昨日の日曜日、高校大学の友人の結婚披露宴に招かれたので日比谷公園に行って祝って帰ってきて着替えて、フヅクエに向かった。この日は6時まではスタッフのひきちゃんにお願いをして、そこでバトンタッチという約束だった。店に入ると8割方埋まっているような状態で、「調子がよさそうでなにより!快哉!」と叫んだところ全員がこちらをじろりと見てきた、ということは起きなかった、なぜならそういった叫び声をあげなかったからだった。
こういう、途中から交代、という入り方はたぶん初めてで、だから僕は初めて「フヅクエ中のフヅクエに入る」、ということをしたのだけど、最初のうち、妙な緊張を感じていた。それは「今ここにできている美しい空気を僕が損ねてはならない」というようなもので、なにか「すいませんがお邪魔します、失礼します」という感じだった、外部の人間の闖入みたいな感覚だった。交代してしばらく経って慣れるまでというか馴染むまで、その感覚が残った。
フヅクエは僕が店主で、僕の責任によって運営されていて、だから誰のものかといえばわりと僕のものっぽい感じがあるというか僕のものですと言ってみてもそんなに大きな差し支えはないかと思うのだけど、しかし僕のものというのは本当だろうか。どうやらそうではないらしい、というのが僕の考えだった。
ところでこの店はしばしば「店主のこだわりが〜」というたぐいの言われ方をすることがあるが、僕はそれはわりと違うと思っている。「僕にはこだわりなんてゼロです」と言うのは多分さすがにいくらか卑下のしすぎというか人を苛つかせる無意味で無価値な謙遜の態度だとは思うのだけど、基本的にはこれは僕のこだわりによって生まれて運営されている店ではない。僕のこだわりによってではなく、「本当に本が読める店」というコンセプトによって生まれて運営されている店で、フヅクエを形成するひとつひとつは「どうあれば本当に本が読める店になるのか」という問いからおのずと生じたものだった。すべての仕組みや細部は、そのコンセプトからただ演繹されたものだった。僕は耳を澄ましてそれを聞き取り、整備し、執行したにすぎなかった。
僕はだからこの店の執行責任者であるし、今のところ誰よりもフヅクエという店の語る言葉を理解と共感を持って聞くことのできる者でもあると思うが(だといいが)、僕やここで働く人はあくまでフヅクエの声に従う存在であり、この場所を自由にコントロールする権限を持ってはいない。いろいろうるさい面倒な店だなと思ったりすることもあるが、普通にしゃべれる店だったらこんなに苦労することもなかったのかなと思ったりすることもあるが、この店はそれを許してくれない。フヅクエは僕のものではいささかもない。あきらかにフヅクエは僕より偉い。
ではお客さんのものだろうか。半分はそうであるような気がする。昨日僕が感じた「損ねてはならない」という緊張も、僕が恐れ多くも闖入したフヅクエという場所がそのときにおられた方々それぞれのものになっていたからに違いない。(またこのときに生じたお邪魔します感はひきちゃんに対しても覚えた感覚で、ごめんねひきちゃんのお店になんか勝手にお邪魔しますが、みたいな感じで、それも愉快だった)
もちろんすべての人にとってフヅクエが自分のものになるわけではないだろう。あくまで一人の時間を、静かに、ゆっくり過ごすという、フヅクエが提供する枠組みを欲求していた人、それを十分に面白がれる人に対してしかこの場所は応えようとしないだろうし、そこにフィットしない人にとってはこの場所は不可解、不愉快、あるいは敵対的ですらあるかもしれない。この場所における振る舞いの自由は明らかに制限されている。お客さんもまた、フヅクエの声に従わなければならない存在だ。
つまるところ、フヅクエは僕や働いている人のものではないし、すべてのお客さんのものでも全然ない。
だから、だからというか多分、フヅクエはフヅクエのもの、という感じだよなあ、とずっと思っている、という話で。
フヅクエを統べるのはフヅクエというコンセプトでありフヅクエという機構でありフヅクエという秩序でありフヅクエという空気でありフヅクエという状態であり、僕や働く人はそれに奉仕する存在、秩序を監視する存在くらいのもので、お客さんはそのコンセプト、機構、秩序、空気、状態を具現化するための血であり肉でありみたいなところだろうか。いや、お客さんがそれを十分に理解納得して共感や喜びや安らぎとともに具現化させたとき、その人はつまりその人自身がフヅクエという存在になりかわり、そのときフヅクエはフヅクエのものとなる……。そういうことだろうか。フヅクエとの、合一……。
ご承知の通りとっくにわけがわからなくなっているのですが、書きたかったこととしては昨日の途中からインしたフヅクエ体験というか、フヅクエとして出来上がっている場所にひょっこり入る体験というのはなんだか鮮烈で面白かった&多分いつもよりは少しは客観的な感じで「こうやって機能しているときの、人々に満喫されているときのこの場所はわりと本当に比類ないレベルで美しいな」と思った次第だったということだったという話だった。