店主著書『本の読める場所を求めて』発売しました

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本の読める店フヅクエ店主であるところの阿久津隆の新著『本の読める場所を求めて』が、朝日出版社より発売されました。昨日くらいから書店に届きつつある模様です。
本の読める場所を求めて | 書籍 | 朝日出版社
『読書の日記』『読書の日記 本づくり スープとパン 重力の虹』に続いて、僕にとってこれは3冊目の本ですが、「何か伝えたいことがあってそれを伝えるために一冊の本になるだけのボリュームの文章を書いていく」ということはまったく初めての経験でした。
とにかくこれは大変だ、と思いながら取り組んだ1年間で、「著者っていう人、こんなことやってるのか、すごいわ」と思った。何度も何度も書き直し(入稿前夜まで大量に修正していた)、書き直すたびに少しずつしかし明らかに何かがよくなっていくのを実感しながら書き上げました。最初の打ち合わせが去年の7月だったのでちょうど1年間、編集者の平野麻美さん、綾女欣伸さん、仁科えいさんに伴走していただきました。がっつり手を入れていただきながら一冊分の文章を書いていくというのはだから初めてのことで、「編集者っていう人、すごいわ」とやはり何度も思った。
造本は有山達也さんと山本祐衣さんにしていただいた。ワクワクしながら待っていたら、すごくかっこいい本が出来上がっていた。装画・挿画は田渕正敏さんにお願いした。綾女さんに教わってウェブサイトを開いたら一目惚れをした。たくさん描いてくださり、挿画としても使わせていただいた(田淵さんが制作過程を書いてくださっている。こちら。)。本を見、手に取るたびに、鮮やかでかっこよくて笑ってしまう。
この本は、タイトルの通り、本の読める場所を求めてあれこれ考える本です。とっておきの、お楽しみの、これを読む時間を楽しみに生きてきたという、そういう本をさて読むぞというときに、それって一体どこでやったらいいんだろう? 家? あるいはカフェ? それとも? みたいな、それって読書の時間にとってはけっこう大切な問いだと思うのだけど、これまであまり真面目に考えられることのなかった領域であるような気がしています。「本なんて、どこでも読めるでしょ」という内なる声もある気がします。それは正しくもあり、しかし本当にそうかな、みたいな
ははは。ダメだな。本の紹介とか不得手なことトップ10に入ることなんですが、自著だったらできるかと思ったけどやっぱりダメですわね。ということで先日綾女さんが朝日出版社のメールマガジンに書いてくださっていた文章を引用して本の紹介とさせていただこうと思うのですが。
「ところで来月、スタッフたちと一緒に編集担当した本が発売されます。初台と下北沢で、「本の読める店」とうたう「fuzkue(フヅクエ)」を営む阿久津隆さんの新著、『本の読める場所を求めて』。
日々の読書の喜びを綴った浩瀚な『読書の日記』(1冊目は1000ページ超え!2冊目も700ページ弱)で知られる阿久津さんですが、今回の本は「本はあっても、落ち着いてゆっくり読める場所が街のどこにもないじゃないか!」と気づき、行く果てはそんな場所(店)を自分で作ってしまったその思考と実践をなぞる一冊です。安心の288ページ。
本の読める場所を求めて | 書籍 | 朝日出版社
しかし本は新刊だけで毎日200冊近くも出ているのに、みんな、いつ、どこで、どうやって読んでいるんだろう? という問いもその答えも考えてみれば、先ほどのカナぴょんの無知の知ツイートのごとく、真空です。自宅で夜、浅めのお風呂に浸りながら、という人もいれば、日中のドトールでないと読めない、という人もいる。音楽が流れていると読めない、という人もいれば、プログレをがんがん聴きながらページをめくる人もいる(おそらく)。布団の中うつ伏せになって読むのが至福な人もいる。
