エンジョイ・アワー・フリータイム

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思えばずいぶん休んでいないなと今日あらためて思った。
休みのお知らせのところに「11月25日現在、次に確定している休みは12月18日の木曜日です。 ただそこまでノンストップでいく気もしないので、どこかで休むのだと思います。」と書いているのだけれども結局ずるずるとここまで来て、11月17日から12月18日までちょうど一ヶ月か、休まずに営業を続けることになる模様。
18日は前から予定を入れていて、チェルフィッチュの新作を見に行く。演劇はまったく明るくないのだけれどもチェルフィッチュだけは特別な存在で、スーパーデラックスで初めて『三月の5日間』を見た2007年か2008年から、チェルフィッチュ及び岡田利規はずっと大好きというか大事すぎる存在という位置をキープし続けている。『三月の5日間』は現代日本におけるなんというか、表現?創作?ちょっとよくわからないけど、そういうの全部合わせた中でいちばん大切な作品なんじゃないか、僕の中で、みたいにすらなっている。
先日買った戯曲集らしい『現在地』はまだ開いてすらいないのだけど、多分その前の戯曲集『エンジョイ・アワー・フリータイム』は、このタイトルといい(店名を考える際に一つの候補として浮かんできたほど好き)、収められている作品といい、やっぱりものすごい素晴らしいなと思うのだけど、特に最後の「フリータイム」は「そうだよね、そうだよね、すごいそうだよねー」ということが書かれているので紹介というか引用したい。
出勤前にファミレスに寄って毎日30分過ごす女性が登場する話で、そこで彼女は日記を書いたりして過ごすのだけど、こういうことが語られる。
「女 でも三十分で、結構だいじょうぶでっていうか、うん、そういう面はあって、その三十分は日記っていうのかどうか、前の日に自分に起きたこととか、それと関連して考えたこととかについて、ノートに、普通の大学ノートで横線の罫線のついた、そこにペンとかで書く時間にあてていて、ときどき三十分が、そう、ときどきでいつもそうなるわけじゃないですけど三十分がほとんど、永遠、(ウケて)、うん、でもそう、永遠! におおむね等しくなることがあるっていうことを私は知ってて、そういう経験をしたことがある、確かに知ってて/るってことが私のなにかになってて、なにかにというのは、希望の根拠、になって/なってるんです、だから三十分で私は大丈夫なんです全然それ以上要らないんだと思っていて、全然自分的にはフリータイムを三十分で満喫って感じなんです、よねー。」
ここ読むだけで泣きそう今。
永遠とか希望の根拠とか最高すぎるなあと。そうだよ、希望の根拠ってほんとあるよすごい、と思う。今の僕にとってそれはチェルフィッチュを見に行く来週だろうし、わりと日々ということで言えばカフェラテを飲みながら煙草を一本吸うコーヒースタンドでの10分間だろう。
そういうばしょに、わたしはなりたい。
というのはとても思うよね。誰かにとって、「今週末はフヅクエ行くぞ」みたいなことが、「だから生き延びよう」というか、希望の、生き続ける一つの根拠になったとしたら、というかなりたいなと。(なんだか前も同じこと書いた気がしてきた…)
ということを「ずっと休んでないな」→「来週チェルフィッチュだ」→「チェルフィッチュといえばエンジョイアワーフリータイムのあれ」という流れで思ったので書いた。