読書の日記(11/7-13)

2022.11.18
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至らなさや弱さ、接客の衣、自分らしくあることと演じ続けること/旅の本屋のまど、今野書店、『新潮』、「ゴダールと私」/恐怖は身動きを取れなくさせる/『ケイコ 目を澄ませて』、鼻水、チラシ/丸善ジュンク堂、新刊文芸書棚、ラテンアメリカ文学棚、『家の本』、『昏乱』、『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門』/珈琲館、銭湯、フヅクエが続く可能性/氷割り、恐れのあいさつ、言いよどみ/Notionの進化、への恐れ/フヅクエギフト券、目的・目標・戦略・戦術、利他・ヘイワース/台湾料理、国語、『新潮』/マーケティングの夢、ジョルジュ・ブラック、ゴダール

抜粋

11月7日(月) 

それで前田さんが来て今日は僕は7時まで。けっこう真面目に教えながら過ごす。至らなさとかミスとか弱さとかできなさとかこそが武器になるという話とか、身についてしまっている接客の衣みたいなものを一枚一枚剥がしていく話とか、普通に自分らしくあることと演じ続けることの話とか、こう書くと抽象的な指南という感じもするけれど多分当てはめられる具体的な技術がひとつひとつあって教えるたびにそれが言葉になっていく、その作業はけっこう疲れるというか単純によくしゃべるからよく疲れる。7時になる頃にはけっこうヘトヘトで川又さんとバトンタッチすると帰る。

11月8日(火) 

それで三鷹から帰る。空の縁がどろんと熟れていく。夜に進んでいく。今日は月蝕だそうだ、6時過ぎに家に着いてベランダに出て見ると月が見えて欠けていくというか侵されていく途中で初めて見た。遊ちゃんの仕事の人たちの声が聞こえてきて室町時代以来の、ということで珍しい月蝕だそうで7時10分がピークだそうだ。3分置きくらいに見て面白かった。7時を過ぎて大地との壁打ちが始まり、10分になったので一度離れて見に行った。だいたい侵されていた。

11月9日(水) 

恐怖は身動きを取れなくさせる。恐怖は身をすくませて、思考を止めさせる。それが今で今は正常な判断ができなくなっている。フヅクエがなくなっちゃうなんて嫌だな、とだけ思っている。

11月10日(木) 

東急百貨店前の交差点で別れると横断歩道を渡って東急百貨店に入る、それで7階に上がって丸善ジュンク堂だ。大好きな本屋が閉まる。大好きなとは言っても調布に引っ越してからは多分昨年末に大量のビジネス書を買いに来たときくらいしか来ていないから不義理なものだが、それでも何か別れを言いたいようなそういう気持ちはあってそれで来た。真っ先にラテンアメリカ文学の棚に行って「この経路」と思う。何度も何度もたどった経路だ。いやちょっと違うかもしれない。今日はエレベーターを出るとまず右に折れておしっこをしにトイレに行ってしまったからラテンアメリカ文学コーナーへは背後から向かうような形になったがいつもたどっていたのはまずまっすぐ行って左の新刊文芸書棚、そこからラテンアメリカ棚、それで裏の英米仏の外国文学棚、それがお決まりだった。何度も何度もこの棚の前に呆然と立ち尽くしたものだ。それは楽しい時間のこともあれば何を買ったらいいのか何を読みたいのかわからなくなって憂鬱になるようなそういう時間もあった。この場所で、ああ、ラテンアメリカ文学の新着はこれね、というのを都度知っていったわけだ。でも今日取ったのはラテンアメリカではなくて前にどこかで見てちょっと気になった『家の本』というやつで著者はアンドレア・バイヤーニという名前で訳者が栗原俊秀だからイタリアの小説とかだろうか、それからトーマス・ベルンハルトの『昏乱』、それでこの棚を離れてビジネス書のところに行くと昨日大地から教わった森岡毅の『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門』を取ってレジに行く、カバーは掛けますかと言われたので「あじゃあその一番上のやつだけ」と言ってマーケティング入門にはカバーを巻いてもらってこれはどういう意識なんだろうか。

11月11日(金) 

スーパーでビール3本。あと豆苗とか。帰ってプルコギのやつと玉ねぎと豆苗としめじで炒めもの。なんだかずうっと泣きそうな心地。ずうっとゴワゴワとした気持ち。両親から誕生日おめでとうのLINEが来ていたのを忘れていた、返信すると布団に入って『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方 成功を引き寄せるマーケティング入門』。
『君は君の人生の主役になれ』の代わりにこれを読み始めたら「私はマーケティング思考を知ったおかげで、人生の主役が自分自身であることを実感できるようになりました」とあった。

11月12日(土) 

今日の前半はやたら忙しい日でひとりだったらちょっと苦しかっただろうなと思うそういう忙しさだった、楽しく働く、少し手が空くとすぐに出、今日はあいさつについて引き続き注意してみようという話。今日の起き抜けの時間だったか「ありがとうございまァす」と「ありがとうございます」の違いについて頭が考えていて、それによると「ありがとうございまァす」は恐れの回避のために発動される声出しなのではないかということだった。発しても届かないのではないか、この声はスルーされるのではないか、そういう恐れがあるとき、人はそういうあいさつになるのではないか。それは、声それだけで言えば「まァす」のほうが明るい感じを出せるというのもある、普通におこなう低く落ちていくあいさつは声だけで言えば暗い、もっと言えば冷たい。普通にあいさつするときその低いあいさつができるのはこの声が目の前の人に届くという確信に守られているからなのかもしれず、だとすると、フヅクエで発したいあいさつの声というのは、一歩勇気のいる声というか、ひとつの跳躍を必要とする声なのかもしれない。

11月13日(日) 

それから「本の読める日」の改善活動のネクストアクションの洗い出しみたいなことを一生懸命考えていった。それはけっこういい時間になった。3時半くらいまでうんうんうなりながら考え事を進めていってこの時間を持ててよかった。やることが見えれば得られる安心は少しであろうと必ずある。
やっと眠くなったので布団に入って『新潮』の続きを読んで「ゴダールのことだから、体が動かなくなったら動かないなりの、もし目が見えなくなったら見えないなりの映画を撮るんだろうと感じていた。/ということは、死んだら死んだなりの映画を撮るということか」とあって本当にそういう感じがするからゴダールというのは本当にすごいなと思う。
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