知らないものの肌に触れる

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営業の終わりのころ、小さな眠気がやってきていた。終わったあとジム行って走った。するとすっかり目が覚め、平生通りに暮らしていたところ3時頃に眠りについた。「朝かな?」と思い目を開けて時間を見ると5時21分とあり、「朝とは言えないな」と思ったが眠気が見当たらずどうしようもなかった。寝る前に読んでいた青木淳悟の『学校の近くの家』を読んだところ、読み終わった。年明けからドストエフスキー再読リレーみたいなことがおこなわれて『罪と罰』と『悪霊』を読んでいたため久しぶりにロシア以外の場所の小説を読んだ。ロシアみんな大変そうだった。1850年代とかのロシアから1990年代の狭山市の小学校へ。140年と7500km。
『学校の近くの家』は青木淳悟特有の声の発生源が見えないような文章が最後まで冴え冴えとしていて授業参観行きたくなった。昨今は紛れ込もうものなら逮捕でもされるだろうか。そもそもおそらく紛れ込めないだろうか。
僕は本を読みながら「!」と思うとページを折るか祈るかする人間だがたまに面白くてもまるでページが祈られないか折られないものもあり、青木淳悟や磯崎憲一郎のものは特にそうなっている場合が多いような気がする。面白さが高密度でずっと持続しているから、ということにしておきたい。
並行して読んでいる本に佐々木敦の『ゴダール原論』はあるが、「小説部門」に空きが出たため今日あたり書店に行って次の小説を買いたい。同じようなタイミングで2冊出ているのを以前見かけたフアン・ガブリエル・バスケスのどちらかにしようかという気がしている。コロンビアの方で若い方の模様。『コスタグアナ秘史』か『物が落ちる音』。物が落ちる音、すごいいい。また、「エッセイ部門」も空きがあるため何かよさそうなものがあったら読みたい。
コーヒーを淹れて、すると町が動き出した。僕はしょうがないので指を動かし始めた。
先週はいくつかの普段見ないものを見る機会があり、ICCでやっていた「ジョン・ウッド&ポール・ハリソン 説明しにくいこともある」展、マームとジプシー「夜、さよなら」「夜が明けないまま、朝」「Kと真夜中のほとりで」、ROTH BART BARONのライブ、がそれらだった。
「説明しにくいこともある」展は「たしかにこれは説明しにくいなあ」という展示で、キャスターのついた椅子に座った二人の男性が揺れる部屋で揺れに任せて部屋をあっちに行ったりこっちに行ったり、ワインのコルクを抜いたら底から液体があふれて広がったり、額縁が落下してガラスにヒビが入ったのち倒れたり、ジオラマの駐車場に並ぶ車が次々に爆発していったり、観葉植物が白い塗料の入ったスプレーで白に着色されたあと緑の塗料で緑に着色されたり、という映像作品の展示だった。意想外のボリュームで、半券でもう一度入れるとのことだったので水曜日に1時間くらい見たあと「また明日来よう」と思ったら半券を落としたらしくうろうろとキョロキョロしていたら学芸員の方が「これですか?」といって九死に一生を得たところ、翌日に行ったら半券を持ってくるのを忘れたため買い直して(合わせて1000円なら全然安かろう、なんせこれだけの量だ、という)また2時間くらい映像の前で過ごした。
一回目に見ていた二人の男性のあれこれの運動の作品群や、ワイン瓶のやつのような「アニメーション」と題された作品群をより楽しく見たらしかった。認識が揺るがされるような、見ているときの緊張感が面白かった。その観点ですか!といった。
その木曜の夜、与野本町駅という初めて行く駅(僕は大宮育ちだからすぐの距離なのだけど与野的なものに触れる機会は本当に限られていた)で降車した。駅前に置かれていたもやい杭みたいな案内板に「芸術の町」みたいなことが書かれていた。与野の形の地図があり、秩父まで、東京まで、日光まで、六日町まで何キロ、ロシアまでは7500km、と表示されていた。そこからいくらか歩いた先にある彩の国さいたま芸術劇場でマームとジプシーを見た。その夜、へーすぷっくに「今日はマームとジプシー「夜、さよなら」「夜が明けないまま、朝」「Kと真夜中のほとりで」を見てきた。
わりと念願のマームとジプシーで、ちょっともうなんかやばかった。エモけりゃ泣くという面はそりゃあるんですけど途中から涙止まらなさすぎて逃がさなきゃ逃がさなきゃとつま先ずっと動かしていた。
