『若い藝術家の肖像』を読む(29) P14、恵比寿映像祭、無言日記/201466

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今日は恵比寿に出かける用があったのでリュックに『若い藝術家の肖像』を忍ばせた。
恵比寿映像祭で上映される三宅唱の『無言日記/201466』を見るためで、僕は彼の映画がとても好きだから、滅多にこの映画見られる機会ってなさそうだから、というので今日行った。その上映の前とかに読むことで、「そういや恵比寿の日仏会館に無言日記見に行った時あれ読んだよなあ」というのをこう、貼り付けるみたいな、なんかいいかな、そういうの、というところだった。
恵比寿に着き、チケットを購入し、ぽかぽか陽気、時間はまだたっぷりあったのでガーデンプレイスの広場のところに出ると瀬田なつきの『5windows eb』が上映されていて、僕は上の、なんていうの、柵っていうの?手すり?やっぱりこういう語彙も僕は持ってないんだよな、手すり関係とかに限らず。生活のあれこれを指し示せない。
まあいいや、上映されていて、2階のところで僕は
いや、やっていたあの広場はどちらかというと地階という感じがしないか?だとしたら1階?
まあいいや、だから斜め上から見ていて、で、ちょうどとんでもなく素晴らしいシーンのところで見始めたので、「うわ…!こりゃまあ…!」となってもう1周見た。赤いコートを着る女の子が出ていた。赤いコートっていうと、ナンバーガールの『日常を生きる少女』を思い出すね。あの娘も可愛い赫の外套を着込んだりするんです。中村ゆりかはそうしていたし染谷将太との距離はずっと曖昧で、彼女と彼の視線の先には何が映っているのか、画面は何も保証してくれなかった。そういうあとの二人の邂逅は驚くほど驚きをもたらして、前述の「うわ…!こりゃまあ…!」に至ったわけだった。
恵比寿ガーデンプレイスが舞台になっているその短編の最後、中村ゆりかが階段を下りた。ちょうど僕が立っていた位置ぐらいから撮られたであろう階段が映されて、そのスクリーンの向こうにはその階段も同じ角度で見えて、という。今だれも歩いていないその階段をかつて、それは2015年2月9日だったのだろうか、中村ゆりかは踊るような足取りでたしかに下りた。そのことがやにわに実感され、不思議な感覚に陥った。今そこにいない中村ゆりかの残像が広場を踊りそして駆け抜けていくようだった。幸せにとも不幸せにとも決定できない表情で、彼女は踊った。
そういうわけで『若い藝術家の肖像』読もうと思っていたけどわりといい時間になって、それで『無言日記』の上映がある日仏会館ホールに入って、でもまだ少し時間があったのでホンマタカシのインスタレーション『最初にカスケがやってくる』を見た。4面のスクリーンが不規則に冬の真っ白の風景を映し出したり何も映さなかったりして、そこで狩猟がおこなわれ、鹿が息絶え、屍肉をかわいい鳥たちがついばんでいた。白い中の血はひときわ赤かった。赤いなーと思った。
というのをしていたらいよいよ開場時間になってしまって、あわてて上映する1階におりて入場して、10分くらいあったので、そこでやっと本を開いた。
「《おお、みろりのばやはしゃく》
おねしょをすると、はじめはあたたかくて、それからつめたくなる。おかあさんが、あぶらがみを、しいてくれる。へんなにおいがした。
おかあさんは、おとうさんより、いいにおいがする。おかあさんは、ふなのりのうたをピアノでひいて、ぼくを、おどらせる。ぼくは、ふしにあわせて、おどる。
《トゥラララ ララ
トゥラララ トゥラララディ
トゥラララ ララ
トゥラララ ララ》
チャールズおじさんとダンテが、てをたたく。このふたりは、おとうさんとおかあさんより、としうえで、チャールズおじさんは、ダンテよりも、としうえだ。」(P14)
という箇所を読んだ。
最初のやつはよくわからないんだけど、原文を見ると「O, the green wothe botheth.」となっていて、わからないんだけど、幼児言葉というか舌足らずな感じになっているのかな。それで「みどり」が「みろり」みたいな感じになっているのかな。
僕が一番いいなと思ったのは見間違えた箇所で、「ぼくは、ふしあわせに、おどる」に見えた、というところ。ママの弾くピアノにあわせて男の子が不幸せそうに踊っている様子が想像され、とてもよかった。
それからてっきりママとくいしんぼぼうやの二人、あるいはいたとしてもパパくらいの感じ家族水入らずの場面だと思ったら、そこに実はチャールズおじさんとダンテという二人の人物がいたという点。こういうのってすごく好きで、カフカを読んでいるときとかも「え…!部屋に人、いたんですか…!」みたいなのよくあった気がするし、カミュの『異邦人』を読んだときも、なんだか異様に(多分それは僕のモードがそうだっただけだと思うのだけど)、文章というものの線状性が際立つような感じが面白かった記憶がある。
