読書の日記(7/25-31)

2022.08.05
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ゆる言語学ラジオ、「は」は主題の提示、大感動/『組織デザイン』、ヒエラルキーの登場、大感動/10連勤の発見/お母さんとディジュリドゥ/吉祥寺の記憶、ロロ『ここは居心地がいいけど、もう行く』/『ショットとは何か』、グリフィスとフライシャー/「人は対話をする。それは、自分を変えようとしている人が取り組むコミュニケーションである」/フヅクエ10周年、フヅクエがなくなった未来の想像/かわいさとかっこよさ/山口くんの4年、阿久津くんの21年、3年後にフジロック/プルースト、突如6巻が終わる/西荻窪シフト/『象は鼻が長い』、ただのガノニヲの微力さ!

抜粋

7月25日(月) 

11時くらいに終わりにしてサラダうどんを完成させる。湯を沸かしたり茹でたりの間はストレッチをしながら「ゆる言語学ラジオ」を聞いていて前回の「象は鼻が長い」「僕はうなぎだ」「こんにゃくは太らない」の話の続きでいろいろな考え方が紹介されてその中でだったか「項」という文字を説明するのに「うなじ」を挙げたことに大笑いした、これは大笑いしながら幸福を感じている大笑いで、こういうことに僕はひたすらキュンキュンするようだ、小学生のときに「火」の字に「ほ」という読み方があることを知ったときの感動がそのまま続いている感じがする、だから幸せに聞いていてそれで真打ちの登場だ、三上章という人でアマチュアの日本語学者だそうだ、提唱したそれは当時は学界では完全に無視された、それによると日本語の「は」は主語ではなく主題の提示であってそれは句点を超えて話を支配し続ける。これにはもう大感動だ。

7月26日(火) 

のんびり準備して開け、言うまでもないことだがという感覚で暇。不安になっていく。

7月27日(水) 

開け、人が来る気が一切しない。座っている。働いている。途中で肩がバカみたいに重くなっていってひどい疲れを感じる。告知記事の作成とプレスリリースの作成は今日やらないとそうとうまずい、ということはこの状態を脱しなければいけない。夕方に山口くんと交代すると急いで下北沢に行って指圧を受ける。とにかく肩が重いと訴え、今日の先生は院長先生だった、院長先生は鍼は打たない指圧だけの先生で、普段受ける機会はあまりなかった、2度めとかだった。その指圧がべらぼうによくて、すごい、これはすごい、と思いながら受けている。慌ただしくない。ひとつひとつの押下が非常にゆっくりで、力強く、すごい。

7月28日(木) 

今日はロロの『ここは居心地がいいけど、もう行く』だった。いろんな歓声の混じったザラザラした音質になった音楽が流されていて舞台美術の感じからもどうも文化祭のようだ、ブルーハーツの曲が流れてあ、この曲好き、と思ったら暗転して舞台が始まった。途中から、自分が何に感動しているのかわからないままずうっと感動し続けていて、ずうっと目に涙を溜めたまま、最後の方はだらだらこぼしながら、そこで繰り広げられる人々の運動を見続けていた。

7月29日(金) 

「対話とは、真理を求める会話である。対話とは、何かの問いに答えようとして、あるいは、自分の考えが正しいのかどうかを知ろうとして、だれかと話し合い、真理を探求する会話のことである」と電車の壁と天井の途中の湾曲した広告スペースの広告に書かれていて「人は対話をする。それは、自分を変えようとしている人が取り組むコミュニケーションである」ともある。自説を守るためだけのコミュニケーションを取る人はいる、自説を守ることが自分を守ることになってしまっている、だから相手から出てきた思考を検討するまでもなくまず守ることに意識が行ってしまう。それは僕も思い当たるふしがあってそういうとき、とてもいびつな思考をしていたとがあとになってわかる。ということをここのところ考えていたところだったので対話とは自分を変えようとしている人が取り組むコミュニケーションというのはまさにそうで膝を打って、それは日能研の広告でフェリス女学院中学校の入試問題として使われた文章だった、河野哲也という人の『人は語り続けるとき、考えていない 対話と思考の哲学』という本だそうで人は語り続けるとき、考えていない! いろいろまさに過ぎて膝を強打した。

7月30日(土) 

少しだけストレッチをし、それからしばらく「情報の受け手にとって負荷が下がった状態とは何か」について考えてから布団に入りプルースト。女性たちが目配せをする夏の浜辺。語り手は気が気じゃない。美女とアルベルチーヌが絶対怪しい。そういう話をぼーっと読んでいたらページをめくったら「もっとも、アルベルチーヌが愛していると思われる女たちによってひきおこされた私の嫉妬は、急にやむことになった」とだけあって残りは空白で突如6巻が終わった。解説とか訳注とかで40ページくらいの厚みがまだあったので驚いて、こういう突如の終わり、終わりを予期しないまま迎えられる終わりはすごく好み。どんな本もこういうふうに読み終えたいくらい。

7月31日(日) 

西荻で流れる時間もいい時間だなあ、と思いながら、いろいろ不慣れな動きで四苦八苦しつつ働いていた。
10時に閉まり、片付け等。慣れない店で一日働くのは思った以上に疲れることで、その非日常感がそうさせたのか終えるとビールを飲んだ。家まで遠いし何か慌てるような心地もあって急いで店じまいし、11時前に出る。コンビニでビール買う。へとへと。帰りの電車では『象は鼻が長い』を読み始めた。
西洋文法を無批判に輸入した先学たちは、このような「Xハ」と顕在の「Xガ」とをいっしょくたにして、それに「主語」の礼遇を与えました。自国語の形式を無視してのいっしょくたが、ここでは多数派横暴を招いています。なぜなら、次の第四節以下に述べるような少数派の「Xハ」が、つまり「Xガ」以外を代行する「Xハ」が全く無視されるか、あるいは不当に軽視されるからです。それよりもっといけないのは、微力な顕在「Xガ」まで巻き添えて礼遇してしまうことです。貫禄があるのは「Xハ」のほうだけであって、初めからただの「Xガ」はずっと微力であるのに、こっちまで「主語」扱いしてしまうからです。これは、たとえで言うと、多数派が自派の院外団まで議場に引き入れてしまう暴挙です。
少数派でも議員は議員であり、院外団は、たとえ多数派側のものであっても、無資格です。ただのガノニヲの微力さについては、あとでいろいろ説明します。 三上章『象は鼻が長い』(くろしお出版)p.19
貫禄があるのは「Xハ」のほうだけ! ただのガノニヲの微力さ!
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