走る、読む、働く

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これまで昼間にしか行っていなかったジムに昨日は閉店後に行って、走った。2日に1回30分で5km走るというのがいつもやっていることなのだけど、昨日は夜で、夜はいつまでも続くように思われたため1時間かけて10km走った。偉業達成の瞬間である。
なんというか、キープ健康のために走るぞ、というのがあり、でもそんなにそこに時間使いたくないから30分、というところでそうしてきたのだけど、最初は30分の時間設定を画面上でやっていた。でもそうするとチラチラと画面を見てしまって、あと20分…あと10分…と残り時間を否応なく意識してしまうのが気分悪くて、その設定をすることはやめた。
また、当初は音楽を聞いて走っていたのだけど、今何曲目だからだいたい何分くらい経った、ってことは残りは、とか頭の中で計算してしまって「邪念だな」と思ったので音楽を聞くのもやめた。
何も聞かず、足元を見ながら去来する考えに身というか頭を委ねて走って、30分くらい経つよなそろそろ、みたいなところで経過時間を確認して30分走り切る、という感じでここのところは走っている。
とは言え頭まっさらかと言えばそんなこともなく、汗のかき具合とか膝の痛み具合とか、そういうのでなんとなく時間測れちゃうところがあるので残り時間感覚というのは消えないのだけど、だいぶ薄れるのでよい。
昨日は夜だし飽きるまで走るか、みたいなところで、いつやめてもいい、どこまで続けてもいい、という感じで、疲れてきたかなーでもまだいけるよなーとかそういうことをしていたら1時間経って、1時間経ったらマシンが止まったので足も止めた。たいそう気持ちよかった。
残り時間のブロックを削っていく作業よりも経過時間のブロックを少しずつ足していくような感じがとてもいいというか。
逆算が始まるとしんどくなる、あるいはつまらなくなる、というのは本を読んでいても思うことで、最初のうちは読んだページ数が増えていくというかブロックを足していく感じだけど、終わりが見えてくると「あとこれくらいで読みきれるかな」みたいな削っていく感覚というか「あ、邪念」というのが芽生えてなんか不健全な感覚になりがちで。
滅多に読まないけど文芸誌で長編とか読むといいことがあって、もうずいぶん昔のことだけど阿部和重の「グランド・フィナーレ」を文藝春秋で読んだときに、左ページの下段の最後の行くらいで終わって、意気揚々と次のページをめくったら終わってたことを知って、「わ、終わったのか!」となってそれがとても気持ちがよかったのだけど、あの感覚でいつも読めたらいいのになと思う。終わりのない、あるいは終わりの見えない読書をしたい。(保坂和志の「この人の閾」のドストエフスキーとか長い小説を読む主婦の話を思い出す。ああいうのがいいなと思う)
店の営業の感覚もわりとそれで、2週間後とかに休みを設定したりすると「あと何日だな」みたいな気分が起こってなんとなく嫌で、だからよほどな予定がなければ先のことは決めずに「まあいけるとこまでいって、疲れたとか予定入ったとかになったら休むか」というふうにしている。(さすがに当日とかだとあれなので、せめて数日前には決めないととは思っているけど)
で、2月25日に休んで、一回予定があって20時半で閉店という日は設けたのだけど、それ以外は休まず、2週間経つくらいからそろそろ休もうかな、休もうかな、とか思いながらなんとなく休みそびれていたら4月に入ってしまって、それで今週の木曜日の9日にやっと休むことにしたのだけど、これが2月25日の段階で「次の休みは4月9日」とか決めていたらそうとうしんどいだろうなと思って、あと1ヶ月…あと2週間…あと10日…あと5日…ではなくてもう1日、もう1日、まあもう1日いくか、みたいな感じだからできるんだろうなと。
以上、休みのお知らせでした。
photo by 斉藤幸子