抜粋
5月16日(月)
餃子を食べたいと思いながら家に帰り、遊ちゃんとスーパーの前で待ち合わせた。麻婆茄子、と思っていた。そして新機軸というかチャレンジだ、シーズニングコーナーみたいなところでクックドゥみたいなものを買ってみてそれでつくってみる麻婆、と思っていたのだけどいざそういうものの前に立ってパッケージを見てそして原材料を見るとポークエキスとか酵母エキスとか、エキスが嫌だというわけではないのだけど何もこんな複雑にせずとも、と思うとこれでつくってみたい気持ちが失せていくのを感じて代わりに甜麺醤を買った。家に豆板醤はあったはずでそこに甜麺醤があればもう十分に麻婆になるんじゃないかというところ。花椒のことはすっかり忘れていた。だからそれで茄子とかを買って帰り、僕はビールを飲んで遊ちゃんは本搾りを飲んでいる。まだ料理をする気にはならないみたいで部屋でダラダラしている。遊ちゃんとまたコンビニに行ってビールと本搾りを買う。それからやっと料理を始めて麻婆茄子だけど玉ねぎもキャベツも入れて具だくさんだ。おいしくできた。
5月17日(火)
今日は家。9時過ぎに起きて9時半から太田さんと打ち合わせ。11時に終わってご飯。食べたら眠くなって獅子田さんの何かが乗り移ってしまったのだろうか。遊ちゃんがどこかに出掛けていった。外は肌寒い。お礼のメールに1時間掛かる。3時ごろ疲れて1時間昼寝。起きてから仕事をするが今日はダメな感じ。今日は何一つフヅクエに価値をもたらせていないという感覚。サボりという感覚。でもみんながフヅクエに価値をもたらしている。見かけたツイートで下北沢でテイクアウトをして外でレモネードを飲んでいたら子がぐずり始めたのでミルクを冷ましたいと右往左往していたら店の人が出てきて声を掛けてくれて哺乳瓶を冷まして氷水までくれてそのホスピタリティに感動したというのを見かけて感動。普通に親切をする、みたいなことは僕はすごく大事な姿勢だと思っていてこれはまさにそういうことでとてもうれしくなる。誇らしい気持ちになる。でも僕は何もダメでぼんやり仕事をしながら時間が過ぎていく。
5月18日(水)
それで10時頃にボーナストラックに着いて店に入ると中にはマキノさん榮山さん太田さんと3人もいてびっくりする。1on1on1をやっているところのようで僕はアイスコーヒーを淹れた。淹れていると向こうからいま話していたのだけど先月書いていた接客の心得的なページのところのどこにも「笑顔」という言葉がないのがフヅクエらしくていいなと思ったんだけどこれは何か意図があるんですかと言われて笑顔というの考えたことがなかったというか「普通に人間としている」がフヅクエの接客の芯で、そこにもし「だけど笑顔で」とあったらまったくひどい欺瞞だ。僕は笑顔を無理強いすることなんて不可能だと思っているし笑顔というのは笑いたいときに浮かべるものだ。普通にいられたら笑いたくなったら笑うものだ。大学のときに映画サークルのワークショップに出たことがあってそこで笑うことを強いられて僕はまったく笑えなかった。がんばって笑おうとするとひたすら顔がひきつって泣き笑いみたいな顔にしかならない。あれはけっこう印象に残っているしそうじゃない場面でも僕は笑わなければいけないと思った途端にいつも苦しい。笑顔をつくることがめちゃくちゃ苦手だし恐怖だ。だから笑えなんて絶対に言わないしとにかく普通にいてもらってその中で笑いたくなったら笑うのが何よりだ、そのときの笑顔にこそ価値がある、そういう笑顔こそがちゃんと伝わると思っている、まあ柔らかい顔はしていてはほしいのだけど。でもそれはこちらの仕事で柔らかくいられるようにサポートをするのが僕の務めだ。ということをアイスコーヒーを淹れながら話して大きなグラスにたっぷりつくった。
5月19日(木)
昼食のあとぽーっとしながらツイッターを見ていたらジャン=ピエール・レオーが出てきてカンヌで『ママと娼婦』が4Kリストア版というやつで上映されて上映後にレオーがあいさつをした。レオー老人は紙を見ながらよたよたと話すのだが最後の最後に「Putain!」と大きな力強い声で言ってそれはよく知ったレオーの声でよく知ったレオーの目だった。そのあとレオーのキャリアをまとめたみたいな10分くらいの動画を見て僕は本当にこの人が好きだ。見ているとずうっとときめく。すごく幸せな気持ちになる。嬉しくて泣きそうになる。レオーは常に真剣で常にチャーミングだ。最高の存在。
「どうしてジャン=ピエール・レオーにこんなにときめくんだろう?」
