昨日「消費!」ということを書いたけれども、今日ちょうどタイミングよくこちらの記事を読んで。
刺激と不幸を求めてしまうのはなぜ? 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 - (チェコ好き)の日記
浪費という言葉っていいニュアンスのものではないと思っていたのだけど、記号や情報を受け取るものとしての「消費」に対して、そのもの自体を受け取る浪費、とのことで、まさになーというか、消費はこわいなー、浪費されてーなー、とこれ読んで思ったのでした。
とは言え、昨日書いて更新して、うーん、どうなんだろうこういう書き方は、と思わないでもなくて、どれどれ的な、消費として来店をしようとする方にとっての敷居みたいなものを上げる振る舞いなんじゃないのかと思い、それはそれでどうなんだろうというか。
いったん来ていただいて、それで次があるのかないのか判断してもらえばいいだけのことではないのか。95%を怖がることで、5%になりうる人の足さえも遠のけてはいないか。
ちょうど先日友達からも指摘された。ブログやSNSの投稿を見ていると安易には来てほしくないようにすら感じる、構えてしまう、と。僕としてはそういうつもりはまるでなかっただけに「それ多くの人に感じられていたら大失敗ですわー振る舞い」と思ってややうろたえた。それはやっぱり全然本意じゃなくて。
いやどうなんだろう。小さい店だし、変な消費、ディスリスペクトな感じの消費のされ方をしたら一気にダメな感じになっちゃいそうという怖さは実際にあるのである種の物事に対して警戒しているというのは確かにある。でもそのふるいみたいなものさえ通ったらあとは「とりあえず来てください」という気分ではあって、そもそも一回目の来店なんてよほどのブランドみたいなものが確立されなければどうしたって「どれどれ」になるだろうし、お前は見ず知らずの人々にも尊重されたいのか、いったいどの口がぬかしているのか。
いや本当にそうか。尊重を欲するのは自然ではないか。個人店なんて矜持があればこそではないか。矜持があるならばなんでもいいなんてことにはなりえないではないか。場所にとって好ましくないものを排除していこうとすることは当然の振る舞いではないか。
なんの話だっけ。排除とか強い言葉が出てきたけど、そんな振る舞いしてたっけ、と我ながら。
なんかこう、排除って思われたら嫌だなと、そんなつもりではないんですよというか、たぶん僕がインターネットを通してしたいと思っているのは接点を打っていくことというか、こうやって毎日のように、そう多岐に渡る話題ではないけれどもあれこれを書くことで、打たれていった点のどれかに触れた方に「もしかして?」であるとか「こここそが?」であるとか「それということですか?」であるとかを思ってもらえたら超ラッキーみたいな、そういうことじゃないかと。
1mmとかでいいから共感や期待を持ってこの場所を目指し、そんでもって消費の時間でなく浪費の時間を過ごす方が一人でも多いといいな、そういう方を一人でも多くするべくあーだこーだ日々言葉を連ねています、という感じ、でしょうか、しかしいったいなんの話だったか。