1時半すぎに眠ったか。目を覚ますと「いや、これはまだ朝じゃないな、まるで朝じゃないな」と、うんうんと唸りながら手を伸ばすも、もはや近くに眠気はないらしかった。2時50分。わたしはどこかの段階で観念し、本を読むことにした。するとこのように書かれておった。
「ガスのあかりが消えないうちに、服をぬいで、ひざまづいて、祈りをすませないと。死んだとき地獄へゆかないように。ストッキングをまきとるようにしてぬいで、すばやくねまきを着ると、ベッドのそばにふるえながらひざまづいて、ガスのあかりが消えやしないかと心配しながら早口にお祈りをとなえた。つぶやいていると、肩がふるえるのがわかる。」(P36)
なんとなくうつくしい場面ですね。祈り。最近祈ったのはお経読んでいるときで、「解脱しろ〜!がんばれ〜!解脱しろ〜!」と祈った。その、先日死んだばあちゃんに、般若心経あついよ、と教えてもらったんだっけか。高校受験を控えた時期、僕は他に覚えることはたくさんあるというのに般若心経を覚えてみようとか思って、それで途中まで覚えた。最後まで最後までは覚えられなかった。とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだいのあたりが好きだったし、そこらへんで詰まった。最後の最後、ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてーはらそーぎゃーてーの、はらそーの感じ、ぎゃーてーで畳み掛けてくる感じ、ぐんぐん突き上げてくる感じがいいね!あがるね!とばあちゃんに言ったっけか。ともあれ解脱をお祈り申し上げた。僕はその場で彼女に向けて般若心経も読みたかったが、読まれなかったので、葬儀場のトイレでひとりつぶやいていた。すぐ詰まった。
と、そんなことを思い出していると、ひとつの記憶が遠い感触のなかから浮かび上がってくる……
その日の昼ごろだった。私はせっかくの休日なのでちょっとどんよりしようと思い、ユーロスペースに『野火』を見に行った。年末に日経新聞の記事で2015年の映画を振り返るみたいな記事があり、そこで最初に触れられていた3本が、『恋人たち』『ハッピーアワー』、それからこの『野火』だった。年が明けてキネマ旬報の2015年日本映画10傑みたいなやつの上位3本がそのままそれで、「ほお」と思ったのだった。たしか。
『野火』は、衰弱するのび太を見かねたドラえもんが腹から出したアンパンマンが、ほら、お食べ、といって自分の顔を差し出す。のび太はおそるおそるそれをほおばるが… というのがあらすじらしいのだけど、最初から最後までわりと鼻白みながら見ていた気がする。映画が終わった瞬間に、少し離れた席に座っていた男性が大きな音であくびをした。幸か不幸か僕はそのときそういった気分だったから構わなかったけれど、深く感動している人とかもいたかもしれない中でああいうのって本当に嫌だなと思った。デリカシーというのか。しかし映画館で持つべきデリカシーって実際どれなんだろう、と先日も、『オデッセイ』を見ている際にすぐ後ろの席の二人がずっとおしゃべり活動をおこなっていてうんざりしながら、「しかしうんざりする権利はどれくらいあるのか?」と思ったのだった。かつては映画とはやいのやいの言いながら見るものだったのではないか。等々。僕はいろいろなことがわからないので途方に暮れる。
夜中、中国だかの映像作家の作品をシェア活動しながらFacebookにこう書いていた。
「いやーこれはすごい。超美しい&凄い。色合いも美しいけど人の顔もいちいち美しい。今日野火見てすごく嫌だったのだけど、ちゃんと眼差さないカメラに意味なんてないと思ったんだった。真摯に捉えようとしている視線が積み重ねられるからこそ、この作品みたいに銃撃のシーンでうわ〜・・・と重いリアリティを持ってのしかかってくるというか。わちゃわちゃわちゃわちゃ撮り手が揺れて編集もなんか激情的にやって、肉片を捉えることには執着しつつも被写体を見る欲望なんてどこにもなくて、というのの重なりに、戦争の重さは感じられなかった。
しかしまあ、ほんと、これきれい。超いい。恵比寿映像祭の出展作品だったらしいのだけど今年は行きそびれた、行けばよかったな、まあこれで見られたからそれでいいっちゃいいけど。」
映画のあと清澄白河のほうに行き、時間があったのでカフェのような店舗に入店体験することにし、コーヒーを飲みながら『コスタグアナ秘史』を読んでいた。一本の銃がのちにジョゼフ・コンラッドを名乗ることになる若い男に渡るまでの物語が語られる箇所を読んでいた。想像力の飛翔と思う。すごいな小説家ってと思った。
夜、友だちというか知り合いというかの人間の方と飲みながら、わたしたちはしあわせに、いきていかれるのだろうか、こんなちょうしで、と話した。僕が一人でそう言っていただけかもしれない。陪審員諸君、と語りかけるコロンビア人の一人の小説家と心臓発作で倒れることになるポーランド人の一人の小説家の二つの人生は、かさなったのか、まじわったのか、かすったのか、あるいは。帰りの電車で愚かな人間を見た。ビールが頭にたまり、1時半すぎに眠ったか。「あのころ私たちはセーラー服を着ていたんだっけか、忘れちゃったね」俺は着ていなかったよ。いずれにせよ「私たちは終わらない真夜中を終わらせなくてはいけません」終わらせなくてはいけません。朝は遠い。