そうつぶやきながら廊下を歩いていたら遊ちゃんが部屋から出てきて「何?」と聞いてきて表情も声音もどこか心配そうだ。「え、いま俺が言ってたこと?」と聞くと「そう」と言うから「どうしてジャン=ピエール・レオーにこんなにときめくんだろう? って言ってた」と言った。
5月20日(金)
遊ちゃんは布団では『長い一日』を大事そうに少しずつ読んでいて読み終わるのがもったいないらしい。だから最近は並行して『死んでいない者』も読み始めた。僕も小説を読みたいなあと思うのだけど今日はどういう気分なんだろうか、帰ってからも『森は考える』を熱心に読んでいてだんだん頭がついていかなくなる。序文の第一章では何を書いて第二章では何を書いてというところを読んでいたら難しいし長いし難しいのが長いしこういうところで頓挫しちゃいそうだから、飛ばして第一章を始めることにした。序文のその章の説明はその章を読んでいるときとか読んだあととかに戻ってきたら「あーこういうこと書いてたのか」みたいにわかっていいかもしれない。今日内沼さんと話しているときに『マネジメント』の話になって内沼さんはかつてそれが流行ったときに『もしドラ』を読んだらしく、それで僕は『もしドラ』は『マネジメント』を読んだあとに読んだらいいかもしれないと思って『マネジメント』を読んだあとだったら「あーやっぱりここが大事ポイントなのか」みたいなのが見えてきそうでそういう使い方にはもってこいなのかもしれない。
5月21日(土)
夕方になるとトントンとお客さんが続いて野口さんは5時上がりだったがそこらへんでやっと始まったという感じだった、5時からは川又さんで川又さんのカバンから文芸誌的な厚みの本が覗いていたので見たら『小説 野性時代』だった、野口さんは暇なときにスマホで電子書籍で何かを読んでいたらしくオーダーがあって動いていたら置かれたスマホにページが表示されていたのが見えたので僕も1ページ読んだ、そのあと野口さんはお客さんが返す場所がわからなくてと渡してきた『蹴りたい背中』を少し読んでいた、昨日下北沢で見かけた山口くんが持っていた本は『NSA』というハヤカワ文庫SFだった。なんというか仕事のすぐ横に本があるというのはいいよなあ、と思う。夜、会計後のお客さんが本棚をゆっくり見ていてその中で『収容所のプルースト』に目を留めて、何か気になったのかメモをしているのを見ながら、「その本はねえ、めちゃくちゃいいんですよねえ」と思って僕はこの本が大好きだった。この本は人に薦めたくなる感覚がけっこう強くあってついプッシュしたくなる、だから本棚の検分が済んで出ていくタイミングで「あの本めっちゃ面白いですよ」と伝えた、それは人によっては余計なコミュニケーションかもしれないけれど、まあそうなったらそうなったでドンマイなのだけれど、ここで大事なのは僕が「あれはめっちゃいいんだよな〜」とニコニコ思っていたということで、スタッフたちの本を見たり自分のおこないを見たりしながら改めて、この店で働く上でまず何よりも大切なのは読書が好きということだな、と思う。その気持ちがなくてもできることではあろうけれど、それがあればもっとずっと簡単にシンプルに本を読んで過ごしている人の時間を本当に「いいね〜」と思える、敬意を払える。僕たちが「いいね〜」と思えたり敬意を払えたりしなかったら、簡単に機能だけの冷たい場所になっていっちゃう。
5月22日(日)
結局どのくらい走ったのか、ここがそこだという広い駐車場に着いて少年自然の家がある。雨はちょうどやんでいるが油断はできない空模様。駐車場のトイレの脇から道が遊歩道が始まっていて看板があってツツジ群落とあって英語の案内には「azalea cluster」とあった。アザレア。『失われた時を求めて』で馬車でスワンがオデットだっけ、誰だっけ、スワンが花を渡す、それを合図に、という場面を思い出してあのときの花はアザレアだっただろうか。違う気がする。とにかくそこを歩き始めていつザーッと来るかもわからないから常に引き返すつもりで歩いた。少し行くとツツジは見事に咲いていて、たっぷり咲いていて、そしていろいろな種類があった。白で縁取られて内側がピンクのやつとか色がくすんでいるやつとか、花の形も多様だった。ここはもともと馬とか牛とかを歩かせるところだったらしくツツジは毒か何かを持っているから馬とか牛とかはツツジは避けて他のものを食べる。それでツツジだけが残ってこの群落になっていった、と母が説明した、あとで見た看板にもそう書いてあった。ぐるっと一周歩いて前半は空は開けている感じだったが後半は木々に覆われていて気持ちがよかった。この土地はすごく気持ちがいいなと思いながら歩いていた。