ディスと矜持

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うつくしい日だと思った。自転車にまたがって甲州街道を新宿駅の方に走らせる。車がさんざん走っている。その流れがうつくしかった。とちゅうで左に折れると右も左も高層のビルが並ぶ、谷あいのような道路になる。そのビルがうつくしかった。ビルの向こうの全部に広がる真っ青の空もうつくしかった。自転車を止めてコクーンタワーの階段をおりる。中途半端な高さから、駅から続いている地下道を歩く人たちが目にとまる。駅の地下道を内とも外ともつかない半端な場所から無関係の防犯カメラのような視点で見る。その光景がうつくしかった。毎日をこんなふうにまなざすことができればそれで暮らし全体がうつくしくなるような気がした。うれしかった。
という感じで、柴崎友香っぽいような書き方をしたつもりっぽい感じで書いたのだけど、浅はかな試みだったと反省しているところなのだけど、ブックファーストに行って柴崎友香の『わたしがいなかった街で』と、フィルムアート社から出た『コーヒーの人』を買った。
この2冊がほしくて、本当は紀伊国屋に行こうと思っていたのだけど、ブックファーストの方が近いし、新宿のガヤガヤを通らずに行って帰ってこられるのでブックファーストに行くことにして、ブックファーストをあなどっているつもりはないのだけどやや不安だったので先に電話して在庫を確認したところあったので行った。お取り置きしましょうかと親切にもご提案をいただいたので慣れない本屋で探すのも面倒だと思ったためお願いした。ビジネス書コーナーの横にサービスカウンターがあるとのことだったのでそこを目指した。
すると、ビジネス書があるコーナーにたどりついた。ふと目についたのが「接客のルール」みたいなタイトルの本で、僕も接客する者なので「どれどれ」と思って開いてみるも、気が付くと「中原昌也が書いていたとしたら」と思って読んでおり、そうすると全部がバカバカしくなるので笑いをこらえながら本を元に戻した。それから歩き出した。
すると、サービスカウンターにたどりついた。
『ハッピーアワー』を見てから、なんとなく関西弁の、みたいな欲求が生じたのか、何か通じるものを感じたのか、感じるのだけど、柴崎友香の小説を読みたくなって、それで以前読んでとても好きだった、あのうつくしいシーンのあるあれを、と思って『寝ても覚めても』を文庫で買った。読んだら、僕が読みたかったのは『寝ても覚めても』ではなくて『わたしがいなかった街で』だったことが発覚した。いずれの作品も掲載されたときに文芸誌をわざわざ買って読んだ作品で、文芸誌を買うことはめったにないことなのでめったにないことだったし、どちらもすごく好きだった。『寝ても覚めても』はどんどんおそろしい。
どんどんおそろしく、おもしろく、とは言え読みたかったあのシーンがあるのは『わたしがいなかった街で』だったことが判明したため、今日それを買った次第だった。いずれも本棚に文芸誌はあるからわざわざ買わなくてもよかったのだけど、なんとなく買い直したかったので買った次第だった。
ところで『寝ても覚めても』を読み終えたとき、普段はあまりしないのだけどなんとなくAmazonのレビューを見てみたら星3つとかで評価はわりと低くて、ぼんやり評価されているというよりは、とても受け入れている人ととても受け入れなかった人で二分されているような評価のされ方だった。それがおもしろかった。
僕は「つまらなかった」という評価は積極的にされるといいと思っているし、なあなあで「いいねいいね」の世界よりもディスがちゃんとある世界の方が健全だと思っているのだけど、だからフヅクエとかもいいねいいねもうれしいけれども「このクソが」みたいなものも、まったく見たくはないけど、ある方がたぶんまっとうだとは思っているのだけど、見たら一日落ち込むか何かになりそうだとは思うけど、だからできたらやめてほしいのだけど、でもあった方がとも思ってはいるのだけど、でもあれなのだけど、一方で星1つとかのレビューを読んでいると何かを非難するというのはとてもむずかしいものだと感じずにはいられなかった。
