ラブ・ラグジュアリー(『暇と退屈の倫理学』を読んだその2)

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以前も「ラグジュアリー」という言葉をどこかに書き付けたような記憶があるのだけど、僕はラグジュアリーとは縁遠い人間なのでラグジュアリーってなんのことなのかわかっていなくて、そんな人間がこう言うのだから笑ってしまうのだけど、「フヅクエの時間を過ごすことは一つのラグジュアリー体験である(というかそうありたい)」
とかなんとか。
なんか、「とかなんとか」とか言ったけどそういうつもりってわりと真剣に、最初からあって、「なんつーかこう、オレが思うに、ラグジュアリーな感じ?がいいんすよね〜」とか、飲んだりしている時に肩に掛けたセーターで首を締めるセルフプレイを楽しみながらそういうことを言ったりもした、という記憶は今のところ幸いないのだけど、とにかく、なんとなくラグジュアリー。
「本を読むあるいは一人で過ごす」ということそれ自体はいかなる場所でもできることだ。賑やかなカフェやファミレスでだって読めるし一人でいられるわけだし、どこでもできる。
あるいはもう少し狭めて「静かに過ごす」ということについても、いくつかの選択肢は簡単に浮かぶ。ネットカフェ、図書館、電車の中なんていうのも状況次第だけどそれに該当するかもしれない。自分の家でももちろんいい。トイレの中だっていい。
本なんて便所で読んでろみたいな、それはそれでまったくもって正しい態度というか、必要不必要で言えばフヅクエみたいな場所なんて不必要で。
で、じゃあ不必要は不要かっていうと。
というところで、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読むと、浪費=贅沢を取り戻すこと=物そのものを受け取ること=気晴らしを存分に享受すること=人間であることを楽しむことによって、消費=(物そのものではなく)觀念を受け取ることの無限ループという現代消費社会によって引き起こされる退屈=疎外の状態から脱することができるかも、みたいなことが書かれていた。
19世紀の社会主義者ウィリアム・モリスの言葉が引かれていてそれが著者も言うとおり「なんとすてきな答えだろう」という感じなのだけど、「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない」と。なんとすてきな答えだろう。
だからここでフヅクエはバラになりたいのであってバラってわりとなんかラグジュアリーっていう感じですか?じゃないですか?という感じで、ラグジュアリーな場所および時間として機能したいっていうのがあって。
まあちょっと、言葉の細かい定義はなんでもいいんだけど、贅沢も浪費もラグジュアリーも、いやほんと、なんで不用意にラグジュアリーなんて言葉出しちゃったんだろう。そもそもわかっていないラグジュアリーを連呼しているせいで色々よくわかなくなってきた。
贅沢も浪費も、「日常的な楽しみに、より深い享受の可能性があることを強調したい」と本書にもあるし必ずしも金銭を介して手に入れるものだけではなくて、要は桜を見て「きれい」とか、あるいは桜を見て「超きれい」とか、そういうのも贅沢であり浪費でありだと僕は言いたいのだけど、だからフヅクエラグジュアリー宣言も高級店志向とかそういうことではもちろんなくて、なんかこう、だから、豊かさってことかな、という話かな。
あるいは「愛でる」ってことかな。物を、時間を、対象を愛でる。その気分が自分に返ってきてモアモアハッピーみたいな、そういう話かな。
だから、昨日書いた「ゆっくりしていってください」っていうのも、なんかこう、豊かでセルフ愛でるな時間を過ごしていただけたらいいよねってこちとらとしてはとても思っていますよ、みたいなことなんじゃないのかなっていうところかな。
そういうわけでフヅクエは「ラグジュアリー&ラブ」を標榜しようかな、という話になっちゃったかな。
違うかな。違っては全然ないんだけど、要はこの人生とかいうしんどかったり退屈だったりする厄介なものの前で、どうやって生き抜くかっていう問いと関わっていたい。浪費でも、あるいは逃避でもよくて、そういう態度と関わっていたい。そういうことだろうか。要はやっぱり何かしらストラグル関係みたいなところだろうか。浪費ですらもストラグルの一形態であるとは、人生とはなんとも苛酷なものですね!
という話かな。
photo by 東間 嶺