肉を切って醤油につけて焼いて、ママが僕にくだすったルクルーゼの大事なお鍋で4時間煮込んで、一晩かけて冷まして、固まった脂分を取り除いて、ふたたびあたためて……
柴崎友香の『パノララ』はめっぽう面白い小説で、「うわーこれはめっぽう面白い小説だな!やばい!やばい!」とかバカのような感嘆のしかたで感嘆しながらけっこうな勢いで読んだのだけど、作中で何度か、3度かな、豚の角煮が食卓にあがる。文さんが作るその角煮はたいそうおいしいらしく、「角煮は味が染みこんでいて、とてもやわらかくておいしかった。教えてもらったけれど、自分一人で作ったらたぶんこんなにうまくできないだろう」とのこと。あるいは「また角煮かー。文ちゃんは機嫌悪くなってきたら豚煮込むんだよねー」とのこと。
豚煮込む、というのがとてもいい響きで笑ったのだけど、たしかに大きく切った肉を鍋にみっちり詰め込んだ様子は「豚煮込む」という言い方がすんなりくるようだったし、また、それが「機嫌悪くなってきたら」発動される感じも、実際に「豚煮込」んでいたところ、なんとなくわかるような気もしてきた。
コトコトコトコト、時間を掛けて味よ染みろ〜染みてくれ〜とか思いながら長い時間を掛けて煮込んでいると、水分が少しずつ蒸発していくのと同期するように気持ちも少しずつ軽くなっていくようだった。それに、コトコトコトコトの先にやわらかくておいしい豚の角煮ができあがると思えばなおのこと、この、今ここに流れている時間が「おいしくなっていくための時間」としてあかるくあたたかく彩られ、この時間そのもの、もっと言えば今の自分そのものを肯定していいような気さえしてきたのだった。
以上嘘でした〜。
特段そういう感情は湧かなかったんですが、これがあれかもしれないですね、その場から離れずに、クツクツしている鍋の表面をずーっと見ていたらそういう感覚にもなれるのかもしれない。海とか見飽きないのと同じような感じで角煮の水面も見飽きないといったあんばいで。
ただ僕の場合は煮込んでいるあいだにチーズケーキ焼いたりチョコレートのパウンドケーキ焼いたり掃除したり準備したり、さらには営業始まって一生懸命誠心誠意でがんばったり、ということをおこなっていたので、ただの放ったらかしの時間でしかなくて。上述のような感慨は一切ありませんでした。
とまで言うとやはり嘘というか言い過ぎで、たしかになんか長時間クツクツやっているのってわりとなんとなく気分をやさしくあかるくしてくれる感じあったね。それは実感している。あたかも加熱によってコラーゲンの分子がほどけて肉がやわらかくなっていくように、日々のくだらない鬱屈や懊悩によって硬くなった心が少しずつ少しずつほぐれていくような、そんな心地が
まあそれはなんでもいいのだけど、この小説を読んでいたら「あー俺この暮らしにずっと付き添っていたいというか見ていたいわー」という気分になって、いずれそうも言っていられなくなるのだけど(体が緊迫して筋肉痛になるかと思った)、それにしてもこの「暮らし」の感覚ってなんなんだろうなと考えたときに、ことこの小説においては食事の場面が暮らしの結節点というか、暮らし感の増強装置として機能しているように感じられて、食事の場面っていいですね、好きです、と思いましたです。
いやしかしなんていうか、不思議な感覚になったというか、何読んでもなるわけでは全然ない感覚になった。下北が舞台というこの地続き感もあるのかな、この暮らし感、というか、彼らにそこで暮らしていてほしい、この世界が彼らが暮らしている世界と同じであればいいな、と思った。で、あの家に行って文さんの角煮を俺は食いたい。