『若い藝術家の肖像』を読む(43) よし。やったぞランカスター!赤ばらの勝ち!

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雨がたいそう降っていて昨夜は降っていなかったが遅い時間まで仕事と呼ぶほかないことを大変愉快な心持ちでウイスキー飲み飲みおこなっていたため寝るのが遅くなり今日は起きたら10時半のアラームがビービー言っており慌てたところシネマヴェーラに10時55分に着くことができた。 エルンスト・ルビッチ特集がおこなわれており今日は『生活の設計』と『牡蠣の王女』だった。それを見た。
僕は「生活の設計」という言葉がけっこう好きで初めて見て以来たまに使いたくなる感じなのだけど、初めてこの映画を見たのはいつだったか、エバーノート先生に聞いてみたところ2006年8月26日のことであり、8月7日には『極楽特急』を、9月6日には『街角/桃色の店』を見ている。ちょっとルビッチ見てみたいな、となったのだろう。いずれにせよ、なんも覚えておらず、まったく初めて見る映画のように見た。すっごいいいですねこれ。なんかほんとニコニコしちゃうというか、でもニコニコしながらもなんとなくニコニコだけでは済まないというか、だってほら、という感じだった。
それで次の『牡蠣の王女』までの時間で、映画館に来たら読む、みたいなことになっちゃっている『若い藝術家の肖像』を開いたわけだった。本当に今そうなっちゃっている。
「廊下の空気もひやりとする。気分がわるくて、しめっぽい。でも、じきにガスがついて、小声で歌うような小さな音をたてながらもえる。いつもおんなし音。遊戯室にいる生徒の話し声がやむと、その音が聞える。
算数の時間だった。アーノル神父が黒板にむずかしい問題を書いてからいった。
−−さあ、どっちが勝つかな?がんばれヨーク!がんばれランカスター!
スティーヴンはいっしょうけんめいになったが、とてもむずかしい問題なので頭がこんがらがった。上着の胸にピンでとめてある、小さな絹の白ばらのバッジがふるえだした。算数は得意でないのだが、ヨークが負けないよう、いっしょうけんめいだったのだ。アーノル神父はむっつり顔をしているが、おこっているのではない。笑っていたから。そのときジャック・ロートンが指をぱちりと鳴らし、アーノル神父は練習帳をのぞきこんで、いった。
−−よし。やったぞランカスター!赤ばらの勝ち!さあ、ヨーク!がんばれ!(P22-23)」
ここで教鞭をとるアーノル神父は僕の頭の中ではトリュフォーの『大人は判ってくれない』の嫌らしさが顔ににじみ出たような教師の姿で再生されて、そうなると、この場面でスティーヴンのカメラには映ってはいないけれど、教室のどこかには顔をノートにめちゃくちゃ近づけて手をどんどん汚しながら書いて書いて書き損じてノートやぶきながらいっしょうけんめいというか無邪気にペンを動かし続ける生徒もいるはずで、それから、課外授業みたいなやつで学校の外に出れば大人びた歩き方で口笛を吹きながら道路を渡る愛くるしいちびもいるはずだった(あれ?同じだっけその二人って)、もちろんアントワーヌ・ドワネルもどこかに座っている。
『牡蠣の王女』は牡蠣会社社長とその令嬢の話である必然性がまるでなさそうな話だったけれども、何ごとにも動じない社長やとち狂った娘の暮らしぶりを見ていたら、なんというか、「うわあ、こりゃ、この人たちほんと金持ちだわ」となった。誰かの何かに対してこんなに強くそれを感じるのは初めてなんじゃないかっていうような感覚だった。おびただしい数の使用人を見ていたらそれが実感されたのだった。僕にとって何よりも人を金持ちたらしめる記号っていうのが人間だったのか、という驚きというか何かというか驚きに近いあれを感じた。
でまあ、すごいんですよこれもまた、という感じだった。突如フォックストロットを踊り狂う病が結婚式の会場中に感染したりとか、女だらけのボクシング大会がやはり突如開催されたりとか、なんか躁的な脈絡のなさで、元気、元気、と思った。明日も見に行こうかな、と今思っている。
今週末からは「相米慎二を育てた男 プロデューサー伊地智啓の仕事」という特集で相米の作品をまとめて見られるということで、どうしようか、俺、生活の設計をちゃんとしないといけないのに!悩ましい!というところです。
雨が結構のところすごくて、こんなにも雨だったら当然あれで、床にでも寝そべりながらお客さんか閉店時間の到来を待とうか、そのくらいしても許されるのではないか、という気になっている。で、お客さんが仮に来たら、寝そべったまま「死は生に先行するんだ。死は、生きることの前提なんだ。俺たちには、厳粛に生きるための厳粛な死が与えられていない。だから、俺が死んで見せてやる。皆が生きるために。いいか、よく見てろよ!これが死だ!」と言って窓あけて頭から飛び降りるんだ。