強い矜持を持った店に行ってきた。店の名前は書かないのだけど。なんか。
友だちに教わり、インターネットの上で色々見ていたら、これはもう行かないとならない、ねばならぬ、と思ったため行った。そうしたら店の隅々に行き渡る店の方の意思のようなものに、背筋が伸びる思いだったし、泣くかと思った。
教えてくれた友だちが言っていた言葉をそのまま借りると「お客さんだけどお店の一部になるんだ」という、自分たちの振る舞いが今のこの場所を形作る大きな要素の一つになるんだ、ということがよくわかるというか、そうとしか感じられない、緊張感のある、それでいてどこまでも清々しいそんな場所で、すばらしい時間を過ごした。泣くかと思った。
それから、店の方の凛とした立ち振る舞い、店のあり方をとにかく理解してもらおう、理解いただけないなら、やめておきましょう、お互い、というその振る舞いをいくつか目撃する幸運なのかなんなのかに恵まれ、「すごい……」と思った。泣くかと思った。
なんというか、それらは、完全に効率の悪い振る舞いだと思う。うまくコミュニケーションが成立しないで誤解されたまま終わる人もたくさんあるだろう。だけどそれを全部引き受けているというか、あるべき姿のためにそれらのリスクを全部引き受けている、というのがすごい伝わってきて、そして多分、目撃したケースでは想定されたリスク通りお店の方の言葉の真意がお客さんには伝わっていなくて、それも含め、とにかくすごいことがここにある、と思った。
リスク、それから考えるコスト。考えるコストという言葉を糸井重里の『インターネット的』(何度でも言いたいけど名著!)で見たけれども、考えるコストを多大に払い、そして相手に払わせもするそのありようには凄みとも呼べそうなものを感じた。すごかった。泣くかと思った。
すごい場所を体験してきた僕は、そして、はたして。はたして僕はどこまで矜持を持ってやれるだろうか。どこまで凛とした振る舞いをできるだろうか。どこまで、空間と時間の意義深い秩序のために、本当に共感して支持して足を運んでくださる方のために、この場所を維持し進化させていくことができるだろうか。
僕はわりと対面だとヘラヘラしてしまうタイプというか、来られたことのある方はご存知だろうけれども、わりと柔和な雰囲気をたたえた優しげな男性風情だから、多分、というか自覚としてはそうなんだけど、でもなんかこう見た目とか話し方だけでももっと毅然としていたいよねーっていうのは常日頃思うよねーというところで。いやー、一気に話が関係ないところ行ったな。いったん中断したためトーンが変わった。
ともあれ、僕の名前は阿久津というのですが、阿久津の阿は「おもねる」と読むわけですが、いかにその名前に抗って阿らないでいられるか。そういう勝負と言っても過言ではないのかもしれない、ということが今書かれたわけでした。
まいいや。矜持を持つ。おもねらない。そんでストラグル。