僕の場合はわりと自宅の机と椅子で律儀に派なのですが、みなさんはどうでしょうか。洗濯機を回しては干しコンビニにお使いに、などなにかと落ち着かない自宅を飛び出した阿久津さんは、ブックカフェを手始めに、カフェ、喫茶店、バー、パブ、図書館と「本の読める場所」を求めて街をさまよいます(それがほとんど小説のように、軽妙に語られます)。が、どこも確実な打率で読むことはできない。では、「じっくりゆっくり、心ゆくまで」本を読むためには、どんな条件が必要なんだろう――と、場の設計を考えることから「読書という行為」の本質が浮かび上がってくる。いわく、読書とは排他的で過剰に非生産的(あるいは生産的)なおこないゆえに「不気味な行為」である、と。
その先に、店づくりとともに展開される「読めるための条件」の話は、結婚式での聖書からの唐突な引用に異議を唱える阿久津さんが登場するくらいですから、いち読書論、本や本屋の話を超えて、「ともにある」ことはどのように尊重されるのか、と社会の公共性にまで広がっていきます。今回の世界的な自宅生活を経て再発見された「場」の持つ力、さらには「場」を超えたあらたな公共の可能性……へと考えは広がって、そして笑える。余韻あふれる素敵なイラストは田渕正敏さん、本の佇まいをデザインくださったのは有山達也さんと山本祐衣さん(アリヤマデザインストア)。俳優の片桐はいりさんに推薦文をいただき、帯の裏側には、本文から阿久津さんの言葉をこう引きました。
「ただ本があって、光さえあれば。だから僕たちはいつだってどこでだって本を読みたい。」
本の中で、阿久津さんが祖母の葬儀の際、火葬場の控え室で本を読んでいて、あとで親戚に「あれはないと思うよ」とたしなめられたというエピソードが出てきたので、ゲラのその箇所に「自分も大学で試験監督したときに本を読んでいたらあとで教務室に呼び出しくらいました」と書き入れたのですが、阿久津さんの赤字は「それは仕事を放棄していたからでは笑」と冷静。あ、そうか!と納得。はしたものの、昔、試験中に教壇を「本の読める場所」化して読書していた教授っていませんでしたか……?
とにかく、「本の読める店」fuzkueは初台店も下北沢店も、本をゆっくりなんの気兼ねもなく読めるとても素敵なお店なので、近隣の方はぜひ本を片手に夏の週末、いかがでしょうか(その本が『本の読める場所を求めて』だったらさらにうれしいです)。近隣でない方も、「#自宅フヅクエ」でいまツイッター上に広がる「本の読める場所」に参加できます。本は7月15日ごろから順次、本屋さんに並ぶ予定です。村上春樹さんの新著の横に置かれないかな……。」
ずいぶんおもしろそうな本だな!
というわけで、そんなわけなので、そんな感じです。
なんかこう、これ今年に入って2冊目の本ということで、なんか「え、飛ぶ鳥?」みたいな感じも一見するとあるな〜と思ったりもするんですが、阿久津先生これからも、どんどんあれですか、文筆ですか的な。でも、これはきっと(『読書の日記』シリーズを除いたら)最初で最後の本になるだろう。書けることはここで全部出し切ってしまった感じがするので。
(もし最後にならなかったとしたら、本書第3部でも今後のフヅクエの野望について書いているのですが、そこにあるように、フヅクエが今後すごいなんか成功とかを収めて、日本中、あちらこちらにフヅクエあるね〜、みたいな世界を実現できて、阿久津隆、ちょっと一目置かれる経営者、みたいな存在にでもなったときかだろうか)
そんなわけで、だからこれがなんかマスターピース的な、長く多くの人に読まれる本になったらいいなというか、これが「渾身」とか「入魂」とかというものか〜、というのをとても実感した、そんな本書を、ぜひというか、本を読む場所のこと、読む時間のこと、フヅクエのこと、そのあたりに興味を持つ方にはぜひ全員読んでいただけたらと思いますし、本という文脈に限らず、一から場をつくること、仕事をつくること、店を営むこと、欲望を真剣に眼差すこと、それを形にすること、そういうあたりの興味の方にも届くといいなと思っています。
こちらから目次と「はじめに」が読めます。
本の読める場所を求めて | 書籍 | 朝日出版社
とりあえず目次を見ていただいて、おもしろそうだったら、本屋さんにGOしてください。それで買ったら、カフェとか、喫茶店とか、酒場とか、図書館とか、家とか、あるいはフヅクエとか、いい場所で読んでみてください。