今週は定食屋の店長が休みだったため昼の労働もおこなっており、暇だったので「断章的な何か」と思って手に取ったシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』の「労働の神秘」の項に
「究極の目的なしの努力。
それは、おそろしい、――あるいは、何よりも美しい、――もしそれが、終わりなく決定的なものであるとすれば。美しいものだけが、今あるものに満ちたりた思いをおぼえさせてくれるのである。
労働者たちは、パンよりも詩を必要とする。その生活が詩になることを必要としている。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。」
とあった。
なんてことはない、何を言っているかはさっぱりわかっていないんですけどなんかかっこいいですね、という話なのだけど、どうせなら美しいもののほうがいいように思った昼の労働を終えると、昨日変な寝方をしてしまったというか3時ごろに寝たら5時半に目を覚ましてしまい、しばらく起きていて、またノンレム2回分くらい寝たのだけど、労働を経たところ眠くなってしまい、仕込みは労働のさなかでおこなわれていたので、時間があり、昼寝を長々とおこなった。頭がじんわりと震えるようにして起きたところ日は暮れ始めていた。
4月だからといって何が始まるわけでもなかった何が変わるわけでもなかった暮らしにおいていくつかの変更がこれから見舞ってくるため、あたらしいリズムを確立しなければいけない。労働を愛でよ、そんなことをヴェイユはひとつも言ってはいないだろうけれども、少なくとも先週今週と立て続けに再読した保坂和志の『プレーンソング』と『草の上の朝食』では、むしろ労働は積極的に排除されている。そのなかで読みながらなんて明るい気持ちになるのだろうと、僕はおおらかな喜びを全身に感じながら、桜並木を見上げながら歩くような心地で読んだのだけれども、そこにはタイトルそのままだけれども、世界を肯定する意思がみなぎっているように感じた、それが僕を心地よくさせたしよろこばせた。
そうやって読んでいたら実際に
「「未来っていうのは何なんだ」と訊くと、ゆみ子は、
「だから、未来っていうのは現在を肯定することよ」
ともう一度言って、あなたが「未来」という言葉が嫌いなら「現在の肯定」でもいいというようなことを言って、
「同じことだと思うでしょう?」
と言った。」
とあって、思わず僕は「アッ」と言った。
ともあれ僕はさまざまな苦渋を日々感じながら、一方で突発的な歓喜にむせびながら、暮らしている、その歓喜の時間のひとつは先日の休日に入った店で体験したもので、店の時間というのはここまでの強烈な歓喜や陶酔を人に与えうるものなのだという改めての驚きがあった。詩と、永遠からさしこむ光が、その時間には確かにあった。
それは特別な時間だったから特別なことかもしれないけれど、その特別さをフヅクエが孕めないとは誰にだって言い切れないだろう?だから僕はこの場所に足を踏み入れて一定の時間を過ごす人たちにあんな爆発を与えられたら、「それは事件だよね」と、爛々と光る赤い目を開いて言いたい。