抜粋
6月6日(月)
それで珈琲館に落ち着いて数字管理の方法を一所懸命考える。なんの数字を取れば進捗の具合をビビッドに感じられるのか、まるでわからない感じ。持ってきたiPadにあるべきダッシュボードの姿をスケッチしようとするが、項目が多いとボヤける。でも足りないと意味が汲み取れなくなる。あれこれ思案している中で会社員の時の営業成績のデータの様子を思い出してそこには月の予算に対する達成率、その日までの達成率とかがあった。「forecast」という項目があったことも思い出してこのままだとここに着地だよというやつだ。「budget」「actual」「forecast」、そんな感じだった、懐かしい。しかし僕はどんな数字だろうがそれで奮起するみたいなことは一切なくてただ上司に詰められる。詰められたところで「今からもうひとつ契約取ってくるなんてできないですよ、見込み案件もないし、それに僕らがいて代理店がいてその先にお客さんがいてっていうこの距離で、今から僕にできることなんてなくないですか? そもそも保険の契約なんて急いでさせるものじゃないでしょう。今の僕を詰めても今月の結果なんて変わらないですよ。詰めるなら2ヶ月前の僕を詰めてくださいよ!」という気分で、飄々としていたわけではなくただ無力さと無意味さを噛み締めながら鬱屈としていた。
6月7日(火)
夕方、また雨が降り始めたようだ、出、吉祥寺行きのバスに乗る。夕方のバスは僕は座れたが少しずつ乗客を吸収して次第に混んでいった。前に座っている小学生の女の子が本を読んでいて、姿勢が定まらないらしくしきりにうごうごしている。僕みたいだ。でも僕よりもずっとハードで、背中は窓にぴったりついて完全に横向きになって読んだかと思えば正反対の向きも試したり、最後は完全に後ろ向きになって膝が座面で頭がシートで本はシートと座面の間みたいなそういう状況だ、まんまるに丸まって本を読んでいるようだ。暗いんじゃないかと思うがものともしない。読書の時間というのは繭の中にいるみたいなものだ、外界からは隔絶されて自分と本だけになる、そういうふうに思うことがあるがその繭性が見事に体現されていた。
6月8日(水)
6時頃に珈琲館。今日は主の姿は見当たらない、と思ったら途中でやってきた。昼間は今日はもう休みだろうと思っていたのだが次第に体が温まっていく感じがあって体が張り切っていく感じがあって旺盛に働いた。10時ごろ帰ったのだったか、スーパーできのことかを買ったが今日はビールは買わなかった! 豚肉ときのこと仙台麩の炒めものをこしらえてラタトゥイユ、キャベツ、それで晩ごはん。自炊でこうやって日々のおかずが積み重なっていくのは少しずつ登場人物が登場していく映画の序盤とかみたいな感じがする。そう思うとき青山真治のことを思う感じがあって青山真治はシナリオで登場人物が出ていく順番みたいなものを音楽の構成みたいな感じで考えていたというのを何かで読んだ記憶があるが完全な記憶違いかもしれない。大谷翔平はキャンプとかの時期の投球練習について「音合わせ」という言葉で語っていた。
6月9日(木)
グラフの数が多すぎます
6月10日(金)
だから1時過ぎに頓挫して今日は終わりにして布団に入りプルーストを開いたわけだがページの文字ひとつひとつがマス目の中に入っているように見えて目の中にスプレッドシートの罫線が染み込んでしまったらしい。データポータルに吸い上げる最後のシートは小さい文字サイズで方眼みたいにしていた。一晩寝て起きたらさすがに目に焼き付いたそれは消えたようで電車で読んだプルーストはいつもの通りでとうとうゲルマント家を出て今度はシャルリュス男爵の家に向かって馬車を走らせていた。語り手はゲルマント家の晩餐会で聞いてきた話を人に話したくてしかたがない。「それらの話(社交的な性質のもので個人的な性質をもってはいないそれらの話)は、なんだか早く私から出たくてたまらないかのようであった」。
私は馬車のなかで、まるで巫女のようにからだをゆすぶっていた。私自身が一種のX... 大公、一種のゲルマント夫人になれるような、そしてそれらの話を語れるような、新しい晩餐会が早くこないかと待たれるのであった。手ぐすねをひきながら、それらの話は、私の唇をぴくぴくさせて、その内容を私に口ごもらせ、一方私は、目がくらむほど早く遠心力ではこびさられる私の精神を、自分のほうに連れもどそうと空しい努力を試みるのであった。そんなわけで、私がシャルリュス氏の表戸口の呼鈴を鳴らしたのは、もうこれ以上馬車のなかで、それも声を高めてしゃべることによって話相手がいないのをやっとごまかしていた馬車のなかで、これ以上長くは自分ひとりで話の圧力に堪えきれないという、そんなはげしいいらだちをもってであったし、
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈5 第3篇〉ゲルマントのほう 2』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.428,429
こういうところで僕は小説を読む喜びを覚えがちで「えっ!? 今、ずうっと声に出してしゃべっていたの!?」となると大きな喜びがある。それは笑っちゃう面白さとはまた別で小説にしかできない時間の操作という感じがあって言葉はいつだって遅れてくるその遅さのみがつくりだせる面白さだ。
6月11日(土)
開店の時間になって店を始める。なだらかな始まりだと思って途中途中でデータポータルにタッチしたりもしていたがそのタッチというのは本当に隙間に、改札のところでパスモをピッとやるようなあんなタッチで、実際はひっきりなしに動き続けていた。インターンの戸塚さんは気づいたら戦力みたいな感じでしっかり動いていてこれが成長というものかと嬉しくなるというか人が何かをできるようになるというのはなんであれ面白いものだ。だから二人で協力しながら延々と動き、5時で戸塚さんが帰って6時に水澤さんがやってきてそこからもがんばった。今日も店の時間は楽しい、いい時間だった。昨日とかからまたドリップバッグが賞味期限が迫ってきてしまったのでなくすためにお客さんにあげちゃうということをやっていて、みんないい顔をして受け取ってくれるのでやっぱり嬉しい。
6月12日(日)
珈琲館。僕はiPadを出してダッシュボードページの再考のためにノートを書いている。ダッシュボードに要素が多すぎる。もっとシンプルに目標値がわかるものであるべきだ。細かい推移とかはまた別のページに譲ればいいのだから、と思ってのことだった。ダッシュボードは各項目の目標値と、進捗の度合いを表す色付きの円のゲージだけ、とかが一番いいかもしれない。遊ちゃんは1時間くらいすると「コオロギを食べてくる」と言って出ていった、浅草橋までコオロギを食べに行くらしい、僕は類を見ない熱心さでデータポータルいじりを続けていってダッシュボードのリメイクが済んで下北沢レポートが完成したのが何時ごろだったか、遊ちゃんはコオロギを食べそこねた、行ってみたら予約でいっぱいで入れなかったそうだ、僕は7時ごろにコーヒーのおかわりをして珍しいこともあるものだ、遊ちゃんが自分が飲んだアイスコーヒーの代金を机に置いていったのを見て、なんとなくその金が僕の滞在をサポートしてくれる気がして気が大きくなったのかもしれない、このお金でもう一杯コーヒーを飲める、というような。とんだ勘違いだ。いやそうとも言い切れないのではないか。これはありうる話かもしれない。つまり遊ちゃんのお金で僕はもう一杯のコーヒーを注文し、遊ちゃんが飲んだ分は僕がおごってあげる、というような。