『ボヴァリー夫人』から『「ボヴァリー夫人」論』へ 〜無防備な書き込みがもたらす効用と高揚

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久しぶりにフローベールの『ボヴァリー夫人』を読んだ。2006年の5月、大学3年生の春以来だから8年ぶりの再読ということらしかった。
蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』を読みたくて、その前に再読したほうが絶対に面白いだろう、ということで読んだわけなのだけど、まあなんというかめっぽう面白かった。面白かったことは覚えていたけれどもこんなに面白かったっけっていうくらいに面白かった。「すっげーなー…」などひとり感嘆の声を漏らしながら読んだ。岩波文庫のやつなのだけど、伊吹武彦による翻訳はとにかくかっこいい。
ところで僕の読書は時期によって色々なやり方があるみたいで、今は「いいね!」と思ってもページを折るだけ。ちょっと前はページは折らないでかたわらにノートを置いてとにかくメモをとる。パラグラフごとに要約を書きながら読んだこともあった(1冊でやめた)。
色々といってもそれくらいしか思い浮かばなかったんだけど、ともあれ、大学生のときは3色ボールペンを使いながら読んでいた時期がわりとあり、緑は「面白い」、青は「重要」、赤は「超重要」だった。
で、8年前に読まれた『ボヴァリー夫人』にはたくさんのメモがされ、カラフルな傍線が引かれ、なかなか直視しにくい恥ずかしいものになっていた。
最初のページの上部にはいきなり「大人は判ってくれない」「操行ゼロ」と書かれている。学校の場面だからなのだろう。映画のタイトルがただそれだけで書かれているのは他にもいくつかあって、「いとこ同志」「美しきセルジュ」「素晴らしき放浪者」「美女と野獣」とか、どれもフランス映画なのはフランスの小説ということに無意識で引っ張られているのか、そこには意識的なのか。(僕の中で『ボヴァリー夫人』で思い出す最たる映画はダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』なのだけどそれは入っていなかった)
また、どういうふうに小説が書かれているかにも興味があるらしく、「視点に注意。というか段階を踏んだ視点の変化?」「「た」形の文の連なりのリズムが迫ってくる」「過去→現在→体言止め」などある。体言止めwwwというのに限らず読んでいると恥ずかしさで顔がぽおっと熱くなる。
さらには「こういう奔放な語りの、意識の推移をフロベルは実践してみたかったのでは」などと図々しくも書いている。
「異様」「唐突」という言葉が繰り返し出てきたりも。
「なんか異様なカット割り」「名前の初出のしかたがさっきからずっと異様」「なんか異様な説話展開」(説話って言葉いまだによくわかってなくて、この頃はなんか格好良く見えるから使ってみたかったんだろうなと)
「何がどう「しかし」なのか、この唐突さ」「この唐突さ」「この唐突さ!!」
だいぶ興奮しながら読んだことがありありと伝わってくる。
一番最後のメモはこうだった。下巻の255ページ。
「空の澄んだ青と合わさってこの「青」の字が見せる青の青さ!」
もう全然わからないし(いや嘘です、今もなんとなくわかったりするよ)見ているだけでものすごい恥ずかしくなるけど、お前のその青さ、今だってけっこう嫌いじゃないぜ!と思いました。
そういうわけで満を持したような感じでなんかやたら高くやたら分厚くやたら重い『「ボヴァリー夫人」論』、読み始めるに至りました、ワクワクするぜ、という話でした。