『若い藝術家の肖像』を読む(10) 幻のダブリン

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まだオフェイロンも序文しか読んでいないのだけど、ジョイスの唯一読んだことのある作品であるところの『ダブリン市民』を僕はいつ読んだんだっけなと、そしてそれは面白く読まれたのだっけなと、ふと気になった。
青山ブックセンターでうろうろしていたときに、ちくま、新潮、岩波の3つのバージョンを見かけたからで、それらはそれぞれタイトルが異なった。そしてどれも「ダブリン市民」ではなかった。
それで「俺が読んだあれはいったいなんだったんだ」と思って調べた。それがまずかった。
原題は『Dubliners』で、Wikipediaで見ると「ダブリンの人々」「ダブリン市井事」「ダブリン市民」「ダブリン人」「ダブリンの市民」「ダブリンの人びと」「ダブリナーズ」と実に7つのバリエーションがある。
訳自体はこれまで8つで、同タイトルを使っているのは1999年/集英社/高松雄一訳と2004年/岩波文庫/結城英雄訳の「ダブリンの市民」だけだ。同じタイトルにしたら負け、くらいの何かの原理が働いているとしか思えない異なり方だ。
僕が読んだのはどうやら1953年(2004年再版)/新潮文庫/安藤一郎訳のようで、そういえば新潮だったような気もしてきた。
ではいつ読んだか。僕は記録をつけることに至上の喜びを感じるタイプなので、見た映画や読んだ本なんかはエバーノートを検索すればだいたい一発で出てくるのだけど、見当たらない。
読んだというのは記憶違いなんだろうか。
『ダブリン市民』は短編集で、その中の「死者たち」みたいなタイトルのやつがたしか印象的だったはずだよな、と思って「ダブリン市民 死者」でググったら、やっぱり「死者たち」という短編がある。
所収の一編のタイトルまで認識できていて、読んでいないなんていうことがあるのだろうか。
でもどこにも見当たらない。
昔のブログとかでの言及も調べたが出てこない。「ダブリン市民」というワードは2箇所で該当したが、読んだという書き方はどこにもされていない。学生時代、3日に2回くらいの感じでヘビーに更新していたから、長い短編集であればどこからしらで必ず書いていそうなものなのだけど、ない。どういうことなのだろうか。
幻のダブリン市民。
ところで『ダブリン市民』を調べるためにWikipediaを見たわけだけど、そこで『ダブリン市民』というのがジョイスの初期の作品集で、1905年とか08年とか、そういう年代に書かれた、ということを見てしまった。つまり『若い藝術家の肖像』はそれよりも後だろうから、1920年とかそういう感じだったりするのかな、ということがわかってしまった。1880年とかかな、思っていたのだけど、1920年とかなのかな、という感じになった。知らないまま読み始めたかった気がする。
迂闊に検索するもんじゃないな、と思いました。
(写真はダブリンの様子)
photo by Collin Key