『若い藝術家の肖像』を読む(28) ベティ・バーンの不毛な夜

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2日続けて飲酒をしないという夜を過ごしていて昨日はそういう気になったからで、今日はがんばって飲まないようにしているというふうで紅茶とコーヒーを飲んだ。お酒を飲みたい。紅茶は昨日から加わった愛知県の新城市の鈴木銘茶という和紅茶で、赤い。コーヒーはタンザニアのキレマ チニ&パリッシュ生産組合というやつで、どっしりしてすごく好きな味。今回はもうひとつがルワンダのムショニステーションで、こちらはあっさりで、華やかともまた違う感じなんだけど、おいしくって、すきなあじ。
味を説明する語彙を引き続き僕は持っていない。
「ベティ・バーンは、レモンのあじのする、ねじりあめを、うっている」と言うくいしんぼぼうやレベルに味ってどう言葉にしたらいいかわからないままでいるし、別段それでいいような気もしている。
ページが進まない。1ページ目で止まっている。
路上生活者であり飴を売ってもいるらしいベティ・バーン。僕の路上生活者のイメージがそうなのか、勝手におじいさんくらいの人を想像していたら、訳をみたら「she」ってなってたから女性で、あ、ベティってそうか、ベティだもんな、ってなったのだけど。 で、そのベティ・バーンのByrneが気になったりして、え、バーンってアイルランドの姓なの?てことはデヴィッド・バーンとかもアイルランド系だったりするのかな?みたいな、だったらだったでなんなんだっていう話なんだけど、いろいろがいちいち気になるし、というか本を開く気に最近はならないし。
でもジョン・ウィリアムズの『ストーナー』は違って、あ、俺どんどん読んでる、と思ったのだった。小説を読んで、小説にかぎらずだけど本を読んで、自分が喜んでいるかいないかっていうのは実にわかりやすくて、本を持つか、開くか、勝手にそうしているかどうか、というのがとてもシンプルにそれだねと思う。
高校生の時に村上春樹を読んで、それはもう、本当に「ずっと読んでいたいです!」となったというのをよく覚えている。思い出すのは2つの場面で、一つは(なぜか選択科目で履修してみた)ポルトガル語の授業中に机の下で読んでいたところ。それからバイトの10分休憩のときに読んでいたところ。その2つの場面をよく思い出す。よっぽど読み進めたくてしかたがなかったのだろうなと思う。『羊をめぐる冒険』だったと思う。
で、読み進めようとしない『若い藝術家の肖像』がじゃあ悪いかというと、これは全然違うというかまったく別問題というか、だってなんせまだ1ページ目だし。それに、この企画というか連載というかの性格上、ぐいぐい読み進めてしまってはいけないのだし。だから逆に、逆かどうかわからないけど懸念はあって、読んでいてドライブが掛かって、「どんどん!」というモードになったときに、この連載というか企画がそれを妨げる、ということだ。
幸せな読書をわざざわ妨害するこの企画というか連載というか。そういうことは起こりうることだ。
とかなんとか、本当にただの雑記になっているこんなことを書いている暇というかあれがあるなら、ちょっと読み進めればいいのに、と思わないでもない。明日あたり次のページに進んでみるかな。3時。ぐだぐだと夜は更けていく。ボアノイチ!
photo by Luca Vanzella