ジョン・ウィリアムズの『ストーナー』は、これこそが藝術家の肖像なんじゃないか、それも最上級の、という鮮烈というか鈍いというか驚きと痛みと喜びを僕にもたらし、また、昨夜に代官山UNITで見てきたPunpeeやOMSBやS.L.A.C.Kのライブは、何年ものあいだ僕を支え救い鼓舞してくれた音楽を作ってくれた彼らのライブはまた、若い藝術家たち、実にがんばってんなーというものであり、様々な様々がよぎったのか、なにか、S.L.A.C.Kのライブのあいだ僕は頬を涙でびしょびしょに濡らし続けていたのだった。
つまり、これ、もはや『若い藝術家の肖像』読まなくたってよくね?という気分になった、ということではいささかもなかった。
しかし、しかしではないが、上記それらのいずれもが、Lifeはworthなのかを問うて、その末にあるいは途上で「そうである」と答えるものだった。「そうである」に至るまでに様々なストラグルがあり、ストラグルがあるからこそWorth Lifeと歌えるのかもしれなかった。ジョイスはこの小説で何を問うて、何と答えるのか、あるいは迷うのか。闘うのか。それにしても「Worth Life」って英語的に正しいのかとか思っちゃうのだけど、どちらでもかまわなかった。生きるに値する人生ってことでそれでよかったしそれがよかった。
SIMI LAB - Worth Life at タワーレコード梅田NU茶屋町店 2014/03/21 - YouTube
閑話休題。いや閑話ではない。本質という言葉を僕はうまく使える気がしないけれども、閑話に思えるものはもしかしたら本質というか一番大事なことなのかもしれなかった。一方でペラッペラの閑話しかしようとしない、空気読むのがジョブですみたいな手合いはいっそそのまま空気にでもなってしまってくださいみたいな、なんだこれ、いきなり妙に憤ってきた。突如として堪忍の袋が張り裂けそう。
OMSB “HULK” - YouTube
閑話、改めて休題。
ジョイス、1ページ目。まだ1ページ目。前回というかいくらか前に丸谷才一訳だと「ぼく」となっている主語が原文では「he」であることを見た。めちゃくちゃびっくりしましたわ、ということを書いた。僕であり、heであり、しかしそれは誰なのか。答えに近いものはすでに知られていて、不用意に見てしまった帯の文章に「自伝的小説」とあるわけで、「ぼく」であり「he」はジョイスにかなり近似した存在なのだろう。
それは「くいしんぼぼうや」が原文でどうなっているかを見ると、さらに「ああやっぱりそうなんですね」という気になる。
「くいしんぼぼうや」は原文では「baby tuckoo」となっている。tuckoo… なんなんだろう、と思ってぐぐってみると、英語のサイトで「tuckooってなんなんですか?調べたんだけどわかんなくて」みたいな質問が堪忍の知恵袋が張り裂けそう的なところに投稿されていて、「それ、tuckoo自体は特に意味なくて、ジョイスのちっちゃいときのニックネームだったみたいですよ」という回答が寄せられている。だから、もう、露骨に、自伝的な色合い出してくるよね、ジョイス、ということだった。
なんか適当なこと書いてるなと思うかもしれないけど、まあこんな調子で、考えこまずに適当にいこうぜ。気楽に、そして適度に。
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