あらすじだけ知りたかったらあらすじ読んだら書棚に戻しとけ、であるとか、共感だけしたいんだったら自分の日記でも読んどけ、あるいは自叙伝でも書いとけ、そんで一生それ読んどけ、であるとか、そういうことを星1つレビューは僕に思わせた。つまり賞賛の作法よりもディスの作法の方が繊細というか微妙な技術を要するというか、なんというか、簡単にかっこうわるくなりやすい。自分の基準みたいなものに対する省みが欠如したとたん、ただの読めなさとか響かなさとか受け取れなさとかの表明にしかならなくなりやすい。だからディスはおそろしい。よくよく注意してディスりたいものだ。
そう思うと、なかなかディスが生まれにくいというのも理解できるというか、ディスの不格好になりやすい性質を多くの人が理解しているからこそなあなあの空気が生まれやすいということだろうか。まあきっと違う。
ところで僕はここでも非難とかディスという言葉で逃げているのだけど「批判」という言葉をどうも使いたくない。批判をディスの意味で使いたくない。でもそうるすといい言葉がうまく見当たらない。ディスがいちばんすっとくるけれど、カタカナでない言葉はないものか。いつもそう思う。批判それ自体は、ただただ健全なものであるはずだ。批判という言葉がディスの意味で流通していることにこの社会の持つ歪みみたいなものを覚えてみたくもなる。
なので本を買ったのでジムに行った。走った。走りながら、何年ぶりだろうか、なんでiPhoneに入れようと思い立ったのか、二階堂和美の『Nikaidoh Kazumi US tour 2003』を聞いた。二階堂和美がすごい歌っていた。あんまりよくて、凄くて、吐瀉物が喉元をせり上がってくるような感じで何度も涙がこみ上げた。つまりふいに力強く「これ不可逆?」という様子でこみ上げてくる感じを言いたくて嘔吐のシーンを思い出していただこうと吐瀉物の例を出したのだけど、本当にそんな感じで、2003年のアメリカでうたっている二階堂和美は動物みたいだと思った。歌手というより動物みたいだった。
そう思ったら走り終えたのでシャワーを浴びたらドトールに行ったのでさっき買った『コーヒーの人』を開いたらこれは6人のコーヒーをなりわいにする人のインタビューの本っぽいのだけど最初が下北沢のベアポンドエスプレッソの方ではじまって2段落目に「僕のフィロソフィは、ビジネスとは正反対のものだと思う。ビジネスは人間がやっていること。でも、僕のフィロソフィはアニマルとネイチャーと一体になっている。つまり自分は「動物」だと思っている。僕はそういう生き方をしているんです。そこから話を始めなきゃいけない」とあって、「動物再び」と思った。
「この店にいるのは人間じゃない。クマなんです。そこにクマが好きな人間が入ってくる。だったらクマのルールの方が正しいんです。机がないとか、椅子が硬いとか、そういうことを言う人間はクマから見ればどうでもいいんですよ」
「僕は人間じゃないんですよ。僕は動物になりたいんです。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。僕のやっていることを好きな人だけがここに来て、その人たちに一生懸命エスプレッソをつくる。ただこれをやるだけ。それ以外の人たちには、僕は牙を剥きます。オオカミと一緒だから。テリトリーに入ってきて勝手なことをすれば「何勝手なことするんだバカ野朗」って言う」
なんていうか、何度も出てくる語だけど、この箇所だけじゃなくて読んでいるあいだずっとセクシーだなあと思った。これかーこれがセクシーかーと。そして俺もセクシーになりたいわーと。それからこのくらい強くありたいなと。なりたいなと。でもそのためには自分が何が好きか、何が嫌いか、何を守りたいか、何を排したいか、その峻別を強く持たなければならない。自分がやっていることの矜持を強く持たなければならない。どこまで強くあれるか。なれるか。ほんとね、問われますよねーと。というか、問うべきは人にではなく常に自分に、みたいな、というか。
という話でした。