夜、不在。不在?不在とは。彼は?彼女は?俺にとって。しかし不在とは?どの時点で。例えば先週死んだばあちゃん。どの時点で。って思うよね。思わざるを得ない。と。不在、後悔。未来。に後悔しないために今。やばい。けっこうすごいやばい。
戯曲読みたい。あれらの言葉を手元に置いときたい。ぜんぜん思い出せない思いだしたいあれらの言葉を聞きたい。一方でテキストが人間を、体を介して、声に乗って伝えられるという、ただの原理ですが、それがすごいことだと思った。運動する演者たちの喉から言葉が届けられること、その響き方、消え方、残り方、が全部、すごいと。
いや、というか。夜。夜やばい。夜はやばし。全部の夜思い出した。
うーん、まったく消化できないのだけど、消化できないので、ちょっと重苦しいモードで何かがぐるぐると回っている。ちょっともうなんていうか言葉っていうのもすごいし記憶っていうのもすごいし体っていうのもすごいし。もっと演劇見たいかもと思った。あと詩というものを、今なら読めるかも読みたいかもと思った。やばいやばい。超やばかった。」と書いていた。
翌日、「Kと真夜中のほとりで」の詩が『ユリイカ』の2012年3月号に載っていることを知り、急いで図書館に行ってコピーしてきた。幸か不幸か眠れない夜なんて僕にはないんだよなと思っていたけれど、早く起きちゃった朝はここにある。
翌々日土曜、昼営業にして夜、雨降り、傘さし、恵比寿のリキッドルームに行ってROTH BART BARONのライブを見た。
舞台のうえで5人の男が楽器を弾いたり歌ったりしていた。何とも似ていない、聞いたことのない音で、強靭なファルセットの声とその声が乗るうつくしいメロディーと、フリーキーな爆発と分厚い音の壁が奇妙かつ完璧な様子で同居していて、「ひえ〜」と思って笑い出したりしながらずっとびっくりしていた。今日というか眠る前ジムにて、「本日の走りながら聞くアルバム」に選定され、そのあとYouTubeでビデオを見たりしていた。その関係で頭のなかで「ら。ら。ら。ららーら」が続いている。マーチングな感じのドラムってしかしとてもいつもぐっとくる。
そういったわけで期せずして文化週間みたいになったこれら3つの催しの体験に共通しているのは僕が事前にほとんど何も知らないでいたという点で、ICCの展示はSNSでそのタイトルを見かけ、「いいタイトル。近所だし」と思って行き、映像ということも行った先で初めて知った。マームとジプシーは劇団名とその劇団が大変な人気を博していることだけは知っていて、友だちというか知人というかの人間の方に誘ってもらったので行った感じで、ROTH BART BARONはバンド名も覚えていないくらいで曲は一つも聞いたことなかった。先月友だちというか知人というかの人間の方と飲んでいる際に「ものすごいよい」と力強く言われたため「そういうのに乗ってみるのもぜったい一興」と思い「土曜か〜、まあ、時には」と思いチケットを買ったのだった。
こういう、なにも知らないものに触れる機会というのはわりと意識しないとできないような気がしていて、少なくとも僕の読書や映画鑑賞は作者名や監督名など「何かしらは知っている」という状態でだいたいおこなわれる。青木淳悟はどれを読んでも新鮮に驚いて面白いけれど、それでも「青木淳悟特有の」という言葉を自然と打ってしまう程度に「らしさ」みたいなものを勝手に想定してしまっている。期待してしまっている。それはハズレくじを引きたくないこともあるだろうけど、そもそも読みたい見たいものがいくらでもあるから優先順位みたいなものがどうしてもついてしまうからしょうがないことではある。
だから完璧にまっさらな状態でなにかに臨めるというのはわりに新鮮で、自分の文脈みたいなものから逸脱できる感じ、文脈みたいなものを拡張できる感じがあってとてもいい。なにも知らない対象だと、なんせすべてが予期されない、出会い頭の驚異をもたらす出来事になる。え、こんな音鳴らすのかよ!驚きすぎて草生えるわ!といった。
知らないものの肌に伸ばす指は、説明しにくい、言葉になる以前の感触を知覚して、おどろいて、よろこんで、なんかこう、あたらしいあり方で胸を震わせる。それはかなり豊かさといった状態に近い気がする。そういうわけで先週はいい一週間だった。
そろそろ8時。今日一日を無事にやり過ごせる気はとうていしない。