希望の根拠

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金曜、静かな夜、席について、かばんから本を取り出す、あるいはかばんから本を取り出してかばんを下のカゴに置いて席につく、書店のカバーがついていたりだとか貸出管理のバーコードが貼られていたりだとかの本を机に置く、2冊3冊と重ねることもある、早く開きたい気持ちをおさえてメニューに目を通し、店の人間に声をかけ、オーダーし、やっと本を開く。この瞬間を待っていたのだと、このとき改めて思うことはないかもしれないが、それでもこの瞬間を待って、この瞬間の到来に支えられて、この瞬間をよりどころにして、一日を過ごしてきたのだ。仕事が終わったらあの本の続きを読むんだぜ、であるとか、仕事が終わったらあの本をとうとう買うんだぜ、そして夜っぴて読むんだぜ、であるとか、それを希望の根拠としてこの一日を生き抜いてきたのだ、そして今この瞬間から再び生き生きと生きるのだ。
ということをさっきカウンターにぽつぽつと座る方々がビールであるとかコーヒーであるとかハーブティーであるとかを飲んだりご飯であるとかサンドイッチであるとかを食べたりしながら本を開いている姿を目にしてその目撃を重ねたある瞬間にあふれるように「ふぁっ!」となって思った。ちょっと感動すらした。
たぶん僕は僕で営業が終わったら今日買ってきたエドゥアルド・ハルフォンの『ポーランドのボクサー』と傳田光洋の『驚きの皮膚』を読むぞー、どっか行って読もうかなーそれともソファでポテチとビールで読もうかなーどうしようかなーと思っていたからで、また、午後に本を買ったあとにどこか行って読もうかなーあそこのカフェ行こうかなーでもほっこりひと息入れたいわけじゃなくて俺は本を読みたいんだよなー半端だよなーまあそれじゃあ店でコーヒー淹れて読むか、となって店で本を読んでいたからで、だからつまり、希望の根拠としての仕事後の読書という項目と、それからそれをおこなうために過ごす場所の選択という項目において、前者については「だよね!」で後者について「ほまれ!」というところが掛け合わさって、感動したのだと思う。
ここに足を運んだ各人の背後というかまんなかに流れる人生と時間があってそれぞれの感情があって、この夜、「仕事後の読書、そしてそれをフヅクエにて」という選択をした知らない人たちどうしが知らない人たちどうしのまま、いっとき場と時間を共有する、そこから生み出されるなにか、うつくしい光景。に胸を動かされたのだと思う。
希望の根拠、希望の根拠、と何日か前のブログで書いていたこともあり、今日の夜がまさに希望の根拠としての読書ということを考えていたこともあり、またここ数日でお客さんからいただいうれしいいくつかの同じような方向性の言葉があり、それらが合わさって、いつも以上になにかぐっとくる光景として僕の目に留まったらしかった。