抜粋
5月30日(月)
昼過ぎの珈琲館はやはり混んでいるらしく4組くらいの待ちがあって少し待った。待っていると常連どうしが鉢合わせて挨拶をしている場面に立ち会って「一人になりたくて仕方がないんだよ」と呟いていた。出会い頭にこれはどういう会話なんだろうか。銭湯もそうだけど常連たちの連帯はいろいろなところで生じるようだ。主みたいな人もいるのだろう。館の主。
僕が通されたのは奥の隅の席でこの席に通されることがけっこう多い。たくさんある席の中で同じ席に通される確率なんてそう高くなさそうなものだがもう3度目くらいな気がする。60%くらいの確率で通されている気がする。もしかして「あいつはあそこに押し込んでおこう」みたいなそういう何かなのかもしれなくて、こういうことを繰り返しているうちに僕も珈琲館に棲息する主になってしまうのかもしれない。おそろしいことだ。
5月31日(火)
8時起床、遊ちゃんと一緒に家を出て雨が降っていたので傘を差した。電車に乗って鷲田清一、和辻哲郎、アドルノ、柄谷行人。生活の言葉。SEALDsは政治を生活の言葉で語ったところを高橋源一郎は評価した、それは哲学を生活の言葉で語った鷲田清一を評価したのと同じムーブ。第4章のタイトルは「平成の転向者たち」。
笹塚で乗り換えると遊ちゃんとさっき僕たちの前にいた人が読んでいた本の話をしてちょっと面白そうだったね。あとで遊ちゃんが調べたところ『平成転向論 SEALDs 鷲田清一 谷川雁』という本だそうだ。人が本を読んでいる姿というのはいいよなあ、というこの素朴な感覚はずっと消えないし薄くもならないなあ、と思う。
6月1日(水)
それでスーパーに寄って「AIKOCHAN」という名前のサバ缶を調達すると鍼灸院に行きぐりぐり指圧を受ける。胸鎖乳突筋が固くなると呼吸しづらくなるとのことで、あと肩の前のところが凝ると肺が狭くなってやっぱり呼吸しづらくなるとのことで、呼吸しやすいのがいいなと思う。
帰り道で『マネジメント』の上巻を読み終える。中巻はまだ買っていない。明日はなんの本を持っていこう。電車は混んでいて千歳烏山の停車時に一度ホームに出、降車の人を待っていると最後の人の頭のあたりから帽子が落ちて「あ」と思ったらホームと電車の隙間にすっかり落ちてしまった。「あ、落ちちゃいました」とその人に言うと「え、何が落ちました」と慌てたふうで、「あ、帽子が」と言ったら落ち着きを取り戻し、なんだ帽子ならいいや、という感じで歩いて行った。帽子ならいいのか。僕だったら完全なパニックになりそうだ。
6月2日(木)
エアビーで2泊。僕はもともとはカレーかなと思っていた。調理道具はあるのだろう、調味料とかはきっとないだろう、この条件下で何かをつくらなければいけないとき人はいったい何をつくるか。それを考えたときにカレーなら具とルーだけあればできあがるわけで、なるほどキャンプとか合宿とかでやたらカレーがつくられるのはこういうことなんだなと深い得心があった。
しかし大地は今日ぜひともバーベキューをしたいらしく、あと燻製するやつもあるから燻製もやりたい。僕はどちらも及び腰で、大地も僕もまったくそういうことに明るくない、なんの道具があればいいのかもわからない、何より片づけとかがとても大変そうじゃないか、人様の道具をきちんとした状態に戻してお返しすることが僕らにできるのか想像もつかない、そういうあたりで及び腰だったのだが何事も経験でしょうと大地がずいぶん楽観的だしとにかくバーベキューをしたいみたいなので乗ることにした。それでヨークベニマルに行くと広大だ、店に入ると最初に広がっていたのは衣類のコーナーでやたら広い。食料品売り場はずうっと向こうだ。途中でキャンプコーナーがあって炭と着火剤みたいなやつとスモークのチップを調達。それから野菜、肉、パン、酒と買い込む。肉の量とか全然わからないというか、考えてみたら焼き肉とかを食べに行ったときグラムとかでは考えないから自分がどのくらいの量の肉を食べるのかまるでわからず、だけど少なすぎてもというところで合計600グラムくらいの肉を買ったが果たしてどのくらい食べることになるのか。というか、2日間の合宿、これはフヅクエ作戦会議合宿だったはずだけど、なんだこれ、ウキウキバーベキュー大会になるのか!?
6月3日(金)
僕はシャワーは明日にすることにして歯を磨くと布団に入りプルースト。プルーストは開いた瞬間が一番おもしろいのかもしれない、ゲルマント公爵夫人は「陛下」について話していて陛下のことは「めずらしいかたというふうに見てとりました」。
ただの単純なかたと見てとったのではないんですのよ! むしろ何かおもしろいものをおもちのかた、たとえばみどり色のカーネーションのように、《つくりだされた》(と彼女は、この語を切りはなしながらいった)ものをおもちのかた、つまり、私をびっくりさせるのだけれど、いつまでも私をたのしませてはくれないもの、よくもつくりだすことができたとびっくりするようなものなのだけれど、むしろつくりだされないほうがよかったと私に見てとれるもの、そういうものをおもちのかた。
マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈5 第3篇〉ゲルマントのほう 2』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.382
いったいどういうかたなんだ!
6月4日(土)
僕は昨日の合宿を踏まえて数字のモニタリングのための下ごしらえみたいなことを延々とやっていてウィークリーで目標と実績と差分を出していくためには、というのであれやこれやとパチパチやっている。やりながら、こういう作業はこれまでも何度もやっては頓挫し、やっては頓挫しを繰り返してきたやつだな、と思う。いま必要なのは立派なスプレッドシートとかではなくてその目標を強く意識するためのもので、「でもそれもきれいなのがいいんだよなあ!」となってすぐに凝っていこうとする。もちろんそれだけではなくていかに毎週効率よく数字を取りにいけるようにするかも大きくあるから、やるべき下ごしらえはけっこうたくさんある。疲れるしどっぷりとハマる。
ときどきリアルタイムで売上を見たり予約状況を見たりしながら過ごし、今日は初台も下北沢も忙しそうだ、うれしい、というか下北沢のテイクアウトが明らかに伸びている気がする、「明らか」なのか「気がする」なのか、ここが数字への意識の低さの表れだ。とにかくうれしい。
6月5日(日)
それで開けた店はめちゃくちゃ忙しいわけでもないがずうっとオーダーがあって、それもご飯ものがひたすら続いたのでけっこうヘビーな動きになった。休日、この場所で本を読んで過ごす人たちを見ながら、フヅクエがしたいことは誰かの時間を祝福すること、祝福された時間を過ごしてもらうこと、そういうことなんだよなと思う。大地と話しながら「野蛮さ」を言い換えた逆の極は「自分らしくある」みたいなことだとなったのだけど言い換えのその中間くらいに「祝福された時間」というのがあるかもしれない。自分らしく野蛮にあれる、祝福された時間。