文章が本来的に持つ全体を一望させることのできなさ。それはとても面白い性質だとこういうとき改めて思う。
三宅唱の『無言日記/201466』はboidマガジンで連載されていた、iPhoneで撮った映像日記の2014年の1年分を66分にまとめた作品で、冬のどっか外国から始まって冬の日本のどこか「年越しそば」って書かれたのぼりが映る画面で終わるのだけど、まあ、すこぶる面白かった。「べらぼうに面白い」と思いながら見た。
一つ一つは10秒から長くてもどのくらいだったんだろう、30秒とかなのかな、で、上映前の挨拶のときの監督曰く、積極的に何も考えないで撮るようにした、犬とか猫がちらって見るみたいな見方をしようとした、ということで、監督自身も最初はこれの何が面白いのかと思っていたそうなのだが、次第に、こんなものが映っていたのかという発見があって面白くなった、というようなことを言っていて、日常だったり遊びの場だったり移動の時間だったりの画面の連鎖は、なんていうのだろうかな、カメラが全体を一望するがゆえの認識や視線の追いつけなさみたいなものをとても感じさせるというか、「今のこの画面のあそこにあれ映ってたけど、あれ映ってるの見たの俺一人だけだったりして、監督すらも知らなかったりして」みたいな、それは、映画ってもしかしたら全部そうなのかもしれないけど、剥き出しで、整理された認識に回収し切らせない時間が、カットの数だけ、だからおびただしい数あって、なんだかそれはすごいことだと思った。
それから、やはり赤くて。バカみたいに真っ赤な車体のトラックが通って、そのあと佐川急便のトラックの青があり、また赤いのが来る。それから工事現場、重機が赤いし空も赤いしなんと赤い風船まえ飛んでいるし。それから赤い自転車が停まっていたりと、しばらくのあいだ赤がどんどん目に入ってくる感じで、今日はコートも赤けりゃ屍肉も赤いし何かと赤いなあ、と思いました。
いずれにせよ、66分に濃縮された一年分の視線が若い藝術家の肖像を作り出している感じがあり、ひとつひとつの場面が、そしてその連なりが、なんともいえずプレシャスなものだった。彼は、見ている、そうやって、生きている、という感じがする。 けっこう、見たすぐ後に「もう一度見たい、なんなら今からでも」という気分になった。圧倒的に取りこぼしている感というか、もっとそこで何が起きていたのか知りたいというか、100回見ても発見が尽きなさそうで。(今打ったそばから思い出したけど『Playback』も同じ感覚になったんだった。この時間を何度でもループさせたいと。なんなんだろうなこれは)
発見。自分は発見フェチであり、記憶フェチではない、と挨拶のときに言っていたように、それはだから旅の、2014年の追憶ではいささかもないのだけど、どうしたってメカスを思い出してしまう。
日記映画のくだりとか、『無言日記』のそれとは多分まったく性質が違うよなと思うのだけど。日記映画といえば恵比寿映像祭ではかわなかのぶひろの作品も展示されているみたいで、そういえばもう何年も前、岡山のペッパーランドであれはオールナイト上映だったか、かわなかのぶひろの映画を見続けたことがあった。それを思い出した。
『無言日記』を見る前に考えていて、見終わってからより強く思ったことがあった。
ほとんど『若い藝術家の肖像』と関わりを持たないようなことでも、『若い藝術家の肖像』という一冊の小説とともに暮らしていく様子を、もうほとんど日記のありようで綴っていったら、それだけで何かしらの肖像画ができてしまうんじゃないだろうか。そしてそのクソみたいに長い時間の堆積とともに出来上がった肖像画はなんかけっこう面白いというか少なくともユニークなものになるんじゃないか。だからこの連載というか企画はもはやこんな調子で「個人ブログですか?」という様相を呈していってオッケーなんじゃないか。
え?もうとっくにそうなってたよ?というふうに思われる向きもあるかもしれないけど、だからこんな感じで、トゥラララと、しあわせにでもふしあわせにでもふしにあわせてでもなんでもいいから踊りながらやってみようかな、しばらく。楽しいし。とか言って、明日には真面目にテキストと向き合ったりしているかもしれないけど。その可能性は低い気がするけど。
しかし、恵比寿映像祭なんだかおもしろかったな。なんかたくさん見どころありそう。と思ったらあのあと17時からジョン・カーペンターの爆音上映してたのか…すごいたのしそう…