道が濡れ傘がひらき車が軽微なしぶきをあげる。その音が聞こえる。雨が降っている。とても寒い。
こんな日はどこかに行こうみたいな気にも到底なれないし、必要な買い物すら「まあ明日」という気に平気でなって、人間までじっとりと湿ったようになってしまう。雨が嫌いなわけではないけど二日続くと「どうもよくないことだ」という気になってくる。
こういう日に、フヅクエみたいな場所で、もう諦めモードというか観念しましたモードでいつまでも時間を過ごすみたいな身の処し方はすごくいいだろうなと思う。
学校の5時間目くらいの、妙な明るさをまとった雲から雨がザーザーと校庭に落ち続けて、お手上げ、教室は宇宙船、乗組員は運命共同体、みたいな諦めの、ちょっと華やいだあのモード。『台風クラブ』を思い出す。踊りだす。飛びおりる。そういうやつ。
だから、「来なよ、フヅクエ、こういう日にこそ、いいと思うよ!」みたいな、カモンジョイナスという感じの気分ではあるんですが、でも外出とかしたくないよなこんな日に、と思っていたらカモンジョイナスに応じてくれたのか、存外にお客さんが来てくれていて、くださっていて、そして外の雨も相まってなのかいつも以上に静かさを感じるすごい穏やかな時間が流れていて「やっぱこれすげーな」とか改めて思っている夜7時過ぎ。雨はやみつつあるか。
いま町田宗鳳の『エロスの国・熊野』という、たぶん熊野信仰について書かれているっぽい本を読みつつあって、最初の方で「熊野」の語源が説明されている。熊がたくさん出るとか、「クマ=神」だとか「クマ=隈」だとかあるいは「クマ=カムイ」だとか諸説あるようだが、その一つがこれで。
「「熊」を「隠る(こもる)」の意に理解すると、熊野という言葉は樹木が鬱蒼と「隠りなす所」、神が潜む「神奈備の御室」、死霊がひそんだりする「隠り野」などを意味することになる」(P54)
とあり、総じて「隠国(こもりく)」という話らしい。
隠国。響きといい、字の雰囲気といい、いい言葉だな、と思った次第であり、また、今晩のフヅクエの雰囲気は、まさに隠国っていう感じがしてよいなーと。
追放と復活の契機となるポイントとして熊野という場所はあったらしい。スサノオしかり小栗判官しかりで。フヅクエもまた、そこを経て、何かがジワジワと復活するような場になれば超幸いだなと。
それにしてもスサノオのところで『古事記』とかについてわりと書かれているのだけど、『古事記』めちゃくちゃ面白そうだなと思いました。いいタイミングだし、池澤夏樹訳のやつ読んでみようかな。