抜粋
5月2日(月)
平日と休日の半々くらいの気持ちで店を開けると最初に来られた方はジンのソーダ割で次に来られた方はシャンディガフを頼んで、開放的な気持ちというか、休みで、昼から酒を飲みながらあの本をしこたま読むぞというそういう気分を感じるオーダーで、勝手にその明るい心地のおすそ分けを受け取るような感じで僕はうららかになった。それで最初は座ったり立ったり余裕を持って動いていたが2時には満席になってこれはもう完全に休日なんだなと知る。忙しく働きながら
「やったー!」
と考えている自分がいてウケた。やったー! ってw そのままそこそこ大変な時間が続いて5時前にやってきた水澤さんを見ると「助かった」と感じる、目が回るようだった、そこからは二人でぐんぐん働く。食材の配達とかお酒の配達とかがいつもよりもずっと遅くにやってきて、今日は注文が目いっぱいで大変な日なんだろうなと思う。ここから休日が続く。
5月3日(火)
今日は遅い時間になってもお客さんが続いて素晴らしい時間が流れているな。俺はうれしい。何時ごろだったか、出、帰る。ドラッカーはこうも言っている。「もちろん利益だけが企業の責任ではない。しかし、利益を生まない企業は託された資源を毀損し、経済の発展能力を損なっているにすぎない。とうてい社会の負託に応えているとはいえない」。
企業には最低限あげるべき利益というものがある。それは自らの将来のリスクをカバーし、事業を継続していくために必要とされる利益である。この最低の利益というものが、企業のあらゆる決定と行動の条件となっていなければならない。マネジメントたる者は、この最低限の利益以上の利益を目標および尺度として設定しなければならない。
それでは、企業をマネジメントするということは何か。
企業の活動とは、マーケティングとイノベーションによる顧客の創造である。したがって、企業をマネジメントするということは企業家的な活動である。もちろん企業をマネジメントするためには、管理的な活動も必要である。しかし、それは企業家的な目標に従うものである。組織は戦略に従う。
したがって、企業をマネジメントするということは、適応的な仕事ではなく創造的な活動である。マネジメントとは、受け身的に適応することではなく、創造的に変革することである。
P・F・ドラッカー『マネジメント(上) 課題、責任、実践』(上田惇生訳、ダイヤモンド社)p.90
今日は初台だけでなく下北沢も西荻窪も忙しかったみたいで明るい心地だ、それも手伝ってここを読みながら、そうだ、絶対に利益を上げなければいけないんだ、上げてやるんだ、そしてどんどんいい店にしていくんだ、みたいな前向きなことを思っていて単純な人間でよかった。
5月4日(水)
マキノさんが上がる8時になって戻ってくるとそのあとも大忙しだったみたいですでに大変なお客さん数だ。昨日は夜もコンスタントにお客さんがあったから今日もそうなればずいぶんな数になるぞと思ったが、そのあとはぱったりと途絶え、それで10時くらいだったかもう少し後だったか、山口くんと『違国日記』の話をしてから店を出た。『違国日記』のセリフは本当にすごいよねえと話してたくさんの印象的な言葉があるが例えば「事業の定義が明確に理解されない限り、いかなる企業といえども成り行きに左右されることになる。自らが何であり、自らの価値、主義、信条が何であるかを知らなければ、自らを変えることはできない」という言葉なんかもそうだ。
5月5日(木)
それでうどんを食べると布団にごろんして『違国日記』の続きを読む。僕はえみり絡みに感動しやすいのか、槙生がえみりに紅茶を選ばせるところとか、えみりが槙生にふと相談を始めるところとかでぐっと感動する。そしてえみりが刺繍に没頭するところにもすごく感動する。それで昼寝する。
起きると、というか遊ちゃんに起こしてもらうと5時半前で、家を出ててくてく歩く。焼肉屋さんは外でいくらか待ちができていて、軒先のベンチに座って待ちながらやっぱりスマホも楽天にしようかなと考えている、と僕は話した。今はスマホとポケットWiFiの両方の通信量を気にしながら暮らしている感じになってしまってなんだか気持ちが悪い。それにやっぱり山に行かないし行くなら行くときに考えたらいい。
