あの日々はいったいなんだったのか

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定食とん吉を始めて2ヶ月くらいが経つわけなんですけど、それで平日はフヅクエ営業開始を6時にして、というので、最近なんですけど、仕込み、4時から始めれば6時にはいける、ほぼ確実に、ということがつかめてきたため、定食やす吉が終わっていろいろ逆算したところ20分は取れるぞ、とかになるとコーヒー屋さん行くんですよ。
それでカフェラテお願いして、飲みながら荻原魚雷の『書生の処世』という読書エッセイを一つ二つ読んで、10分とか、そういう感じで出る、みたいな、そういうことをやっているんですよ。超リフレッシュっていう。
あるいは金曜日とかは「これ仕込みしなくていい的なあれ?」ということとかもあって、そういうときはコーヒー屋さん行くんですよ。それでウィンナーコーヒーとかお願いして、飲みながら上田岳弘の『私の恋人』読んだり、したんですよ、1時間とか1時間半とか。超リフレッシュっていう。
それで思い出すんですけど、定食とら吉始める前って僕は15時くらいまではまったくの自由の身で、それで14時とかにコーヒー屋さんに行くんですよ。それでカフェラテお願いして、この記事なんかそうなんですけど、超リフレッシュっていう。
しかしこの時分、いったい何をお前はリフレッシュさせていたんだ!?と今になると思うんですよ。まるで想像がつかない。想像がつかないというか体感的に想像がつかない。起きてからダラダラして、本読んだり、見たいものがあれば映画見に行ったりして、基本的に起床から14時15時とかの時間を貫いていたのは「ダラダラ」だったはずで、その身でコーヒー屋さんに行っていったい何をリフレッシュさせていたんだ!?と。
いや、それが不当だとは思わない。あれはそうだたしか、思い出した、リフレッシュというよりは切り替えスイッチみたいな感じとして機能していたんだ。カフェラテ飲んで、「さあ、始めよう」みたいな。まあ「さあ」とか言って意気揚々と店を開けたところで人なんて誰も来やしないじゃないか、みたいなことが大半だったわけなんだけど、それでも切り替えをしたかった、そういうものだった、ということを思い出した。
それを思い出すともはや昔の自分に呈すべき疑問もなくなってしまったし「実際そういうの大事だよね」ととても思うというところでこの話ももうおしまいというかどこにも辿り着かなかった感が非常に強いのだけど、まあなんというか、牧歌的な時代だった、ということだろうか。この言葉は、このシチュエーションじゃないところで、フヅクエ自体が大変ちゃんとしましたというあとで使うつもりだったのだけど。間違っていま使っちゃったよ。
photo by 東間 嶺