昨日一昨日と、クドくて結構、拒否反応を起こす人がいてもしょうがない、野暮でいいから察するコストを抑えたいんです、ということが書かれた。
もう一点だけ引っ張りたい。
「読むひとが読んだら「ここでは死ぬ気でくつろげ!」「全身全霊をこめてリラックスしろ!」「オレの言うとおりに完全に自由に過ごしていいからな!」みたいにとられてしまう可能性がある。」
死ぬ気でくつろげ、全身全霊でリラックスしろ、という命令は僕も「いやそんなこと強要したいわけじゃないですもちろんくつろいでいただきたいですけど!」と笑いながら慌てて否定するところだけど、3つ目はちょっと違う。
「オレの言うとおりに完全に自由に過ごしていいからな!」
これは、取られてしまう可能性も何も、わりと「あ、はい、たしかにそういう感じですね」という感覚でいる。
ずいぶん横暴な話じゃないか。いや横暴じゃないつもりだ。なぜか。
なぜか、とか言って明瞭な答えを持っているわけではないのだけど、なんというか、どんな自由そうに見える場所であれ全面的な自由なんてきっとどこにもなくて、いつだって僕らは何かしらに行動を規定されているわけで。どんなに自由に振る舞っていいように一見して思える場合においても、それは暗黙のうちにいろいろなことが人々に共有されている結果としてスムースに流れているだけだろうと思うわけなんです。ものすごくハイコンテキスト。ハイコンテキストはだいたいハイコスト。
ハイコンテキストでなく誰もがわかるようにするためにはルールが必要で。
その中で禁止っていうのはすごくわかりやすくて、あ、この公園では焚き火をしちゃいけないんだな、じゃあしない、みたいな判断ができるけれども、許可/肯定は難しい。野球についての言及はないけど野球はどうなんだろう、キャッチボールはいい気がする、ではバットを使うのはどうか、とか。良識とか常識とか空気みたいなものに従って判断することしかできなくて、これはけっこうなコストだよね、特に微妙なラインになればなるほど判断するコストは上がるよね、と思う。
例えば途中で席を移動することとか。例えば禁煙の店で外に煙草を吸いに出ることとか。僕は全然オッケーと思っているからどうぞどうぞという姿勢だけど、店によっては「できたらやめてほしいな」と思うだけ思いながら「ああどうぞ」と言うところもあれば積極的に「お断りします」と言うところもあるかもしれない。どれが正しいとかじゃなくて考え方はそれぞれなんだけど、客である僕にはその店がどういうスタンスなのかはわからない。察するしかない。
これが本当に自由と言えるのか、という問い方もできるかもしれない。
僕は不明瞭な自由よりは、明文化され規定され制限された自由の枠内で、悪くない気分で過ごしていただく、みたいにできたらいいなと。そのために許可の身振り、肯定の身振り、必要によっては禁止の身振りを積極的に豊かに演じていきたいと。
もちろん今の段階で十全に伝え切れているとは思わないのだけど、来られた方が何にも脅かされずに過ごすことができるように言葉を継ぎ足していきたい。また、店の考え方や状況いかんでは、自由の範囲が変更していくこともいくらでもあるだろう。
ひとまずは「オレの言う」「自由」がお前にとって心地よいものであることを祈るばかりだ、というところだ。
(念の為に書いておくと、「明文化が正義」と言っているわけではいささかもない。コミュニケーションでまかなえるのだったらそれで全く問題ないと思っているし、あるいは「察しろ」というスタンスももちろんいい。それぞれのスタンスの違いでしかなくて、言葉を使いたいというのは僕の流儀というだけの話だ)