まるで知らないところで誰かが救われているときっていうのはいくらでもあって、それは本当に魔法のような超プレシャスな瞬間なんじゃないか、っていう話。
なんとなくしょぼーんとして、ちょっと一息を挟んでおこうと思って以前一度だけ行ったことのあるコーヒースタンドに行った。
店内に入るとフィッシュマンズの「いかれたBaby」が流れていて「人はいつでも見えない力が必要だったりしてるから」と佐藤伸治が歌っていて、僕も一時期フィッシュマンズはたまらなく大好きで毎日聞きます摂取が必要なのでという感じで、久しぶりの歌声に懐かしいなと思いながら順番を待った。
コーヒーを飲もうと思っていたのだけど、前のお客さんが受け取っているのを見て、たまにはカフェラテもいいな、と思ってカフェラテを頼んだ。
ミルクのスチームとエスプレッソの抽出の気持ちいい音が聞こえたのち、ハートのラテアートが施されたカフェラテを受け取り、煙草も吸いたかったので外にあった古材を使った脚立に腰掛けた。向かいには公園が広がり、遊んでいる子供はいなかった。そのさらに向こうには紅葉した木々が茂っていた。
それに至るための伏線が張り巡らされていたとも言える。
しょぼんとした気分、懐かしいフィッシュマンズ、気持ちいい公園の眺めと工事期間を思い出させる脚立(ちょっと猫背になって腰掛ける感じ、その姿勢がすごくすごくいい)。
でも人生なんてそもそも伏線で満たされているようなもののような気もするし、その瞬間がマジカルなものだったことには何も変わらなくて。
カフェラテを口に入れた瞬間、「な、な、なんじゃこりゃあ!」ってなったっていう話です。ミルクとエスプレッソの別種の甘みが口の中でわーっと広がって、喉を通ってお腹に落ちて超あったかい、っていう話で、なんて甘くて優しいカフェラテなんだ!と度肝を抜かれて、それでそこまでに張り巡らされた伏線と相まって、「なんかもう全部許された」みたいな感が極まった。
すごいぞ、すごいぞこの瞬間は、と思いながら、ほとんど泣きそうになりながら、煙草を一本吸い、カフェラテを飲み干し、帰った。泣きそうな感動の余韻はお腹のところに沈殿して、そのあとも長い時間持続した。
そんな感動屋さんだったっけ、一体どうしちゃったの!?という感じが我ながらにするのだけど、そういうことってあるんだよなあと。カフェラテが、一瞬にして掛け替えのない一杯になるっていうことがこうやって起きるんだよなあと。すごい言い方だけど、生きるよりどころになるような一杯っていうのがありうるんだと。
同じことが、フヅクエが提供するそれは食べ物でも飲み物でも時間でもいいのだけど、フヅクエが提供する何かしらによって生まれたら、それはもうとんでもなく嬉しいことだな、と。それを目指したいし、それが起きた瞬間は超すごいことものすごく騒がしいことが起きているにも関わらずぱっと見は何も起きていないから僕はまるで気がつかないのだろう。それも含めて素晴らしいことだ。
そうやって、佐藤伸治の歌声はなんもかんもを超越して鳴り響き続けるわけです。
「君は見えない魔法を投げた 僕の見えないところで投げた そんな気がしたよ」
(店内で撮られていて、なんか上手そうだなーと思ったため「ください」と言っていただきました)