「本の読める店」になった

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なった、と言ってもなにか仕組みであるとかやり方であるとかが変わるわけでは一切なくて、本読む以外は禁止ねみたいなそんなことになるわけでももちろんなくて、変わらずフヅクエは一人の時間を静かな環境でゆっくり過ごしたい方に開かれた場所としてあるわけなのだけど、このたびフヅクエは名実ともに「本の読める店」になったというか、実のほうはこれまでもこれからも変わらず「本の読める店」で、名のほう、自称というか呼称というか拡張子、が変わった。
拡張子。これまでは「これはなんの店ですか?」「あの、一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店、です」「え、なんですか、カフェですか、ブックカフェですか?」「いや、ちょっと違うというかあの、なんかまあ的なものです、本読める的な」みたいな感じだったところを、これからは「本の読める店です」「え、ブックカフェですか?」「本の読める店です」になった。
今回、看板やショップカードやWebのタイトルやトップページ、ディスクリプションとか、SNSのプロフィールとか、全部を 「本の読める店」で統一した。
なんだそれだけかという、書いてみると小さな変化なのだけど、じわじわと僕のなかでインパクトが大きくなっていって、いったんそうなってみたらそれ以外はありえないというか、「なんでこれまでそうじゃなかったんだろう…!」という気になった。ぴったりハマったというか、これまでこれではなかったことが気持ち悪くなるというか理解ができないというかどうしてそれでいられたんだろうと違和感を覚える程度にぴったりハマった。(何かを変更したときに以前の状態に対して「無理、受け付けない」と思うことはこれまでも何度もあることだった)
今、そのあとをぐねぐねと書いていたら、考えがぐねぐねしすぎてわからなくなって、それからまたしばらく考えていたらわかってしまった。のが以下に書かれるのだけど。書かれるのは、どうして今までこのことに気づかなかったんだ! ということです。ビフォーと、アフターの、大きな違い。
これまでは、「本当に嘘なく当たり外れなく心地よく本を読める店ってどういうものだろう」ということをいっしょけんめい考えたその答えが「一人で過ごせて、ゆっくり過ごせて、静かに過ごせる場所なら本が読める」というものだったため、「一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店」を標榜していたのだけど、そしてそれを完全に完璧な名乗りだと思っていたのだけど(長い以外は)、これ、お客さん視点で考えると、「一人の時間をゆっくり過ごせる静かな店? 本読みたいのだけど、それができる系ってことかな?」みたいになって、入って、あるいはWeb見て、「はいはいはいはいなるほどこれは本が読めますね〜!www」だった。つまり本がたしかに読めるかどうかということについては教えてくれない言葉だった。もう一歩いった段階でわかる、ということだった。
一方で今度からは、「本の読める店? ほんとかいな…… ちょうど本やたら読みたかったんですけど…… ほんとに読めるんかいな……」みたいになって、入って、あるいはWeb見て、「ガチで本の読める店だった!www」となる。で、そのあとの段階で「なるほど、一人で過ごすためためだけの仕様になっていて、完全にゆっくり過ごすことが歓迎されていて、静けさが約束されている、そういう場所だからこの快適さなのか」とわかる、となる。
という、興味と行為の動線としてどっちがシンプルかでいったら完全に後者だった。というか、これまでは「本を読みたい人」にとってダイレクトに届く言葉じゃなかったということだった。「長居できてうるさい話し声とかなければ最高に本が読めるんだけどな」くらいの仮説を持った人にならダイレクトに届いたかもしれないけれど、ただ「どこかでゆっくり本読みたいな〜」な人には一瞬でスッと入るものではなかった。
そのことに気がついたとき、「もうほんとバカっ! なにやってたの!」と思った。「本の読める店」=「一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店」であることはずっとわかっていたことだったが、表し方の違いで受け取る回路がどう変わるかということに想像が及んでいなかった。
