ラッパーのS.L.A.C.Kがものすごく大好きで来月のUNITのやつがとても楽しみなんだけど、アルノー・デプレシャンの『ジミーとジョルジュ』を見てスラックの「子供の頃」という曲を思い出した。「あいつは変わった」というフレーズがあるため。というかその部分だけを思い出した。
デプレシャンはものすごく大好きな映画監督でフランスの方で。「ものすごく大好き」を安売りしてはいないか?という疑問を惹起しそうだけどそれは違って、スラックもデプレシャンも特別に大好きな存在なので連呼されるのはしょうがない。
デプレシャンは、だからものすごく大好きな監督で、特に『キングス&クイーン』は何度も映画館で見たしDVDも買って何度も見たしDVDは失くしたし、というくらいに大好きな作品で、去年の夏の工事の時分にも「いや今いくタイミングじゃないっしょ」と思いつつ工事を早く切り上げて新百合ヶ丘まで見に行ったり、大好きで、「もう人生の全部がこの映画にありますわ」とか大げさなことを言いたくなるくらい、大好きで、他のも大好きで、『二十歳の死』とか、50分の中編でなんでこんなに全部が全部こうガーッと伝わってくるわけ?という、大好きで、
さてここまでで「大好き」は何回出てきたでしょうか。知らないし数える気もないんですけど、『ジミーとジョルジュ』はデプレシャンが初めてアメリカを舞台にして撮った作品で、いい映画なんだよなこれは、と思いながら、「違うんだ…デプレシャンに俺が期待しているのはこれじゃないんだ、フランス人がフランス語でぴーぴー言いながらなんかすごいミクスチャーな感じの、わ、全部ある、ってやつなんだ…」とか思っちゃって、感動とかには至らなくて。
で、自分のその表面的な映画の見方に対して貧しさ以外は感じないのだけど、だから根本的とか本質的とか、それぞれそんなものが存在するのかは知らないしそういったたぐいのものは変わっていないのかもしれないけど僕にはわからなくて、でも、あいつは変わるんだよ、というのは肝に銘じるべきことだ、と思った、ということが今書かれつつある。
何かに対し、誰かに対し、僕らはイメージを作り、そのイメージ通りにあるように期待するようにたぶん人間はできているんじゃないか。でも、あいつは変わるんだよ、というのは大事で、あいつは変わるし、あいつは変わるべきなんだよ、あいつが思うように、あいつが信じる方向に、と、それは本当に、受け手である僕らは考えておくべきだろう。
形作られたイメージや評価にとらわれて自由を失うのは本末が転倒で、それは停滞でしかないはずで、あいつはあいつが思うように、あいつがそのときに「これだ」と思うところへあいつの人生なり表現活動なりの舵を切るべきで、僕は「あいつは変わった…」じゃなくて「あいつは変わった!」と受け入れたい。少なくても頭ではそう考えられるようにありたい。
フヅクエは今こういう感じでやっていて、そして今の僕はこのあり方を信じ切ってさえいるのだけど(まあまだ始まりだし)、それだって、僕の気分や、思想や、人生のステージや、あるいは経営に対する考え方や、他の何かや、そういうものの変化にともなって変わっていくのかもしれない。自分に対する欺瞞さえなければそれはどんどんあっていいことだろうとも思っている。そして何かを変化させたときに、できうる限りの人にその真意を説得的に伝えられるようにしたい。豊かな変節の身振りを演じていきたい。
『ジミーとジョルジュ』を見て、あれこれ思って、そう思った。