1/4にカットされたキャベツを2つ持っていて床にぺたりと座っている。何人かがいる。認識している限りで3人いる。一人が取り仕切っている。ボウルだか何かの容器を区切るようにキャベツの芯らしきものが置かれている。だからその容器の両サイドがぽっかりと空いている。僕が担当している1/4カットされた2つのキャベツははたしてそこにおさまるのか。僕は「断面を見る限り俺のじゃなくて向こうのやつなんじゃないの?」と心配している。だから他の2つを担当している人間がいるはずだから少なくとも4人はいる。視界に入っているのは取り仕切っている女と水の計測を担当している女の二人だ。
取り仕切っている女がハリオのスケールにおそらくそのボウルを載せて重さか何かを測って、電卓に「294」と打って「-1-1」という計算をしている。つまり現段階で数字は292ということで、僕は「ずいぶんと慎重な計算をするものだ」と感心するのか寒心するのかとにかく何かあなどりに似たものを感じる。このあたりのタイミングで取り仕切っている女は水の計測を担当している女に「(明らかに集中力が足りなくなっている様子だから)代わる?」と提案のような命令を下す。そのあとどうなったのかは見ていない。
寝室にいるし視点は絵本を読んでいる。スヌーピー等が描かれているそれは音が出てまた絵も動くため楽しいがいつがめくりどきなのか。うすく開かれた扉から典型的な光が入り込んで暖色の照明の廊下を抜けたらしく台所に入ると小人たちが片付けをしているが横着した方法でやっていることが判明する。その状況は僕が責任を負わずにポテチを食べるチャンスに転じさせられることが即座にわかったため困った顔を偽装して小人たちの怠慢を黙認することを選ぶ。
時間をぽっかりとあけられたため本屋に行くことにして自転車にまたがる。新宿の紀伊國屋書店本店か渋谷の丸善ジュンク堂かという二択だがこういう場合ほとんど渋谷の丸善が選択される。紀伊國屋は駅の目の前を通るところが峠越えの感覚と人混みの目撃を強要されるため心理的に遠い。また紀伊國屋はフロアが分かれているため上がり下がりを考えるとやや気が重い。
そのため坂をくだり山手通りをまっすぐ進み富ヶ谷の交差点の信号で止まる機会が多くここが分岐点となるがいつだって行きたい道、行きたくない道というのがある。丸善に行く場合であれば行きはそのまままっすぐ山手通りを進み東大裏あたりのところで横道に入り松濤の住宅街のなかを抜けて坂を最後くだって東急百貨店のところまで出るのが望ましく帰りは神山町を抜けて井の頭通りには折れずにまっすぐ代々木八幡のなかを通って踏切でいくらか待つことも厭わないでくぐるようにして山手通りに戻りたい。
地震が一度おこると立っている限り僕の足元はぐらつき続けてずっと揺れている。
保坂和志の『カンバセイション・ピース』を読み終えて都築響一の『ヒップホップの詩人たち』も読み終えるところで次の本を買おうと書店におもむいたわけだが『夜露死苦現代詩』は買うつもりではいたけれどそれ以外になにを取っていいかわからないとも思っていた。本来であれば次の小説を買いたいところだが『カンバセイション・ピース』があまりに僕の中で充実していて下手にほかの小説に手を出せるような気はしなかった。きっと面白がれないと思った。それでもなおラテンアメリカ文学の棚を見てみたところカルロス・フエンテスのカタカナのタイトルの分厚い小説が水声社から出ておりこんな分厚いものまでもし寺尾隆吉が訳しているとしたら本当に正気の沙汰じゃない仕事量だぞと心配なのかなんなのかを覚えながら手に取ってみたところ他の方だったため安心なのかなんなのかを覚えた。それにしても水声社はアグレッシブだと思った。小説ではない本を4冊買う。
久保ちゃんがゆきちゃんと付き合い始めたということが直観された。ルームシェアをしているのか広い家で久保ちゃんは仕事仲間の人とリビングのテレビになにかを投射した。その前を抜けてキッチンに入るとフルーツが自然に置かれているようなキッチンだった。腐る前に食いきれるか。ソファに座る久保ちゃんは掛かってきた電話に出て話していた。海外のなにかのコンペティションがなんとかであるらしかった。さすがだと思った。さすがだと、思った。
中村橋の坂道の途中で先ほどの瀟洒な感じの家とは違う小さな日本的な一軒家がありそこに久保ちゃんであるところの田村とゆきちゃんが暮らしているか滞在している。家の前で田村に出くわしたのか呼び鈴を鳴らしたのか田村が目の前にいるので「二人はそういえば付き合ってるの?」となにげない感じを装って聞いたら「なんかそうらしいよね」という答えをしてきて何か思い出したような表情をして「あの子と一日過ごしたことある?」と聞かれたので「いやないね」と答えた。スーパーで「ブロッコリーブロッコリー、遅れる!遅れる!シフトに!」と慌てて買うか買わないかしてNHKのビルの地下から階段を上がると四人がかりで何かが搬入されていて外に出ると自転車置き場があり明るかった。
人はときに途方もなくアクロバティックな方法で現実を理解しようとする、その瞬間に立ち会うと唖然とするし愕然とする。論理や五感よりもずっとずっと強い力が願望というものにはあるらしく、おのおのの見る世界はおのおのの願望をきっと強く反映したもので、ほんとうにとりどりなのだろう。と思うとくらくらする。そのあなたが理解だと思っているものの90%は願望に依拠しているよ?と思うことがしばしばある。
冷蔵庫のなかでトニックが倒れてナハトマンのグラスが割れていた。もらいもので気に入っていたもので買い直そうと探すもそれらしきものが見当たらない。
挨拶の言葉が挨拶の言葉としてつまりコミュニケーションに値する言葉として感じられるのは2つまでではないか。3つ以上になると個々の出し手の意図はどうあれ受け手にとっては掛け声のようにしか響かなくなるのではないか。というかそんなにいっぺんに多人数とコミュニケーションを取ることなどできないのだから受け手としては「ただの掛け声である」と処理することで負担を軽くするしかないのではないか。「こんにちは!ーこんにちは」「こんにちは!ーこんにちは」「こんにちは!ーあ、はい」というかたったいま後ろから出てきたあなたは私とどのような関係を結ぼうとしているのか。どのようなあいだがらとしてその挨拶の言葉を発したのか。のっぺらぼうの人間とあいさつをかわす習慣は僕にはない。
『ヒップホップの詩人たち』の最後を飾ったのはILL-BOSSTINOでありそれを僕は小脇に抱えて入ったスタバでカフェラテを飲みながら読みながら涙したか涙しかけたかした。今晩はこれからジムに行って走りながらボスの言葉を浴びながら喉からせりあがる叫びをどうにか運動へと流して、汗に変えて、叫んでしまわないように気をつける。