『若い藝術家の肖像』を読む(58)夜のほうがもっとつめたい

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深津絵里の美しさというのかとにかく素晴らしさにずっと目を持っていかれながら、次の刹那に何が起きるのか、誰のどんな感情が発露されるのか、画面が明るくなるのか、暗くなるのか、まるでわからない暗中を模索しているような状態で2時間の映画を見続けることの喜びを噛みしめるというか喜んだ。
それは黒沢清の新作の『岸辺の旅』で、僕はこれは前も書いた気がするけれど「見るよ」と決めている映画についてはできるだけ情報を入れないようにしていて、だから先日『私たちのハァハァ』を見に行ったときにこの映画の予告編が流れた際は下を見て、音だけは否応なく入ってくるので、できうる限り排除しようと頭の中で歌をうたったり、そういうことをおこなった。
その甲斐あって、どうやら死んだ夫の浅野忠信と、深津絵里がたぶん妻で、どうのこうの、という話らしい、くらいの、かなり最小限の認識のままこの日を迎えることができた。
それで、風でカーテンが揺れる明るい部屋で深津絵里がピアノを教える場面から始まる映画は帰路のスーパーマーケットで買った白玉粉を使った白玉を作成する場面を妙に律儀に映しだして、それからすぐに「なんでこんなに不穏にする必要があるんだよ!」というやたらに不気味な画面が続き、そのすぐ後にあっけなく浅野忠信の帰還を迎える。
そういうわけで始まってものの数分で事前知識は尽きたので、あとはもうなんていうか、いったいどういった方向に話が展開されるのかさっぱり知らないですなので、ホラーになろうとSFになろうとラブストーリーになろうとアクションになろうとなんでも来いであった。そしてなんというか、いいですね、映画っつーのは。っていういつもの雑な感想に至る。
もうほんと、一寸先は闇で、深津絵里のわりと過剰な演技にしても、大友良英の壮大な音楽のタイミングにしても、隙さえあればホラーになる照明にしても、蒼井優と深津絵里のどんどんどんみたいな切り返しにしてもそこで見せる蒼井優の笑顔にしても、何もかもがまったく正しい方向に導いてくれないというか、見ているものと語られているらしい話とのあいだの違和と齟齬だけが続いていくようで、終わりが見えてくるまでのあいだ、見ていてずっと楽しかった。
それで先ほど「きっと」とか思いながら予告編を見てみたのだけど「やっぱり」で、笑ったのだけど、なんというか、それが勇気のいることで、たぶん大きな痛みというか損失を伴うであろうことは想像に難くないというか絶対にそうなるんだろうけれど、この貧しさはどこかで克服されなければいけないのではないか。こんな謳い方、招き方はやっぱり間違っているんじゃないか。
この予告編を見て「究極のラブストーリーとな…それはぜひ…」とか思って見る気になった人のかなりの割合が「言っていたのと違うのでは…」となるんじゃないだろうか、
とか思ってから、ヤフー映画とかのコメントとか見てみたのだけど、予期していたようなコメントもあったけれど必ずしもそういうこともないのかなあとも。人間を侮っているのは僕の方なのかもしれない。
映画館を出ると「あ、完全にこれは夏は終わったっていう事実を受け入れなければいけない日が来た感あり、秋であるならば僕はいったいなんの洋服を着たらいいのだろう、半袖のまま季節に置いていかれる」と思いながら町を抜け、友人たちと焼き肉を食うという、非常に楽しみな予定までのあいだ時間がぽっかりあいていたので、目的地の焼肉屋とほど近かったこともありクラフトジンをたくさん飲めるという店に行き、そこで店員さんにおすすめしてもらったジンの&トニックを飲んだ。美味しかった。シップスミスどうちゃらこうちゃらというやつ。
そういった行動をおこなったのは最近ジンを仕入れたからで、いろいろあるんだなあ、勉強というかになるなあ、とか思いながら、学び・気づきとしては「おいしいなあ」ということでたいへん有意義な時間になった。
そこで僕はその前夜に買った雑誌『スペクテイター』をリュックから取り出そうとした。
しかし、ちょっと待てよ…クラフトなジンを飲みながらスペクテイターの「ポートランドの小商い」特集を読むって、さすがにちょっとまずいんじゃないか…?なんかものすごい丁寧な暮らしというかわからないけどポートランドワナビーってそんな言葉いまでっちあげただけだけどそんな感じになっちゃうんじゃないか…?いやもちろん、店員さんは僕が開く本が何かなんて見ないだろうけど、見たところであれだろうけど、しかし誰であろう俺自身が見ているわけで… それは断じてやっちゃいけないことなのではないか…?自制すべきなのではないか…?と、そのような面倒な理性というか自意識の声に従い、『若い藝術家〜』を開くことにした。
「夜のお祈りの鐘が鳴ったので、ほかの生徒たちのあとから自習室を出、階段をおり、礼拝堂へ廊下を歩いてゆく。廊下はほのぐらいし礼拝堂もほのぐらい。まもなくどこもかしこもくらやみになって眠りにふけるわけだ。礼拝堂の夜の空気はつめたくて、大理石は夜の海の色だ。海はひるまも夜もつめたいけど、夜のほうがもっとつめたい。うちのそばにある護岸の下は、つめたくてくらい。でも、パンチをこしらえるため、湯わかしが炉の台にのせてあるだろうな。」(P33)
黒沢清だったらこの場面をどんなふうに撮るんだろうな、『トウキョウソナタ』の、役所広司と小泉今日子の、海はあれは夜だったっけ。青白い夜の海があって、空はだいたい雲が覆っているので月はわずかに見える程度で、でもそのわずかに顔を覗かせた月の明かりが海をわりとしっかり照らして、総じてなんか震えるほどひんやりした色調です、という様子を思い描いたので「完了」と思って本閉じ、ミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』を取り、二つほど読んだ。これ本当にいい。
翌日の今日は年の瀬で、風が冷たいながらも強い日差しでいつになくあたたかい、12月だっていうのにな、みたいなそんな日、という感覚だった。
たまに時間感覚をいろいろ間違えるときがある。今とかいちばんよくあるのは「これから暑くなるんだよなあ」という春と勘違いするやつ。