『若い藝術家の肖像』を読む(30) P14〜16、おわびしな、おめめをくりぬくぞ

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日記のように、気ままなステップを踏むように、読み、書く。
そんなことを前回書いたけどやっぱりほったらかされた。
書を持って町に出ないと読まないのか、それは知らないが今日もおでかけ日和の小雨だったのでリュックに本を入れて出かけた。
何度か書いているように土曜か日曜のどちらかはだいたい毎週ファーマーズマーケットに行っていて、だから行った。
漬物に使う赤かぶが喫緊の必要としてあり、その他なにか葉野菜などあればいいなと思っていたところ、かつお菜とセリフォンという聞いたことのなかった葉野菜を売っているところがあったので、それらを購入した。あとはきゅうりやズッキーニなどを買った。
そのあとに中目黒に行った。最初に行ったのはBRICK & MORTARというお店で、以前こちらで買った工房アイザワのフォークとスプーンを買い足したくて行ったところ、なかったためメモパッドを買った。
次に四角いお皿がほしいなと思ってSMLに行ったところ、今回はお皿はパスして鳥取の因州和紙を使ったノートを買った。
カトラリーとうつわのつもりで行ったら紙ばっか買ってしまった。
そういうことだったのでコーヒーでも飲まないと気が済まないような気がし、帰り道でもあったのでThe Worksに行ってカフェラテとクッキーをいただいた。窓側のカウンターのところに座り、まだ咲かない桜の木と曇った空を眺めながら、本を開いた。
「チャールズおじさんとダンテが、てをたたく。このふたりは、おとうさんとおかあさんより、としうえで、チャールズおじさんは、ダンテよりも、としうえだ。
ダンテのたんすには、ブラシがふたつ。くりいろのビロードがついているブラシは、マイケル・ダヴィットのため、みどりいろのビロードのついてるのは、パーネルのため。うすようしをとってあげると、ダンテはいつもカシューをひとつぶくれる。
ヴァンスのうちは、しちばんちにすんでいる。べつのおとうさんとおかあさんがいる。アイリーンのおとうさんとおかあさんだ。おおきくなったら、ぼくはアイリーンとけっこんする。テーブルのしたにかくれると、おかあさんがいった。
−−さあ、スティーヴンはおわびするわね。
ダンテはいった。
−−さあ、おわびしないと、わしがとんできて、おめめを、くりぬくわよ。
《おめめをくりぬくぞ、
おわびしな、
おわびしな、
おめめをくりぬくぞ。
おわびしな、
おめめをくりぬくぞ、
おめめをくりぬくぞ、
おわびしな》」(P14〜16)
チャールズおじさんとダンテ。闖入と言いたくなるような前触れのなさで現れた二人組の名前を見て、チャールズ・ディケンズと神曲とかのダンテ?みたいな感じというか、だから、だからというわけでもないけど紳士が二人、みたいなつもりで僕は読んでいた。
そうか、ダンテはブラシを二つも持っているということは洒落者なんだな、子どもの髪をとくのか、ダンテおじさんは、みたいな感覚だった。うすようしってなんだろう、と思ったら原文を見たらティッシュペーパーと書いてあった。
「わしがとんできて、おめめを、くりぬくわよ」
一人称は「わし」なんだな、ダンテは。しかし語尾の「わよ」はなんなんだ。どういうキャラクターなんだ。ん、女性なのか?でも、だとしたら「わし」ってことは、けっこうおばあちゃんっていう感じなのか?田舎の女性みたいな感じなのか?等々の混乱に陥っていたところ、原文を読んだら女性で、「わし」に関しては「私」ではなくて「鷲」だった。イーグル。
一つの場面が、くるくると頭のなかで変転する。ひとまずそれ楽しい。
そして歌。冒頭の「とてもたのしかったころ」も怖かったけれども、ここで歌われる歌もなかなかにおそろしくて。なんなんだよおわびしな、おめめをくりぬくぞって。「おわび」っていう語の選択がどうにも不気味な感じなんだと思う。ちょっと大人言葉というか。アポロジャイズなのか。アポロジャイズってやっぱりちょっと硬い感じというニュアンスでいいのかな。
アポロジャイズ、アポロジャイズ、プルアウトヒズアイズ。
「ヒズ」なんだ。っていうので妙な感心というか。こういう歌のことはもちろん何も知らないけれども、ユアじゃないんだね。子どもに向かって何か教えを与えるというか脅しを掛けるための歌なのに、目の前の君じゃなくて彼の目なんだね。えー何この距離感、英語ってわかんないなー、愉快だな。そんなふうに思いました。
まあなんかそんなふうに、ここまででも十分に楽しんでいるのだけど、ちょっとよくないというか、原文を参照することに依存した楽しみ方になっている気がする。そういうことをやりたいわけじゃないんだ。ただ読みたいだけなんだけど。まあいいんだけど。
それにしても色々と、子どもゆえのそれなのかもしれないけど名前のあらわれ方が唐突でいい。
ベティ・バーン、チャールズ、ダンテ、マイケル・ダヴィット、パーネル、ヴァンス、アイリーン。ほとんど、何かを説明するためというよりもそのあとに出てくる一つの名を隠そうとするかのような、カモフラージュしようとするかのような固有名詞の連打に見えなくもない。
大事なことが唐突に知らされた。「ぼく」であり「he」であり「くいしんぼぼうや」であるところの存在はどうやら「スティーヴン」というらしい。
この歌が終わると、次の段落から漢字が使われ始める模様。スティーヴンの物語がいよいよ始まるか。
つって店を出て店に行って仕込み等おこなって日曜の営業に、少なくとも平日よりは忙しくなるであろう日曜の営業に備えて、とか思っていたら開店から2時間くらい経ちますがこれ書き始めて書き終えられる程度にというか平日以上に暇で、「え!頼みの、頼みの週末なのに…!?」と愕然としているナウ、みたいなところ。
ん、というか、彼はスティーヴンってことでほんとにいいのかな。なんでおかあさんは「スティーヴンはおわびするわね」って三人称で話してるんだろう。本当に呼びかけなのかな。
三人称で家族に語りかける、そんなのをごく最近読んだな。ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』。実に不気味な挿話としてそれは書かれていたけれど、ジョイスのこれらのページがまとっている雰囲気も似たような不気味さであり不穏さだったりするのかな。わからんね。