抜粋
9月5日(月)
ひとつやるべきことを潰しておけば明日がひとつ楽になる、みたいな気持ちで仕事をしていたら寝るのが遅くなったので起きたときに感じたのはひとつも楽にならない、むしろ猛烈に眠い、一日この眠気に付きまとわれるのならばなんらいいことはないということだったが起き上がり、家を出る。ここ数日、火曜水曜の矢板滞在をのんびり過ごすために前倒しで仕事をしようとしている感じがあるが倒せど倒せどやることはやってくる感じがあって「休む」というのは「ちゃんと諦める」みたいなことと不可分なんだろうなと思う。
9月6日(火)
グッドニュースはそこからほど近く、第2駐車場に車を停めた。ひとつ細い道を渡るとその敷地で、低層の建物が両脇に広がる、通路がひとつあってトンネルの向こう的な見え方で森が見える、足元にやさしい何かを感じるので下を見ると木くずが練り込まれたやわらかい感じの床材で、建物の壁もオレンジ色の土壁だ。通路を抜けると森が広がっていてそこがパティオみたいな感じだ。オニバスコーヒーに入ってコーヒーをいただき、外の広場で飲む。店舗の棟と棟のあいだに壁に囲まれたスペースがあってそこにもテーブルと椅子が並んでいて、なにか屋内と屋外が反転したようなそういう見え方で素敵だった。なんだかめちゃくちゃ印象がよくて、けっこう僕は感動しながら見ていた。この立ち上げとか、すごく楽しかっただろうなあ、と想像していた。
9月7日(水)
今晩はちゃんと夜にシャワーを浴びることができた。それで早々に布団に入って10時過ぎとかだった。昨日は本を1ページも読むことがないという珍しい日で、今日は『水平線』を読み始める日だった。「屋上のデッキからは、洋上に快晴が広がりつつあるのが見えた」、読み始めて船の中だ、ゆらゆらと体が揺れて時間が揺らぐ。雨音、寝具越しに感じる木の床の固さ、それがどこか小説の時間とフィットするような感じがのっけからあった。文芸誌で読んだときもすごかったけれどこの冒頭はやっぱりすごい。
目が覚めて、周囲が新しい二等船室に戻った。まだ部屋の灯りは消えたままで薄暗いなか、誰の目が覚めたのだかわからない。船室の灯りが点くのは午前六時だったはずだ。
屋上のデッキは施錠されて夜間の立ち入りはできない。もうとうに伊豆七島も過ぎたはずで、いま航路周辺に見える島はない。だいいち日が落ちてからは水平線と夜空の境界は黒く溶け合ってなにも見えない。だから頭上の月と星は明るくたいへん美しいが、視線は波と風の音を聞きながら水平線の方を見続けていて、朝まで誰もいなかった。
滝口悠生『水平線』(新潮社)p.9
一度本を閉じ、眠気を感じていないから期待はできないが一度眠ろうとする。目を閉じ、じっとする。暑いし寒い。布団を掛けたら暑いし剥いだらすぐ寒い。暑い寒い。暑い。寒い。という感じ。
9月8日(木)
晩ごはんは今日はロールキャベツとタコとみょうがとかのサラダとなんとかという初めて見た野菜を使ったサラダとれんこんのきんぴらでみょうがは庭で採れるのだという。びわの木のまわりにたくさん自生している、放っておくと面倒なことになるから間引く作業のほうが重要なくらいだ、採れるのは2ヶ月間くらいで冬になると葉が茶色になってクタッとして倒れて次の夏まではなにもない。みょうがが好きなのでみょうがが採れるなんて羨ましいなと思う、2ヶ月しか稼働しないのは短い。テレビはつい反応しちゃうからという理由で野球中継を映させてもらうことにして巨人とDeNAの試合だった。野球は、反応するときは反応するけれど、バラエティ番組とは違って間断なく反応を喚起してくることはなく穏当だった。反応するときというのは0-1の巨人の守りでランナーが3人いて、という場面でレフトにいい当たりが飛んでウォーカーが飛んで、捕った! ビッグプレー! と思ったらグラブに収まりきらず、地面に倒れてからボールがグラブからこぼれてそれで3点が失われるという、0点のビッグプレーか3点の大きな失点かという分水嶺のそういう場面とか、あるいは3-4の巨人の攻撃でランナー2人の状況で中田翔が見事に逆転ホームランというそういう場面とか。