5月6日(金)
店を開けて今日は平日だが2日が忙しかったことを考えると今日も休日だと思って構える、しかしスタートはのんびりしたもので最初に来られた方がサンドイッチを食べると厨房のほうに寄ってきてスマホの画面を僕に見せた。見ると『三体』の何かを持ってきたつもりが持ってきたやつが違う部のやつで、なので抜けて本屋さんに行ってきていいでしょうかという内容で、もちろんどうぞいってらっしゃいと言ってから待てよ、『三体』はここにもあったんじゃないかと思って改めて画面を見ると持ってきちゃったのは第一部で読みたかったのは第二部ということが知れてここにあるとしたら第一部だ、それで「あ、二部か」と言うと「二部なんです」と返ってきてそれでその方は店を出て行った。そのあとしばらくこのコミュニケーションを反芻していて、なんか、いいやり取りだったな、と思っていた。超有名作品だからどこであっても『三体』と言えば通じるのかもしれないが、でもこの場所じゃなかったらわざわざ『三体』という言葉を出して彼女は説明しただろうか、と思うと、なんというのか、臆することなくその固有名詞を出すことができて、そして店員はその固有名詞をスムースに受け取って、そして「あ、二部か」「二部なんです」というやり取りが通って、というのは、何かここにはのびのびした清々しい何かがある気がして嬉しい気持ちになった。でもそのあとコーヒーを淹れたり定食を用意したり洗い物をしたりしながら、今書店に向かっているその方の気持ちを考えてみると、今日はがっつり二部を読むぞと思ってやってきたらかばんに入っていたのはまさかの一部で、せっかく、せっかく楽しみにしていたのに、なんてヘマをやらかしたんだ、せっかくの時間が過ぎ去っていく、なんて愚かなんだ、そういう焦燥と自己嫌悪みたいなものに襲われてしまわないか、完全に自分だったらそうなりそうというのを投影しているだけだがそう思うと残念というか、どうか明るい一日でありますように、と祈るような気持ちになっていった。
5月7日(土)
だから今日はさすになか卯、と思ったのだがなか卯に向かおうとした途端になか卯に行くことが億劫になってその理由はスマホを持っていないというところにあるらしかった。つまりせっかくなか卯に入ったところで、待つのはまだいい、ドラッカーを読めばいいから。でも、いざ食事が供されたら、いったい何を読みながら食べればいいと言うのか、というなんとも現代人的というのかそういう心配からなか卯は却下された。もちろんスマホがなくて野球の記事が読めなくても机にはきっと何かは置いてあるだろう、調味料の瓶とか、その裏とかを読んだらある程度は潰せるかもしれないけれど色気がないというかおもしろくない。そもそもなか卯の机にそういう文字を提供してくれるものがあったかも自信がないし。なのでおとなしく家に帰ることにして途中のスーパーでネギと豚肉としいたけと冷凍うどんを買って帰って煮込みうどんをつくるようだ。
5月8日(日)
それでサウナに入って今日はサウナはすぐに入れてじっと座ったり、人がいなくなったらストレッチをしたりしながら過ごす。サウナはぴったり静止していると何も感じなくなって、顔の位置とかをちょっと動かすと、あるいは深く呼吸をして顔の皮膚が微動して位置がずれると熱さを感じるようになっていてつまり止まっていると馴染んでしまって熱さも熱さとして感知しなくなるということらしい。サーフェスの位置が変わることで眠っていた知覚が起動する。メディウム、サブスタンス、表面。「ギブソンによれば、このようにしてメディウムは運動と知覚をアフォードする。他方、サブスタンスは他の二つに比べて相対的に抵抗がある」、2度サウナに入って気持ちがよかった。出て歩きながらもぐっと疲れが落ちたというか体の疲弊感が薄らいだ、ほとんど感じなくなった、そう実感する。温めるというのは大事なことだと実感する。