本を読みたい人にとって必要なのはここは本が読める店であるという宣言であって、ここはこうこうこういう場所ですよという説明なんかではなかった。フヅクエが辿り着いた「本の読める店」考の結論なんかではなかった。もっともっとシンプルなことだった。本を読むが目的であって、一人、ゆっくり、静か、は手段でしかなかった。先に提示されるのがどちらかでだいぶ違う。気づかなかった。取り違えていた。この愚かさ、と思った。ずっとちゃんと考えているとばかり思っていたけれど、まるで考えられていなかったわけだった。あるいは煮詰めすぎて見当を違えていたわけだった。
いや、違う、ここにはある種の日和みたいなものもあったというのが正直なところだろう、「一人の時間を過ごしていただくための静かな店」なら「本当に本が読める」を完璧に内包してくれる、そのうえで、それと同時に、他の一人の静かな過ごし方にも向くことができる、読書以外の人も取り込める、そういう八方美人の気分があった、読書をピンポイントで指すことが怖かったのだろう、それじゃあさすがに成り立たないのではないかと不安だったのだろう、というかそうだ、今だってそれはそうだ。
でも今回でひっくり返った。「本の読める店」は、読書の人にまずピンポイントで訴求して、その次に、「本が本当に快適に読める環境」を損ねない限りは他の過ごし方ももちろんできるというところで、たとえば編み物をしたいと思っている方が、「本の読める店。では、編み物もできる場所かもしれない」と思う、入って、それができると知る、あるいはWebを見て、それができると知る、そういう順番になる。それでいいと思う。これが、正しい順番だと思う。
それにしてもこうなってみると、看板を作り変えようと思いついて本当によかったなあと思った。よかったなあというか、思いついてなかったらずっとこのままだったのか、と思うとだいぶゾッとした。
というのも、この変化の起点にあったのは看板だったからで、昨日のブログで書いた通り先日ふと「そうだ、新しい看板だ」と思い立って作り直すことにしたわけだけど、フヅクエフヅクエ、まずは店名を置き、次に「一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店」を配置しようとしたときに、一行じゃ収まらないし、じゃあどこで区切る? 一人の時間を/ゆっくり過ごしていただくための/静かな店、とか、気持ち悪いなあ収まらんなあ、しばし黙考、あれ、本の読める店でいいんじゃない? と思いついて置いてみたところまあ収まりがとてもよい、座っている、もうこれでしょう、それで看板が決まって、それからちょうど久しぶりに作ろうとしていたショップカードも同じ調子にすることにして、それぞれ発注して、とやっていた数日後、この際だしWebも全部本の読める店で統一するか、そう思ってそうして、そうしたらなにもかもがすごくすっきりして。
つまり、看板の横幅38cmという物理的な制約にぶつかることによってやっと「本の読める店」という拡張子が採択されたという、そういうことだった。(「そうだ、縦長だから扱いづらいんだ、看板を横に倒してしまえ!」とならなくて本当によかった)
本の読める店。この場所を表すのに、こんなにすっきり収まる言葉はない。すっきりだし、不思議な新鮮さがある。問いかけがある。美しさと強さもある。
いろいろな場面を想像してみるが、どれにも効果的に作用する気がする。というか先ほど「(長い以外は)」と書いたけれど、長さによって損なわれるというか機能しないことはいろいろとあって、伝わらなさを感じることも何度もあって、苛立つことも何度だってあって、でもこれだよな、これがフヅクエなんだからこれだよなとわりとずっと思いこんでいたが、本の読める店、この言葉であればそのままさわやかに機能してくれる気がする。なんだかすべてのパズルがきれいにはまりそうというちょっと危うい楽観が頭をもたげてくるくらい、端的でいい言葉だ。研ぎ澄まされた。
フヅクエ、本の読める店。3年掛けてやっと、いやいや、意味のある3年だ、この3年間があったからこそだ、本の読める店、3年掛けて、本当にいいところにたどり着けた。