選手たちはここまでどうやって来るのだろうか、実績を持った人たちというか自家用車を持った人たちは車でそのまま来て、車を持っていない人たちはどうするのか。たまに外国人選手とかが車やタクシーではない方法で来ると「庶民派」みたいな感じでニュースに好意的に書かれて喜ばれるそういうやつがあるが、そういった人たちは巨人への道を歩いていくのか、それとも左側の坂道をうねうねと上がっていくのだろうか。そしてまた、その人たちは、京王線に乗っての通勤ということだろうか。京王線は巨人軍の選手を毎日運んでいるのか。

11月27日(日) 

キッチンで、流しから二歩離れたところに坐り、両脇に妻と娘がいる。妻は化粧を始めたばかりだ。女ふたりが「私」のために、ネクタイの結び目を整えてやっている。どちらも不慣れな手つきで、面白がっているようにも見える。「私」は、ふたりの好きなようにさせている。写真が永久とわに伝えるだろう滑稽さは、慈しみとともに記憶されることがわかっているから。それよりも、ふたりがネクタイを結び終わり、少し離れたところからできばえを眺めたときの笑い声や、それから彼のもとへ駆けよって、そろって頬にキスをしてくれたことの方が、「私」の心に強い印象を刻むだろう。 アンドレア・バイヤーニ『家の本』(栗原俊秀訳、白水社)p.200
泣いちゃった。滑稽さは、慈しみとともに記憶される。本当にそうだ。慈しみというのはいつだって、どこかしら何か悲しいし、この悲しさこそが人生の豊かさだとも思うそういうものを持っている。悲しみも喜びみたいなものも内包した慈しみというこの言葉が人生全体の何かと関わるような気がする。めそめそ泣いてもうしばらく読むと明かりを消した。
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