9月9日(金)
自分の咳で目が覚めたのが4時半だった。網戸から冷たい空気が入ってきて寒く、布団はもう一枚厚いものをかぶったらよかった。タオルケットと薄手の毛布みたいなやつだと少し心もとない肌寒さで、でも掛け布団を出す前にやれることはあって窓を閉めることだったのでそうした。咳が何度も出て眠気を邪魔される。鼻水も出てきて何度も鼻をかむ。埃とかでやられたようで喘息の吸入器を持ってきていればと思うが持ってきていないので後悔したところでやれることもなく、体はとにかく眠いのだが眠れない状態で咳をしながらスマホを延々と見つめて過ごしていた。6時くらいになってやっと眠れた。眠れてしまえば出ないものなのか、それから次に起きるまでは咳に苦しめられることもなく寝続けることができて気持ちがよかった。
9月10日(土)
東京駅に着くと丸善に行ったのは何かたくさんの会社の組織図例みたいなものを教えてくれる本とかないかな、組織図づくりの基本みたいな本はないかな、と思ってのことで丸の内本店のこの丸善には初めて来た。入り口のところで遊ちゃんと一度別れて僕は一階にあるというビジネス書コーナーを目指した、それはすぐにあってそして本がたくさんあった。棚の高さだろうか、けっこうどこよりも圧巻という感覚になってそれは紀伊國屋書店の新宿本店よりも丸善ジュンク堂の渋谷店よりも池袋店よりも「ビジネス書に今、囲まれている」という感じになる棚だった。それで組織がどうこうというコーナーに当たると立ち止まり、ずらーっと並ぶ本を見ていく。どれもだいたいよりよい組織のつくり方を指南する本という感じで僕が知りたいことの先の話だった、ちょうどよさそうな本は結局うまく見つけられなかった。なのでドラッカーの『マネジメント』の中巻と、何が気になったのだったか、その名も『組織』という本を取った、副題は「 「組織という有機体」のデザイン 28のボキャブラリー」というものだった。それで買ったらどっと疲れた、情けない、弱々しい気持ちに襲われてどうしてだったのだろうか。
9月11日(日)
それで『水平線』を開くと三森来美は硫黄島にいる。そこで生起する感情を言葉にしようとすると「とたんに便所の詩になる」、「自分の先祖が死んだ土地を訪れ、その景色を見て浮かぶ人間の心情なんて陳腐な定型をなぞるほかない。飲み屋の便所で目にする詩のような言葉が浮かびかけては、それをひとつひとつ、つぶしてつぶしてつぶす」。しかし同乗の人たちの言葉はまた違う聞こえ方がする。
年寄りというのは大したもので、なにを言っても含蓄があるなあ。そこに時間があるなあ。便所の詩の文句と同じような言葉でも、私の耳はそのひと固有の換えのきかない景色や情念を聞きとるなあ。便所の詩、便所の詩、と勢い任せに蔑む自分が間違っているのかもしれない。私も毎日便所に行くし。でもそんなことわざわざ誰にも言わないし。言うまでもないし。それを日記に書いたりブログに書いたりもしない。けれども、毎日便所に行くその便所にある言葉も、そこが毎日の便所であることで毎日だんだん尊さをおびていくのかもしれない、みたいなことも思う。この島で暮らした島民も、毎日便所に行っただろうし。当時のお便所はどんな造りだったんだろう。いまではその便所もない、便所に限らない、台所も、庭も、学校も神社も残っていないけれど、そこには毎日便所で過ごすひとびとの毎日の時間があって、そこにもなにか、凡庸で安直な、けれどもいまこの瞬間だけは、たしかにそこに特別な意味が帯びていると感じられる感慨や思念が、そういう言葉があったのだと思う。
滝口悠生『水平線』(新潮社)p.61
朝からぐっときてうるっときてそうしているうちに初台に着いた。